数値集合体 ― 2006年10月02日
ゲームがわりと好きで、ファイナル・ファンタジーのオンラインゲームをやっている。一応現在進行形で、キャラクターはいるし、毎月課金も払っているが、最近はなかなかログインできない。
オンラインゲームは、普通のデジタルゲームと同じく敵を倒す戦闘ゲームの要素が強いのが普通だが、多かれ少なかれそこに生活というフレーバーが付け加えられる。ただただ武器を振り回して敵を倒すコナン・ザ・グレートみたいなキャラクターとしてプレイすることもできるけれど、その世界の中で暮らす人間として、たとえば薬を作る技術を磨いて「私は薬師なんだ」とイメージするプレイをする、なんてこともできる。
そういう意味では、普通のデジタルゲームよりも自由度の高いプレイスタイルを選択できる……ということに、なっている。
けれど、そういったいわば「生産者」みたいなプレイをするのはなかなか大変で、特にゲームの中では生産されるモノは言ってしまえばパラメータの塊でしかないから、誰が作っても同じモノができ、そこには区別が存在しない。せいぜい価格で差をつけるしかないので、生産者(あるいは商人や流通業)を営むとしたら、基本的には効率を追求して値下げ競争に勝つ、ぐらいしかない。
まあ、オンラインゲームは本質的に、「長時間ログインして長時間懸命にプレイして長時間作業を繰り返すことに耐えたプレイヤーに幸がある」タイプの遊戯だから、それに対して文句を言うのはお門違いだと思う。野球で一生懸命練習したプレイヤーが強くなることに対して文句を言うのが、愚かとしか言いようがないことであるように。
ただ、そういった場面に出くわした時、「ああいかにもパラメータを相手にしている遊戯だなぁ」という興ざめ感覚があるのもまた事実だ。
どんなに美しいグラフィックで描かれた異世界の驚異的な風景があろうと、異形でありながらリアルなモンスターが登場しようと、現実では不可能な技が炸裂しようと、私は不意に、「これは結局数字の移動に過ぎない」と気分が冷えていくのを感じる。
この幻滅に近い感覚は、似たようなものであるはずのテーブルトークのRPGではどんなに拙いマスタリングであろうと感じないことが多いし、また不思議なことにオフラインのゲームでは全くと言っていいほど感じない。その理由は、恐らく二者では微妙に異なっているだろうけれど。
全部をプレイなどしていないから偉そうなことは言えないことは承知の上であえてひとつだけ言うとしたら、現状のオンラインゲームはまだ、独自の面白さを生かしている訳ではないんだろうな、という感想である。チャットを伴う大規模なパラメータ変動の渦に還元しきれない「何か」、が私には感じられない。
それを求めているのが、ひょっとして世界に私しかいないとしたら……そんなことを悩むのは、それこそサッカーで「手が使えないからつまらない」とぼやくようなものかも知れないけれど。
オンラインゲームは、普通のデジタルゲームと同じく敵を倒す戦闘ゲームの要素が強いのが普通だが、多かれ少なかれそこに生活というフレーバーが付け加えられる。ただただ武器を振り回して敵を倒すコナン・ザ・グレートみたいなキャラクターとしてプレイすることもできるけれど、その世界の中で暮らす人間として、たとえば薬を作る技術を磨いて「私は薬師なんだ」とイメージするプレイをする、なんてこともできる。
そういう意味では、普通のデジタルゲームよりも自由度の高いプレイスタイルを選択できる……ということに、なっている。
けれど、そういったいわば「生産者」みたいなプレイをするのはなかなか大変で、特にゲームの中では生産されるモノは言ってしまえばパラメータの塊でしかないから、誰が作っても同じモノができ、そこには区別が存在しない。せいぜい価格で差をつけるしかないので、生産者(あるいは商人や流通業)を営むとしたら、基本的には効率を追求して値下げ競争に勝つ、ぐらいしかない。
まあ、オンラインゲームは本質的に、「長時間ログインして長時間懸命にプレイして長時間作業を繰り返すことに耐えたプレイヤーに幸がある」タイプの遊戯だから、それに対して文句を言うのはお門違いだと思う。野球で一生懸命練習したプレイヤーが強くなることに対して文句を言うのが、愚かとしか言いようがないことであるように。
ただ、そういった場面に出くわした時、「ああいかにもパラメータを相手にしている遊戯だなぁ」という興ざめ感覚があるのもまた事実だ。
どんなに美しいグラフィックで描かれた異世界の驚異的な風景があろうと、異形でありながらリアルなモンスターが登場しようと、現実では不可能な技が炸裂しようと、私は不意に、「これは結局数字の移動に過ぎない」と気分が冷えていくのを感じる。
この幻滅に近い感覚は、似たようなものであるはずのテーブルトークのRPGではどんなに拙いマスタリングであろうと感じないことが多いし、また不思議なことにオフラインのゲームでは全くと言っていいほど感じない。その理由は、恐らく二者では微妙に異なっているだろうけれど。
全部をプレイなどしていないから偉そうなことは言えないことは承知の上であえてひとつだけ言うとしたら、現状のオンラインゲームはまだ、独自の面白さを生かしている訳ではないんだろうな、という感想である。チャットを伴う大規模なパラメータ変動の渦に還元しきれない「何か」、が私には感じられない。
それを求めているのが、ひょっとして世界に私しかいないとしたら……そんなことを悩むのは、それこそサッカーで「手が使えないからつまらない」とぼやくようなものかも知れないけれど。
秋冬服 ― 2006年10月03日
私は裾がふわりと広がるロングスカートが好きで、ばかみたいに何着も買っている。どのお店に行っても、どの通販サイトを見ても、どのカタログを見ても、結局気になるのは似たような形のスカートだ。
そういうものに似合うのは、コンパクトにまとまったショート丈のブラウスやジャケット、ニットだと思うけれど、こちらの方は意外と気に入るものが少なくて、手持ちが少ない。
おかげで、スカートばかりが増えていき、トップスがさっぱり増えない……という奇妙なワードローブができあがっている。
今年の秋と冬は、トップスを重点的に買わなくては、なんて考えているのだけど、やっぱりなかなかこれと思うものはまだ少なくて、ごくごくシンプルなTシャツやタートルネックを揃えることになりそうである。
そんな調子で私は似たような服を何着も持っているものだから、新しい服を買ってもどうもバリエーションが増えたという感じには見えないらしい。
「さとみんはいつ見てもおんなじような雰囲気の服を着ているね」といわれたのはいつのことだったか。結構昔の話だったような気がするけれど。まあそれは、スタイルができあがっているということなのだと、自慢すればいいのかも知れないが。
そういうものに似合うのは、コンパクトにまとまったショート丈のブラウスやジャケット、ニットだと思うけれど、こちらの方は意外と気に入るものが少なくて、手持ちが少ない。
おかげで、スカートばかりが増えていき、トップスがさっぱり増えない……という奇妙なワードローブができあがっている。
今年の秋と冬は、トップスを重点的に買わなくては、なんて考えているのだけど、やっぱりなかなかこれと思うものはまだ少なくて、ごくごくシンプルなTシャツやタートルネックを揃えることになりそうである。
そんな調子で私は似たような服を何着も持っているものだから、新しい服を買ってもどうもバリエーションが増えたという感じには見えないらしい。
「さとみんはいつ見てもおんなじような雰囲気の服を着ているね」といわれたのはいつのことだったか。結構昔の話だったような気がするけれど。まあそれは、スタイルができあがっているということなのだと、自慢すればいいのかも知れないが。
表敬 ― 2006年10月04日
私は、日の丸、というものにそれほど特別な感情を持っていない。日の丸に限らず、たぶん国旗というもの全てに。
たとえばニュースで、日の丸を焼き捨てる人々の行為などが報道されても、そこにこめられた「ステロタイプとしての日本人」に対する悪意や憎悪に悲しみを感じることはあっても、自分の心にざっくりと斬りつけられるような痛みは、あまり感じない。
だから、日本の国旗が掲揚されるような場面にも、それ自体には、正直に言って何の感慨も感動もない。それが強要されたり、「ほおらこれを崇めるのが国民の義務ですよ」とうっとり言われたりするのには、鬱陶しさしか覚えない。
じゃ、日の丸を私が嫌悪したり、ぞんざいに扱ったりするのか、と言われれば、別にそういう訳でもない。
私にとって大切なものではないけれど、私ではない誰かにとってそれは特別な意味を持つ大切な象徴である、ということは理解しているつもりだし、それに対して一定の尊重と敬意を払うのはかまわない。
式典で国旗が掲揚されたら、立ち上がって敬意を表するくらいのことはするだろう。愛国心の発露では全くなく、ある人々の大切な宝物に対する表敬として。それを他人に強制しようとは思わないが。また、立ち上がらないことが不敬かと言えば、そうでもないだろうとも思う。単に、私の中にあるひとつの「敬意(愛情では全くない)」の表現としてあるだけで。
私は異国の国旗に対しても同じような態度をとるだろうし、あるいはキリスト教の象徴である十字架や、仏教の象徴である様々な像、神道の象徴である鳥居、イスラム教のモスク、その他メジャーマイナー関わらずあらゆる「ある人々に対して大切な意味を持つ象徴」に対して、全く同じように表敬するだろう。気付かずにそれを侮辱するような態度をとってしまったとしたら、静かに謝罪して、次からはそうしないよう心がけるだろう。
それは私が異国に愛国心を持っているとか、それらの宗教の信仰を持っているとか、そういったことを意味する訳ではない。単純に、自分以外の人が大切にしているものをそれなりに大切にする、つまり価値観の尊重に他ならない。その価値を認めるかどうかは、また別の問題だ。
私個人は「日の丸に象徴される日本」というものに対して、ほとんど価値を感じていない(違うもので象徴される「日本」なら、価値を感じるかもしれないが、それはまだ私の中ではっきりとはしない)。他の人にとってある種の価値がある大切なものであろうから、一定の敬意を払う。そういうことである。その代わり、「日の丸に象徴される日本」を至上に思う人も、私の価値観に一定の敬意を払ってくれれば幸いだと思う。
そういう私の思考の中では、「愛国心を育てるために国旗掲揚を義務づける」だの「起立しない教員を処罰する」だのといったお題目は、何の共感も発生させないし効果があるとも思えない。強制した時点でその価値観は死ぬのだ。つまり、強制しなければ認められないと自ら宣言しているのと同じなのである。
だから、私がそういった場面に遭遇する羽目になったとしたら、普段行っている「国旗という他人の価値への表敬」をあえて放棄して、無視という態度をとるかも知れない(侮辱という積極的攻撃をする気はないが)。価値観に対する表敬では、強制というものに対する嫌悪感を打ち消すことはできないのである。
「いや、それでも集団の中ではまとまりを作るために一定の強制は必要なのだ」という意見はわからないでもないが、正直言ってあまりかっこいい発言ではないなと思う。それは「お願いします」という態度で頼むのならともかく、高圧的に言うことではあるまい。
この手の開き直った態度はあくまで最後の手段で、これをとらねばならないということは過去に何か大きなミスを犯しているのだ、という自覚がないのは、何ともみっともない……と、私には見えるのだけど。まあ私の目にどう映るかということは、世間の人にとっては別にどうでもいいことだろうから、かまいはしないのだが。
たとえばニュースで、日の丸を焼き捨てる人々の行為などが報道されても、そこにこめられた「ステロタイプとしての日本人」に対する悪意や憎悪に悲しみを感じることはあっても、自分の心にざっくりと斬りつけられるような痛みは、あまり感じない。
だから、日本の国旗が掲揚されるような場面にも、それ自体には、正直に言って何の感慨も感動もない。それが強要されたり、「ほおらこれを崇めるのが国民の義務ですよ」とうっとり言われたりするのには、鬱陶しさしか覚えない。
じゃ、日の丸を私が嫌悪したり、ぞんざいに扱ったりするのか、と言われれば、別にそういう訳でもない。
私にとって大切なものではないけれど、私ではない誰かにとってそれは特別な意味を持つ大切な象徴である、ということは理解しているつもりだし、それに対して一定の尊重と敬意を払うのはかまわない。
式典で国旗が掲揚されたら、立ち上がって敬意を表するくらいのことはするだろう。愛国心の発露では全くなく、ある人々の大切な宝物に対する表敬として。それを他人に強制しようとは思わないが。また、立ち上がらないことが不敬かと言えば、そうでもないだろうとも思う。単に、私の中にあるひとつの「敬意(愛情では全くない)」の表現としてあるだけで。
私は異国の国旗に対しても同じような態度をとるだろうし、あるいはキリスト教の象徴である十字架や、仏教の象徴である様々な像、神道の象徴である鳥居、イスラム教のモスク、その他メジャーマイナー関わらずあらゆる「ある人々に対して大切な意味を持つ象徴」に対して、全く同じように表敬するだろう。気付かずにそれを侮辱するような態度をとってしまったとしたら、静かに謝罪して、次からはそうしないよう心がけるだろう。
それは私が異国に愛国心を持っているとか、それらの宗教の信仰を持っているとか、そういったことを意味する訳ではない。単純に、自分以外の人が大切にしているものをそれなりに大切にする、つまり価値観の尊重に他ならない。その価値を認めるかどうかは、また別の問題だ。
私個人は「日の丸に象徴される日本」というものに対して、ほとんど価値を感じていない(違うもので象徴される「日本」なら、価値を感じるかもしれないが、それはまだ私の中ではっきりとはしない)。他の人にとってある種の価値がある大切なものであろうから、一定の敬意を払う。そういうことである。その代わり、「日の丸に象徴される日本」を至上に思う人も、私の価値観に一定の敬意を払ってくれれば幸いだと思う。
そういう私の思考の中では、「愛国心を育てるために国旗掲揚を義務づける」だの「起立しない教員を処罰する」だのといったお題目は、何の共感も発生させないし効果があるとも思えない。強制した時点でその価値観は死ぬのだ。つまり、強制しなければ認められないと自ら宣言しているのと同じなのである。
だから、私がそういった場面に遭遇する羽目になったとしたら、普段行っている「国旗という他人の価値への表敬」をあえて放棄して、無視という態度をとるかも知れない(侮辱という積極的攻撃をする気はないが)。価値観に対する表敬では、強制というものに対する嫌悪感を打ち消すことはできないのである。
「いや、それでも集団の中ではまとまりを作るために一定の強制は必要なのだ」という意見はわからないでもないが、正直言ってあまりかっこいい発言ではないなと思う。それは「お願いします」という態度で頼むのならともかく、高圧的に言うことではあるまい。
この手の開き直った態度はあくまで最後の手段で、これをとらねばならないということは過去に何か大きなミスを犯しているのだ、という自覚がないのは、何ともみっともない……と、私には見えるのだけど。まあ私の目にどう映るかということは、世間の人にとっては別にどうでもいいことだろうから、かまいはしないのだが。
松竹梅 ― 2006年10月05日
アメリカの古書業界では、本の保存状態を示すのに
good, very good, near fine, fine, very fine, excellent
という単語が使われ、順によくなっていくらしい。つまりexcellentが最高、goodは一番下ということだ。グッドがグッドじゃないというのも、奇妙な話だけど、寿司屋の上と特上があるみたいなものなんだろう。
私はamazonのマーケットプレイスを時々利用する。これも、売買の後に出品者を評価しなくてはならないのだけど、同じような問題に直面する。
星5つで採点し、最高が星5、最低が星1なのだが、大抵の場合は「星5」をつけるのが普通らしいのだ。大半の業者や出品者が、星が4.5から5なのを見れば、明らかである。
でも、本来は星5というのは、何かものすごく特別によいことがあった時にとっておきたいもので、「注文しました、期限以内に本が届きました、梱包も普通にしてありました、本も言った通りの品でした、はい終わり」という場合は、本当は星3つとか4つにしておきたい。そうでなければ、何か特別にサービスのよい出品者への評価ができなくなってしまう。
でもこういうものは、自分ひとりの評価という側面とともに、評価基準を共有するという側面も持っているから、みんなが「当たり前に良かった場合を5にする」となっているのなら、ある程度はそれに合わせなくてはなるまい。……で、結局大半の出品者は星5つとなって、あとは価格の競争になってしまうという次第だ。
差別化というのは、難しいものなのだなぁ。と、平凡な感想がくるくると頭の回りを回る、雨降る夕方である。
good, very good, near fine, fine, very fine, excellent
という単語が使われ、順によくなっていくらしい。つまりexcellentが最高、goodは一番下ということだ。グッドがグッドじゃないというのも、奇妙な話だけど、寿司屋の上と特上があるみたいなものなんだろう。
私はamazonのマーケットプレイスを時々利用する。これも、売買の後に出品者を評価しなくてはならないのだけど、同じような問題に直面する。
星5つで採点し、最高が星5、最低が星1なのだが、大抵の場合は「星5」をつけるのが普通らしいのだ。大半の業者や出品者が、星が4.5から5なのを見れば、明らかである。
でも、本来は星5というのは、何かものすごく特別によいことがあった時にとっておきたいもので、「注文しました、期限以内に本が届きました、梱包も普通にしてありました、本も言った通りの品でした、はい終わり」という場合は、本当は星3つとか4つにしておきたい。そうでなければ、何か特別にサービスのよい出品者への評価ができなくなってしまう。
でもこういうものは、自分ひとりの評価という側面とともに、評価基準を共有するという側面も持っているから、みんなが「当たり前に良かった場合を5にする」となっているのなら、ある程度はそれに合わせなくてはなるまい。……で、結局大半の出品者は星5つとなって、あとは価格の競争になってしまうという次第だ。
差別化というのは、難しいものなのだなぁ。と、平凡な感想がくるくると頭の回りを回る、雨降る夕方である。
仲秋管弦祭 ― 2006年10月06日
友達にお誘いを受けて、日枝神社の仲秋管弦祭というものに行ってきました。
仲秋の名月を愛でながら、神に奉納される雅楽や舞を楽しむという優雅な夕べを過ごす……はずだったのですが、ご存じの通りあいにくの悪天候。
演奏するところは一応屋内、客席も屋内だけれど、出入口は全て開け放し、私の座った席は後ろの方でかろうじて屋根があるだけの場所、雨も風も容赦なく吹きこんできて大変でした。お友達がくれた使い捨てカイロがなければ、風邪をひいていたことは間違いありません。おかげで、雅楽の感想どころではありませんでした。
とはいえ、舞を奉納する舞姫たちの美しさは、目を見張るものがありました。姿勢や立ち姿そのものが美しいという存在を見るのは久しぶりです。眼福でございました。
仲秋の名月を愛でながら、神に奉納される雅楽や舞を楽しむという優雅な夕べを過ごす……はずだったのですが、ご存じの通りあいにくの悪天候。
演奏するところは一応屋内、客席も屋内だけれど、出入口は全て開け放し、私の座った席は後ろの方でかろうじて屋根があるだけの場所、雨も風も容赦なく吹きこんできて大変でした。お友達がくれた使い捨てカイロがなければ、風邪をひいていたことは間違いありません。おかげで、雅楽の感想どころではありませんでした。
とはいえ、舞を奉納する舞姫たちの美しさは、目を見張るものがありました。姿勢や立ち姿そのものが美しいという存在を見るのは久しぶりです。眼福でございました。
感動表現 ― 2006年10月10日
私は、レビュアーには向いてないなぁとよく思う。
もっとも、じゃあ向いてるものなんて何かあるのかと問われれば、何もない、少なくとも何も思いつかないという冷厳な事実に行き当たって呆然としてしまうけれど、そういった一般論を脇にどけても、やはり向いていない、と思う。
自分の感動を表現する、ということがうまくないのだ。美しい絵、美しい音楽、美しい風景、美しい物語、美しい……なにか。それらに触れた時、私の心からは言葉がなくなる。空っぽの、とても空虚なものになる。何も、なくなる。
不思議なことに、別にそれほど感動した訳ではないものを表現したりする方が、言葉はたくさん生まれてくる。たぶん、その言葉に対する他人の評価も、高い。
あるいは、客観的に見て決して上質ではないもの、欠点だらけで他人の評価が冷ややかなものを擁護したり、それに対する私の感動を伝えたりする時には、私はとても雄弁になる。書いても書いても尽きない、と思うこともある。
とても上質なもの、とても美しいもの、とても素晴らしいもの、は、それ自体否定しようもない価値を備えていて、それは私の手の及ぶところではない。そこに私が入りこむ隙間もない。それはとても厳然と、在る。
私の言葉は常に、その対象に私が入りこむことによって生まれる、すなわち私は私のことしか書かないから(こう表現するとつくづく自分のいやらしさにうんざりするのだが)、すぐれたものについて私が何かを書くことができないのは当たり前だろう。
美しいものは、私の許可も協力も必要とすることなく美しくて、そのはるかな遠さが私の言葉を隔てるのだ。
客観性というものがある意味で存在しない私の文章が、レビューに向いていないのは、たぶんそういう理由による。
もっとも、じゃあ向いてるものなんて何かあるのかと問われれば、何もない、少なくとも何も思いつかないという冷厳な事実に行き当たって呆然としてしまうけれど、そういった一般論を脇にどけても、やはり向いていない、と思う。
自分の感動を表現する、ということがうまくないのだ。美しい絵、美しい音楽、美しい風景、美しい物語、美しい……なにか。それらに触れた時、私の心からは言葉がなくなる。空っぽの、とても空虚なものになる。何も、なくなる。
不思議なことに、別にそれほど感動した訳ではないものを表現したりする方が、言葉はたくさん生まれてくる。たぶん、その言葉に対する他人の評価も、高い。
あるいは、客観的に見て決して上質ではないもの、欠点だらけで他人の評価が冷ややかなものを擁護したり、それに対する私の感動を伝えたりする時には、私はとても雄弁になる。書いても書いても尽きない、と思うこともある。
とても上質なもの、とても美しいもの、とても素晴らしいもの、は、それ自体否定しようもない価値を備えていて、それは私の手の及ぶところではない。そこに私が入りこむ隙間もない。それはとても厳然と、在る。
私の言葉は常に、その対象に私が入りこむことによって生まれる、すなわち私は私のことしか書かないから(こう表現するとつくづく自分のいやらしさにうんざりするのだが)、すぐれたものについて私が何かを書くことができないのは当たり前だろう。
美しいものは、私の許可も協力も必要とすることなく美しくて、そのはるかな遠さが私の言葉を隔てるのだ。
客観性というものがある意味で存在しない私の文章が、レビューに向いていないのは、たぶんそういう理由による。
改装中 ― 2006年10月11日
本家のホームページの方も、ちまちまと時間を見つけては改装を進めている。今月中にはまた更新する予定。といっても大きな変化は何もなく、滞っているコンテンツをまとめてきちんと更新し、同時にこちらのBlogのカテゴリと対応させて更新をやりやすくする、というだけのことだ。
私のページは、かつて「完全Lynx対応」と冗談で謳われたこともある、全てが文章で構築されたものだから、本来はとってもBlogに向いているのだろう。写真もイラストもほとんどなく、はてはテーブルタグすらあまり見当たらない。私のページが表示できないという苦情は、どんな環境のどんな人からも受けたことがないほどの、プリミティブな道具立てで作られている。これならば、どんなに機能が少なくても、今どき提供されているブログサービスなら何にでもることができるだろうな。
これで私の文章が、人様からお金をいただけるような性質と品質を兼ね備えていれば、どこへ行ったって大丈夫鉛筆一本でやっていけるさと胸を張れるのだろうが……ま、己の無能さを愚痴の種にするのはやめておこう。
という訳で、10月中には本家のページは更新される予定なので、読んでいる人がもしもいたら、どうぞよろしく。
http://www.asahi-net.or.jp/~jn2a-stu/index.html
私のページは、かつて「完全Lynx対応」と冗談で謳われたこともある、全てが文章で構築されたものだから、本来はとってもBlogに向いているのだろう。写真もイラストもほとんどなく、はてはテーブルタグすらあまり見当たらない。私のページが表示できないという苦情は、どんな環境のどんな人からも受けたことがないほどの、プリミティブな道具立てで作られている。これならば、どんなに機能が少なくても、今どき提供されているブログサービスなら何にでもることができるだろうな。
これで私の文章が、人様からお金をいただけるような性質と品質を兼ね備えていれば、どこへ行ったって大丈夫鉛筆一本でやっていけるさと胸を張れるのだろうが……ま、己の無能さを愚痴の種にするのはやめておこう。
という訳で、10月中には本家のページは更新される予定なので、読んでいる人がもしもいたら、どうぞよろしく。
http://www.asahi-net.or.jp/~jn2a-stu/index.html
同盟軍 ― 2006年10月12日
田中芳樹のかの名作「銀河英雄伝説」を読んだのは中学生くらいのことだ。
大人になってたまに読み返すことがあるけれど、今読むと、この物語の中にただよう政治嫌悪、政治家嫌悪とも感じられる空気は一体何なのだろうという違和感のようなものを、感じる。
(もっとも、田中芳樹の作品は全般的にそういう傾向を持っているのだとは、後になって知ったのだが)
帝国と同盟という、どこか懐かしい呼び名を持つふたつの勢力(正確にはその間にあるもうひとつと合わせて三大勢力なのだが)が相争うことで生まれるこの物語は、当然ながら読者としてはそのどれかに感情移入して読むのが最もスタンダードな読み方だろう。そして、同盟軍に感情移入した人は、結構多かったに違いない。
微妙な問題となるのは、「同盟軍」に感情移入したは多くても「同盟」は嫌っていたのではなかろうかということだ。この物語において、自由惑星同盟は、末期的衆愚に陥った民主主義の最悪の形として表現されていて、その中で最も本来忌むべき存在である「軍隊」が最も美しく民主的・理性的・平和的でさえある集団として描かれる。この矛盾は、特に自由惑星同盟およびヤン・ウェンリーの存在の要となるのだが。
同盟軍は、とても好ましく美しい集団として描かれている。ヤンの養子であるユリアンの視点で描かれた、同盟軍の要塞イゼルローンの日常を描いた微笑ましい外伝まであるくらいだ。読んだ人の多くが、ここで生活したい、ここで生きて彼らに会いたい、と思う力に満ちている。
だがはっきりと描かれていない、もしかしたら読者の多くも気付いていないかも知れない暗部が、そこにはある。
それは、同盟軍という集まりが、非常に同質性の高い集団であるということだ。言い換えれば、似たもの同士、それも微妙な差異によって互いに補い合っている、奇跡的に「都合のいい集団」なのである。
「え? あんなに個性的で違った人間が集まっているのに?」と言われるかも知れない。確かにキャラクターとしては、彼らは非常に異なっていて個性が際立っている。だが彼らは、演劇の配役のようにドラマツルギーとしての「役割」が上手に分担されていて、そういう意味での衝突はないのだ。
キャラがかぶることはないし、自分の本質と異なる役割を与えられて苦悩することもない。さらに言えば、ヤン・ウェンリーのカリスマに対する愛情と忠誠心という核は全く揺らぐことがない。彼らはひとつの目的に向かって、足並みを揃えて、各々分担された重要な役割を果たしつつ、「この中の誰が欠けても駄目だし、誰が突出しても駄目だ」という暗黙の了解に従いながら、邁進していくのである。
そういう意味で、彼らの利害はほとんど常に一致して、全くと言っていいほど葛藤がない。さらに言えば、知的レベルも思想も価値観も、おおむね揃っていて軋轢を生むほどの差異はない。「大事な話が通じない」「言っていることの本質が伝わらない」「気持ちはわかるが利害の上で到底協力できない、あるいはその逆」といった葛藤は、この集団について言えば皆無なのだ。
つまり同盟軍には、政治はない。似たもの同士で、しかも「みんなでひとつ」を実現できる奇跡的な配役が揃った(もちろんそれはヤン・ウェンリーがある程度意識して人材をスカウトしているという側面もある)スケールの大きな「仲良し集団」だから、感情・利害・価値観の調整である政治は必要ないのだ。
同盟軍が、どこか学生が走りまわる学園祭めいた、容赦ない魅力と快活さを備えているのは、恐らくそこに由来する。
奇妙なことに、独裁者が君臨する帝国および帝国軍の方が、知的レベルも価値観も利害も相反する、冷ややかでリアルな集団として成立しており、そこでは日々妥協と政治が繰り返される。
生理的に嫌悪する相手と共闘しなくてはならない苦痛、話の通じない愚かに見える相手に語り続けなくてはならない虚脱感、価値観が対立する相手と共存をはかる緊張感、そういった社会生活のある意味では「しんどい」部分が、民主主義という政治形態でこそ必要、かつなくてはならない本質なのだが、それが帝国の中で描かれるというのはちょっとしたパラドックスだ。
とはいえ、同盟軍が学園祭的空間を物語の中で安楽に永続できた訳ではない。
同盟軍は、「外部」からの挑戦や侵入にさらされることで、何度か危機に陥る。そしてその「外部」とは帝国のことではなく、皮肉にも同盟の上層部なのだ。彼らの最大の敵——つまり知的レベル・価値観・利害が対立する対象は、ほとんど常に最大の味方である。
そして彼らは、その「敵」に対して、服従か対立かはするが、妥協も調整もしない。同盟軍は最後まで「政治」とは無縁に突っ走るのである。そういった意味では、彼らは「異質な相手との共存」はついに知らずに終わった。
もっとも、物語上では同盟軍に敵対する「味方」の方が非常識で非妥協的で共存を拒否するために、それは不可能と思わせるのだが。そういう意味で、彼らは深刻な葛藤を経験することもない。選択の余地がないところに、葛藤は存在しないのだから。
わずかにヤンの死後、彼が率いていた反帝国組織の下層では反発や軋轢が起こるが、組織の中枢を揺るがすレベルとしては描かれないし、中枢部分は全く揺らがない。
田中芳樹は、恐らくチャーチルの「民主主義は最悪の政治形態だ。 これまで試みられた他のすべての政治形態を別にすれば」を素直に継承している人物であり、この物語でも彼は、民主主義の大切さを何度か描写している。
しかし、この物語の最大の皮肉は、独裁政治が滅びなかったことでも、「最も好ましい民主主義的な集団」が軍隊であったことでも、たぶんない。
その「最も好ましい民主主義的な集団」が本質的には民主主義的な苦悩や葛藤や政治とはまるきり無縁の、一回きりの奇跡でしかなかった——つまり民主主義っぽいけれど民主主義ではなかったということなのだろう。
まあ、民主主義って何さ、という話を言い出すと、話は紛糾の一途を辿りそうなので、この辺でやめておくけれど。
大人になってたまに読み返すことがあるけれど、今読むと、この物語の中にただよう政治嫌悪、政治家嫌悪とも感じられる空気は一体何なのだろうという違和感のようなものを、感じる。
(もっとも、田中芳樹の作品は全般的にそういう傾向を持っているのだとは、後になって知ったのだが)
帝国と同盟という、どこか懐かしい呼び名を持つふたつの勢力(正確にはその間にあるもうひとつと合わせて三大勢力なのだが)が相争うことで生まれるこの物語は、当然ながら読者としてはそのどれかに感情移入して読むのが最もスタンダードな読み方だろう。そして、同盟軍に感情移入した人は、結構多かったに違いない。
微妙な問題となるのは、「同盟軍」に感情移入したは多くても「同盟」は嫌っていたのではなかろうかということだ。この物語において、自由惑星同盟は、末期的衆愚に陥った民主主義の最悪の形として表現されていて、その中で最も本来忌むべき存在である「軍隊」が最も美しく民主的・理性的・平和的でさえある集団として描かれる。この矛盾は、特に自由惑星同盟およびヤン・ウェンリーの存在の要となるのだが。
同盟軍は、とても好ましく美しい集団として描かれている。ヤンの養子であるユリアンの視点で描かれた、同盟軍の要塞イゼルローンの日常を描いた微笑ましい外伝まであるくらいだ。読んだ人の多くが、ここで生活したい、ここで生きて彼らに会いたい、と思う力に満ちている。
だがはっきりと描かれていない、もしかしたら読者の多くも気付いていないかも知れない暗部が、そこにはある。
それは、同盟軍という集まりが、非常に同質性の高い集団であるということだ。言い換えれば、似たもの同士、それも微妙な差異によって互いに補い合っている、奇跡的に「都合のいい集団」なのである。
「え? あんなに個性的で違った人間が集まっているのに?」と言われるかも知れない。確かにキャラクターとしては、彼らは非常に異なっていて個性が際立っている。だが彼らは、演劇の配役のようにドラマツルギーとしての「役割」が上手に分担されていて、そういう意味での衝突はないのだ。
キャラがかぶることはないし、自分の本質と異なる役割を与えられて苦悩することもない。さらに言えば、ヤン・ウェンリーのカリスマに対する愛情と忠誠心という核は全く揺らぐことがない。彼らはひとつの目的に向かって、足並みを揃えて、各々分担された重要な役割を果たしつつ、「この中の誰が欠けても駄目だし、誰が突出しても駄目だ」という暗黙の了解に従いながら、邁進していくのである。
そういう意味で、彼らの利害はほとんど常に一致して、全くと言っていいほど葛藤がない。さらに言えば、知的レベルも思想も価値観も、おおむね揃っていて軋轢を生むほどの差異はない。「大事な話が通じない」「言っていることの本質が伝わらない」「気持ちはわかるが利害の上で到底協力できない、あるいはその逆」といった葛藤は、この集団について言えば皆無なのだ。
つまり同盟軍には、政治はない。似たもの同士で、しかも「みんなでひとつ」を実現できる奇跡的な配役が揃った(もちろんそれはヤン・ウェンリーがある程度意識して人材をスカウトしているという側面もある)スケールの大きな「仲良し集団」だから、感情・利害・価値観の調整である政治は必要ないのだ。
同盟軍が、どこか学生が走りまわる学園祭めいた、容赦ない魅力と快活さを備えているのは、恐らくそこに由来する。
奇妙なことに、独裁者が君臨する帝国および帝国軍の方が、知的レベルも価値観も利害も相反する、冷ややかでリアルな集団として成立しており、そこでは日々妥協と政治が繰り返される。
生理的に嫌悪する相手と共闘しなくてはならない苦痛、話の通じない愚かに見える相手に語り続けなくてはならない虚脱感、価値観が対立する相手と共存をはかる緊張感、そういった社会生活のある意味では「しんどい」部分が、民主主義という政治形態でこそ必要、かつなくてはならない本質なのだが、それが帝国の中で描かれるというのはちょっとしたパラドックスだ。
とはいえ、同盟軍が学園祭的空間を物語の中で安楽に永続できた訳ではない。
同盟軍は、「外部」からの挑戦や侵入にさらされることで、何度か危機に陥る。そしてその「外部」とは帝国のことではなく、皮肉にも同盟の上層部なのだ。彼らの最大の敵——つまり知的レベル・価値観・利害が対立する対象は、ほとんど常に最大の味方である。
そして彼らは、その「敵」に対して、服従か対立かはするが、妥協も調整もしない。同盟軍は最後まで「政治」とは無縁に突っ走るのである。そういった意味では、彼らは「異質な相手との共存」はついに知らずに終わった。
もっとも、物語上では同盟軍に敵対する「味方」の方が非常識で非妥協的で共存を拒否するために、それは不可能と思わせるのだが。そういう意味で、彼らは深刻な葛藤を経験することもない。選択の余地がないところに、葛藤は存在しないのだから。
わずかにヤンの死後、彼が率いていた反帝国組織の下層では反発や軋轢が起こるが、組織の中枢を揺るがすレベルとしては描かれないし、中枢部分は全く揺らがない。
田中芳樹は、恐らくチャーチルの「民主主義は最悪の政治形態だ。 これまで試みられた他のすべての政治形態を別にすれば」を素直に継承している人物であり、この物語でも彼は、民主主義の大切さを何度か描写している。
しかし、この物語の最大の皮肉は、独裁政治が滅びなかったことでも、「最も好ましい民主主義的な集団」が軍隊であったことでも、たぶんない。
その「最も好ましい民主主義的な集団」が本質的には民主主義的な苦悩や葛藤や政治とはまるきり無縁の、一回きりの奇跡でしかなかった——つまり民主主義っぽいけれど民主主義ではなかったということなのだろう。
まあ、民主主義って何さ、という話を言い出すと、話は紛糾の一途を辿りそうなので、この辺でやめておくけれど。
大神 ― 2006年10月13日
たまには日記らしいことも書いてみよう。
草くんに勧められた「大神」を昨日からプレイ中。白い狼の姿をした神になって、世界を闇に陥れようとする大妖怪を退治する、ジャパネスクなアクションゲーム……らしい。アクションゲームのスキルが著しく低い私だが、幸いこのゲームは救済手段がたくさんあって、成績にこだわりさえしなければ、今のところ何とか進行できている。ところどころ、それほど重要ではないところで攻略本を見ることはあるけれど。
テレビゲームは「物語」よりも、「世界観」を表現するのに向いている媒体かも知れない、とこういうゲームを遊んでいると思う。
「大神」の世界は、二次元と三次元の狭間というか、一見三次元の世界だけれど実は書き割りのような背景だったり(技術の限界ではなく、「書き割り」として描かれている)筆を使ってプレイヤーが世界に絵や線を描いたりと、二次元の世界観が割りこんでくる。この奇妙な感覚は、小説ではもちろん表現できないだろうし、たぶん絵画でも、映画でも、アニメでも難しい。
物語と世界観は、もちろん相反する要素ではなくて、両立するし助け合うこともある(残念ながら阻害しあうことも、ある)。
たとえばファイナル・ファンタジーシリーズ(特に7以降)などは、ゲームシステムを含めた世界観が明確に構築されていて、しかもそれが物語の重要な柱になっている。というより、物語のテーマを最も魅力的に語るために、世界そのものが構築されていると言った方がよいか。極端な話、主人公達の冒険が終わった時、世界は終わる。滅亡するという意味ではなく、その世界が語るべき物語は終わるのだ。
(余談ながら、ファイナル・ファンタジーシリーズの「続編」がどれも奇妙な歪みを見せているのは、そのせいかも知れない……と思う)
「大神」の場合は、物語は世界観を語る道具立てでしかない。この世界観を最も魅力的に語るためのツールとしてストーリーが存在するのであって、その逆ではない。だから「大神」の物語は(私がプレイしている今のところは、だけど)とても単純明快だ。ドラマツルギーとしての意外性はあまりない。たぶんこれからもあまりないだろう。
それは感動がないという意味ではもちろんない。単純で迷いのないストーリーの中で、プレイヤーはこの不可思議な世界の隅々を探検し、花を咲かせ、岩を砕き、鳥と戯れ、風を吹かせ、月を呼ぶ。ストーリーを悩む必要がないからこそ、「異世界らしさ」を堪能できるとも言える。
どちらを選ぶかは、恐らく好みの問題であって、もちろんその間に優劣や正誤はない。私のように、どっちも好きという欲張りな人もたくさんいるだろう。
だがどちらにしても、「世界」をおざなりに構築したのでは面白くないという点では一緒であって、そういう意味ではテレビゲームの製作は今後ますます大変になっていくような気も……するのである。
草くんに勧められた「大神」を昨日からプレイ中。白い狼の姿をした神になって、世界を闇に陥れようとする大妖怪を退治する、ジャパネスクなアクションゲーム……らしい。アクションゲームのスキルが著しく低い私だが、幸いこのゲームは救済手段がたくさんあって、成績にこだわりさえしなければ、今のところ何とか進行できている。ところどころ、それほど重要ではないところで攻略本を見ることはあるけれど。
テレビゲームは「物語」よりも、「世界観」を表現するのに向いている媒体かも知れない、とこういうゲームを遊んでいると思う。
「大神」の世界は、二次元と三次元の狭間というか、一見三次元の世界だけれど実は書き割りのような背景だったり(技術の限界ではなく、「書き割り」として描かれている)筆を使ってプレイヤーが世界に絵や線を描いたりと、二次元の世界観が割りこんでくる。この奇妙な感覚は、小説ではもちろん表現できないだろうし、たぶん絵画でも、映画でも、アニメでも難しい。
物語と世界観は、もちろん相反する要素ではなくて、両立するし助け合うこともある(残念ながら阻害しあうことも、ある)。
たとえばファイナル・ファンタジーシリーズ(特に7以降)などは、ゲームシステムを含めた世界観が明確に構築されていて、しかもそれが物語の重要な柱になっている。というより、物語のテーマを最も魅力的に語るために、世界そのものが構築されていると言った方がよいか。極端な話、主人公達の冒険が終わった時、世界は終わる。滅亡するという意味ではなく、その世界が語るべき物語は終わるのだ。
(余談ながら、ファイナル・ファンタジーシリーズの「続編」がどれも奇妙な歪みを見せているのは、そのせいかも知れない……と思う)
「大神」の場合は、物語は世界観を語る道具立てでしかない。この世界観を最も魅力的に語るためのツールとしてストーリーが存在するのであって、その逆ではない。だから「大神」の物語は(私がプレイしている今のところは、だけど)とても単純明快だ。ドラマツルギーとしての意外性はあまりない。たぶんこれからもあまりないだろう。
それは感動がないという意味ではもちろんない。単純で迷いのないストーリーの中で、プレイヤーはこの不可思議な世界の隅々を探検し、花を咲かせ、岩を砕き、鳥と戯れ、風を吹かせ、月を呼ぶ。ストーリーを悩む必要がないからこそ、「異世界らしさ」を堪能できるとも言える。
どちらを選ぶかは、恐らく好みの問題であって、もちろんその間に優劣や正誤はない。私のように、どっちも好きという欲張りな人もたくさんいるだろう。
だがどちらにしても、「世界」をおざなりに構築したのでは面白くないという点では一緒であって、そういう意味ではテレビゲームの製作は今後ますます大変になっていくような気も……するのである。
一気呵成 ― 2006年10月16日
ストーリーがあるものは、まず最初に一気に通して鑑賞する。それもできれば自分のペースで。
だから、本はもちろん、読み始めたら一気に最後まで(続き物なら最終巻まで)読む。映画も、できたらDVDとかで、早送りや巻き戻しをしながら自分のペースで一気に見たい、と思う人間だ。
だからゲームも、一気にプレイするのが理想。できれば数日それにかかりきりになりたい。さすがにそれは無理だけれど、やる時は集中してやるので、目が真っ赤になる。
そんな人間なので、ゲームの評価要素のひとつとして、「テンポよく遊べるか」という項目を重視している。何も予備知識がない状態で、ゲームデザイン時に想定されているような道を寄り道なく近道もせず真っ直ぐ通っていった時、ぎりぎり通過できるようなバランスが好きだ。時に終盤の、話の全容が一望のもとになって、あとは疾走しようとしていく状態で何度も挑戦させられるのは、テンポが崩れてあまり好きではない。困難な戦闘が嫌なのではなく、メリハリの問題である。
FF12が、非常によくできたゲームだと思いつつも今ひとつ盛り上がれなかった理由のひとつは、たぶんそこにある。特に寄り道もせず、だが近道やショートカットもしないという状態でボスとの戦いがてんでレベル不足だったり、決まった装備がないと突破がいきなり困難になったり、ということが多くて、気分がぶつ切りになるのだ。
そういう中でも集中力を途切れさせることなく、没頭できれば、それが優れたプレイスキルということなのかも知れない。どうやら私は、まだまだ優れたゲーマーには程遠そうだ。
だから、本はもちろん、読み始めたら一気に最後まで(続き物なら最終巻まで)読む。映画も、できたらDVDとかで、早送りや巻き戻しをしながら自分のペースで一気に見たい、と思う人間だ。
だからゲームも、一気にプレイするのが理想。できれば数日それにかかりきりになりたい。さすがにそれは無理だけれど、やる時は集中してやるので、目が真っ赤になる。
そんな人間なので、ゲームの評価要素のひとつとして、「テンポよく遊べるか」という項目を重視している。何も予備知識がない状態で、ゲームデザイン時に想定されているような道を寄り道なく近道もせず真っ直ぐ通っていった時、ぎりぎり通過できるようなバランスが好きだ。時に終盤の、話の全容が一望のもとになって、あとは疾走しようとしていく状態で何度も挑戦させられるのは、テンポが崩れてあまり好きではない。困難な戦闘が嫌なのではなく、メリハリの問題である。
FF12が、非常によくできたゲームだと思いつつも今ひとつ盛り上がれなかった理由のひとつは、たぶんそこにある。特に寄り道もせず、だが近道やショートカットもしないという状態でボスとの戦いがてんでレベル不足だったり、決まった装備がないと突破がいきなり困難になったり、ということが多くて、気分がぶつ切りになるのだ。
そういう中でも集中力を途切れさせることなく、没頭できれば、それが優れたプレイスキルということなのかも知れない。どうやら私は、まだまだ優れたゲーマーには程遠そうだ。
最近のコメント