完成形2006年05月02日

ふとしたことで、昔の彼氏くんのことなど思い出していました。
私はねぇ、面食いなのですよ。
過去に交際した男性はみな、凛々しい顔立ちであります。でもぱっと見てあからさまにかっこいい!という感じではなくて、ごく自然に整った顔立ち。眼鏡の似合う文系オタクの系統の、かっこいい人々でした。
私の顔の好みというのは、とてもわかりやすくて、並べれば「ああこれね」と百人が百人納得できるようなものです。

なのに、軽鴨の君というのは、確かに文系オタクの正統的な顔立ちではありますが、「かっこいい」とはちょっと違うタイプのひとです。
人によっては、田中耕一さんに似てるように見えるらしいです。まぁ、かっこいい顔というのとは違いますね。
よく言うでしょう、「あいつ、普段吹聴してる好みと全然違うタイプとくっついたよなぁ」ってやつ、私もそれな訳です。
何故なんでしょうねぇ。
その理由は未だに説明できなくて、その「説明できない」ということは、自分の言動についてきちんと言語化することの得意な私としては、大変珍しい話です。

とはいえ一つ言えることがあって、それは、軽鴨の君の顔というのは、一般的な意味での「かっこよさ」とは微妙に違うかもしれないけれど、とても完成されている、ということです。
彼は、自分が誰なのかをよく知っていて、ごく自然にその中におさまっています。
私が常に、「こうでしかありえない」自己と格闘しているのとは大違いです。
自分が歩む道を知っており、自分というものを知っており、さらにその自己によって世界に貢献し認められている人間は、この世に決して多くはありませんが、彼はその幸福な人間のひとりに間違いなく、そういう人しか持っていない完成された「かたち」を有しています。

私がかつて恋した人たちは、皆それぞれに苦しみ悩み、その「かたち」を目指して格闘していました。凛々しく整った彼らの顔立ちは、しばしばそのために痛ましい表情を見せていたものです。
美とは、幸福と全く別のところに存在するもの、なのか。
彼らは今、どんな顔をしているのか。未だ凛々しくけれど痛ましい顔を見せているのか。それとも、彼らもすでに、幸福な「かたち」を見いだしているのか。

そんなことをね、時々考えたりするのです。
もっとも、彼らの人生について詮索する権利をとうに私は失っているので、それらの思考は全て、野次馬の好奇心以上の位置を占めることは叶わないのですが。
それでも、世界のどこかにいる彼らがどんな顔をしているのか、私は時々見たくなります。

笑顔2006年05月04日

しんどい時は、「しんどいよー」と叫んだ方が、たぶんいいのだと思います。
それを学んだのは大学ぐらいの時でしたか、しんどいよー、という顔をせず、そういう声もあげなかったために、まぁ振られたり、厄介事が降ってきたり、色々問題が起こったものであります。
それ以来、辛い時は「辛そうな顔」をして、「辛そうな声」をあげて、「辛そうな言葉」を書くように心がける、日々がしばらく続きました。

それが、どうも、最近は薄れてきたようです。

私は近頃、結構しんどいことが続きましたが、他人の目がある時には、とても穏やかな「笑顔」だけを浮かべていることが多くなりました。
これはいかんぞ、と思ったので、Blogだ日記だという場面では「しんどいです」という文章を書くように心がけていましたが、それで心配した人々が実際に顔を合わせると、私がとっても穏やかな「笑顔」を絶やさないので、拍子抜けするみたいです。

笑顔が絶えないということは、根っこが深いということでもあります。

でも、笑っている方がたぶん、私にはふさわしいと思うのです。
恐らく、私は、どんなに心がささくれだっていたとしても、幸福な人間であるはず、なのでしょうから。

暗号2006年05月09日

暗号というものは、解かれることを望んでいるのではないかと錯覚することがある。
解かれることを拒みつつ望む、といった二律背反性を持つものに、私は滅法弱い。弱い、というのは「好き」という意味とは違って、もっと露骨な、「逆らえない」という感覚である。
よく、様々なハラスメントの加害者が、「あやまれよ」と怒鳴りあやまられると「それで済むと思ってるのか」と怒鳴る、といった悲惨な二律背反性を見せるというけれど、それに被害者が拘束される感覚を、私はリアルに感じることができる。ただ、何故そういうものに束縛されるのか?ということを明確に説明することはまだできないが。
話が暗くなったけれど、そもそも書こうと思っていたのは、そういうことではなくて。
解くなと明示しつつ解かれることを求める、という倒錯的な悦びを、暗号や暗号製作に持つ人は、たぶんいるんじゃないかというだ。
暗号は、向こうで自分を解き明かそうとする者が四苦八苦している様を、背中で感じながら(正面から見つめたりはしない)、ひそかに微笑んでいるのではあるまいか。

前にこのBlogのどこかで書いたけれど、私には「被理解願望」とでも表現するべき欲望があって、他人に理解されたい、理解して欲しいと強く思うことがある。
キスをされるより、ダイヤモンドを贈られるより、手に手を取って世界の果てまで駆け落ちされるより、理解されることの方がうれしい。
かつて友達が集まった飲み会で、ぽつりと誰かが「理解という名目で自分の内面に踏みこまれるのが嫌で」と言ったけれど、私はそれを聞いて、その気持ちに対する同情とは別に、何とうらやましいと思ったものだ。私は、踏みこまれたと思うほど「理解された」ことも、「理解を試みられた」こともない。
好意的な友人の多くの「理解」さえ(表層的であれ内面的なものであれ)私の心を納得させたものはごく僅かである。
納得できなかったのは、そこに描かれた「彼らの理解した私の像」が、私のプライドをへこませるほど醜かったからではない。ただ、「違う」というだけの話だ。だから、私も他人のことを、まだ理解などできていないのだろう。
理解されていない理由は恐らくとても単純で、私が非常に複雑な要素から成り立っており(この言葉にプラスの意味は全くない)、そしてその複雑さをあえて乗り越えて解き明かすほどの価値が私にはないからだ。暗号は、解いた見返りがあってこそ挑戦される。価値のない言葉は暗号にされないし、されても誰も振り向かない。


昔、「メニューや店内表示の全てが暗号になってるカフェがあったら、面白いんじゃないかな」と思いついて、元気よく軽鴨の君に話したら、
「そんな面倒なシステムじゃ、誰も注文できなくて倒産するでしょう」
と諭された。全くその通りでぐうの音も出なかった。

薬箪笥2006年05月10日

昔から、引き出しがいっぱいあるものが大好きだ。
だから今でも、薬箪笥に猛烈な憧れがある。
できることなら、家の全ての壁を(本棚以外のところは)引き出しにしてしまいたい。そしてかっきりした四角い縁が金属のラベルをとりつけて、ありとあらゆるものを細分化して並べたい。気が狂うほどの引き出しに囲まれたい!
前に「階段箪笥」なるものを見つけた時は、その家に引っ越したい!と本気で思った。階段が引き出しになってるなんて! それから「あしながおじさん」で、ジュディが自分の寮の部屋に置いたクロゼットの引き出しを階段のようにして出窓に上る、というくだりには、ジャーヴィの登場よりもあしながおじさんの正体よりも心ときめいた。

今から6年くらい前になるか、たまたま町田を訪れた時、東急ハンズをのぞいたら、中国物産展みたいなものをやっていて、そこで中国家具が売っていた。そこには、DVDを横にしたらぴったり収まる大きさの引き出しが、3行8列についた箪笥があった。引き出しのひとつひとつに、輪っかの取っ手がさがり、引き出しはそれぞれ勝手気ままに木目を主張していた。
私は、軽鴨の君があちこち見て回っている間、ながながと、その箪笥を見つめ続けた。
見つめ続けたからといって、値札のゼロが減る訳でもなく、その箪笥が空中浮遊して私の後をついてくるはずもない。第一、その箪笥がうちにやってきたとして、一体何を入れるのだ? いくらDVDがぴったり収まるといったって、そんなに大量のDVDソフトを持ってるでもなし、箪笥の引き出しに入れちゃったらどこに何のソフトを入れたかわからなくなって、混乱するのが関の山だ。おまけに、冷静になってみたら、その箪笥を置けるような壁の隙間なんか到底ないではないか。
それでも、私は、見つめ続けた。
それを見ていた軽鴨の君は気の毒になったのか愛おしくなったのか、数日後、もう一度私を連れて町田の東急ハンズへ足を運び、その箪笥の配送を手配したのである。

で、その後に、わが家には部屋で放し飼いされる小鳥がやってくることになって、その箪笥は糞よけに新聞紙を頭にかぶせられつつ、ベランダに通じる掃き出し窓の前に太陽光を遮りつつ鎮座して、iTunesに取り込んだ後のCDを収めるのに使われている。他にも色々雑多なものが、全然有効に活用されることなく、ここに眠っている。
全く大事にされていないような有様だけど、私はこの箪笥がどの家具よりも好きだ。災害の時、家具をひとつしか救えないなら、たぶんこれを選ぶだろうというくらい。

今でも私は引き出しが欲しい。家にある全ての家具は、引き出しと本に支配されるべきだと半ば本気で考えている。引き出しさえ必要な数揃えば、この混沌とした部屋は秩序の王国と変わるはずなのだ。
問題は、必要な数の引き出しがいくつなのか、未だにわかっていないということなのだけれど。

部屋2006年05月11日

最小限と最大限の双方に憧れる傾向があるので、
「九坪の家」
にも大変心ときめきます。かの、スミレアオイハウスですね。最小限の大きさの中に、最小限のマテリアルだけを揃えた住居を作り、外とゆるやかにつながりつつ暮らす。素敵です。
一方で、私は何もかも自分の大切なものを手元に揃えておきたい、という半ば狂気じみた欲望も持っています。
結果として、どっちにもならず、片づいているとは言えない混沌の中、コレクションとも呼べない半端なものが家の中にあふれるという訳です。
昔、「理想の家は?」と訊かれて、
「自分で建てるなら、部屋がひとつしかない小さな家。
 買うのなら、部屋が100くらいある、中に何があるのか誰も把握しきっていないような、『秘密の花園』に出てくるような古いお屋敷」
と答えたのですが、意外とこれに同感な人は多いのではないでしょうか。
どっちを選ぶにしても、選んでしまえばそれにフィットして生活できるとは思うんですよね。最小限に研ぎ澄ました生活であれ、最大限に自分の小宇宙を築き上げる生活であれ。どっちも選んでいないのは、どこかまだ人生に仮住まいの感覚を抱いているせいでしょうか。
しかし、いつまでも仮住まい気分でふらふらする訳にも参りません。そろそろ腹を決めて、自分の生活の大きさというものを決めなくてはなりませんな。
でもそうやって計画を立てて、生活を設計したところで、思わぬことが起きるもの。たとえば今私が、暮らすとは想像もしていなかった鳥に振り回されながら暮らしているように。計画は、大抵とんでもないところから破綻します。私の想像力なんて、そんなものです。

召喚2006年05月30日

もし私に、人間関係において何かひとつ秀でた能力があるならそれは、私を必要とする人がわかる、という能力だと思う。
私は、私を呼ぶ人を見分ける術に長けていた。今もそうだろう、恐らく。
そして、別に私を呼んでいる訳ではないけれど、とりあえず人が必要だから呼ばれている時も、よくそのことをわかっていた。
相手が私を誤解して呼んでいる時も、それがよくわかった。
本当は呼んでいないけれど、呼ばれているという時も、よくわかった。とりあえず声をかけておかなくちゃ、という気遣いは、私には気の毒でさえあったけれど。
私はよく、何かの代わりに呼ばれることが多かった。
誰それが来られないから代わりにという単純な代理から、理想や自己の延長といった複雑な代理まで、色々と。私は自分のことをよく「隙間家具」と称したけれど、これは決して本来的には求められない性質をよく表していて、我ながら見事だったと思う。
本当に呼びたい他の人に達するための踏み台になったことも、よくあった。今も時々そういう理由で呼ばれる。そういうものなのだろう。

今は、私を呼ぶ人は、誰もいないと言ってもいいほど少なくて、私は静かに沈みこんだ毎日を送っている。
次の声はせめて、隙間家具や踏み台ではなくて、もう少し喜ばしい呼び声であってほしいと思うけれど、まぁ自分の程度の低さを棚に上げてあまり高望みするのは、よしておこう。

美女野獣2006年05月31日

気分が滅入った時には、よく、かっこいい男性が出てくる物語を手にします。
滅入る時というのは、何というか、この世にあるはずの「きれいなもの」が見えにくくなっている時なのです。私が愛する物語内の人物は、見目形が麗しいというよりも、そうした「きれいなもの」を代弁する者として現れることが多いのです。
かっこいい男性が、心から愛する誰かのために一生懸命奔走する物語だと、なおいいです。
今は突然、高木彬光の書いた「神津恭介」シリーズなぞを読みあさっています。むかしむかし、土曜ワイド劇場なんかで近藤正臣が映像化したこの探偵は、やや神経質で突拍子がなく芝居がかった奇矯な天才として描かれていて、それはそれでホームズ的な魅力に満ちているのですが、原作の彼は少し趣が違います。
長身白皙、眉目秀麗、頭脳優秀、といったところは同じだけれど、繊細で穏やかで心優しく、酒も煙草も女も嗜まない「木石」と揶揄される、物静かな人物です。その性質はむしろ、三毛猫ホームズの片山刑事にやや近いとさえ言えるかも知れません。
木石と言われつつ、実は長いシリーズの中では何人か恋愛関係を持った女性がおり、その全てにおいて、彼は真摯な愛情を傾け、彼女らを窮地から救い出すために奔走します。
……のですが、そういった真摯な愛情を好む私にとって、何故か神津恭介の恋愛は今ひとつぴんとこないもので、むしろワトソン役をつとめる親友松下研三との友情の方が、微笑ましく温かな色合いを帯びているように思えます。それは、その友情に同性愛的なものを見ているからではありません。別に同性愛なら同性愛で全然構いはしないのですが、この場合は違うという話です。
たぶん、神津恭介が恋する相手が、みんな文句のつけようのない素晴らしい美人であるのが、何だかつまらないのでしょう。やきもちも含めて、ですが。

美男が美女と結ばれるよりも、似たような人間が仲間意識を通じて友情を育むよりも、多様性に満ちた人間性の魅力がギャップを乗り越えて、思いもかけないような温かな人間関係を築く過程に、私は惹かれます。たくさんの「美女と野獣」的物語が描かれてきたのだから、それは王道のひとつだと思うのですが……高木彬光先生には、あんまりピンとこないモチーフだったのでしょうか。
まぁ、神津恭介は高木先生にとってひとつの理想像だったようですから、美女と娶せたかったのは、当然かも知れませんね。