美女野獣2006年05月31日

気分が滅入った時には、よく、かっこいい男性が出てくる物語を手にします。
滅入る時というのは、何というか、この世にあるはずの「きれいなもの」が見えにくくなっている時なのです。私が愛する物語内の人物は、見目形が麗しいというよりも、そうした「きれいなもの」を代弁する者として現れることが多いのです。
かっこいい男性が、心から愛する誰かのために一生懸命奔走する物語だと、なおいいです。
今は突然、高木彬光の書いた「神津恭介」シリーズなぞを読みあさっています。むかしむかし、土曜ワイド劇場なんかで近藤正臣が映像化したこの探偵は、やや神経質で突拍子がなく芝居がかった奇矯な天才として描かれていて、それはそれでホームズ的な魅力に満ちているのですが、原作の彼は少し趣が違います。
長身白皙、眉目秀麗、頭脳優秀、といったところは同じだけれど、繊細で穏やかで心優しく、酒も煙草も女も嗜まない「木石」と揶揄される、物静かな人物です。その性質はむしろ、三毛猫ホームズの片山刑事にやや近いとさえ言えるかも知れません。
木石と言われつつ、実は長いシリーズの中では何人か恋愛関係を持った女性がおり、その全てにおいて、彼は真摯な愛情を傾け、彼女らを窮地から救い出すために奔走します。
……のですが、そういった真摯な愛情を好む私にとって、何故か神津恭介の恋愛は今ひとつぴんとこないもので、むしろワトソン役をつとめる親友松下研三との友情の方が、微笑ましく温かな色合いを帯びているように思えます。それは、その友情に同性愛的なものを見ているからではありません。別に同性愛なら同性愛で全然構いはしないのですが、この場合は違うという話です。
たぶん、神津恭介が恋する相手が、みんな文句のつけようのない素晴らしい美人であるのが、何だかつまらないのでしょう。やきもちも含めて、ですが。

美男が美女と結ばれるよりも、似たような人間が仲間意識を通じて友情を育むよりも、多様性に満ちた人間性の魅力がギャップを乗り越えて、思いもかけないような温かな人間関係を築く過程に、私は惹かれます。たくさんの「美女と野獣」的物語が描かれてきたのだから、それは王道のひとつだと思うのですが……高木彬光先生には、あんまりピンとこないモチーフだったのでしょうか。
まぁ、神津恭介は高木先生にとってひとつの理想像だったようですから、美女と娶せたかったのは、当然かも知れませんね。

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