機会損失2006年01月05日

タイミングを逸した贈り物ほど間抜けで、腹立たしいものも、そう滅多にはない。
そう思うのは、たぶん、私が約束をものすごくあてにして、それが破られると大層がっかりする質の人間だからかも知れないが。とは言え、私は他人の誕生日に贈るプレゼントを考えすぎて、結局いいものが見つけられず、時期を外してしまうことがしょっちゅうある。

教育にしろ治療的行為にしろ交流にしろ、やりとりそのものもさることながら、それがいつ、どのようなタイミングでなされたのかは非常に重要で、時にはモノ自体の価値を越えるかも知れない。
よく犯罪者が服役中に理解者に出会い「なぜこうなる前にあなたに出会えなかったのか」と切実に叫ぶ光景があるけれど、援助というものは本当に必要な時に与えられることは残念ながら稀で、大抵遅きに失することが多い。その時には、もはや援助は慰めにしかならないか、下手をすれば悪意の象徴にさえなりかねない。いじめられた子どもが遅すぎる大人の介入に対して逆上するのも、そのためだろう。
いま、この瞬間、まさにここに傍にいてくれない、というそれだけのために、その後どんなに献身を尽くしても叶わない恋がどれだけあるだろうか。
世の中の問題は、人間が適切なタイミングというものを常に把握できる生き物ならば、半分、もしかしたらほとんど全てが解決する——いやそもそも問題が起こらないのかも知れない。

だからこそ、人生には「取り返すチャンス」というものが与えられているのだろう。
取り返しのつかないこと、というのは、全くないとは言わないけれど、たぶんほんのわずかで、大抵のことは何とか取り返しがつく。それは、人間がベストのタイミングを察するのが下手な生き物だからこそ与えられている賜物だ。与えているのが女神か、神か、宇宙か、社会か、人か、偶然か、それはその人によって違うように見えるだろうけれど。

自分に対して「取り返すチャンス」を認めなければ、絶望に陥りやすい。
他人に対してそれを認めない人は、それによって己の人生を恐ろしく痩せさせていくだろう。他人に与える絶望はもちろんのこと。

私が性善説に立つのは、性悪説よりもチャンスが多いと感じるからである。
「人間はどうしようもなく悪い存在だ。これ以上底がない。だから努力すればどんなにそれが実らなくても絶対少しは善くなっていくはずだ」という加点主義の性悪説はまだ見たことがない。あるなら、きっと希望のある性悪説のような気がする。

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