感情論 ― 2005年12月01日
ある掲示板で、毛皮についてのやりとりがあったのだが。
動物愛護や環境問題につらなる話として、毛皮の話題が出ていた。一部の毛皮業者がどんなに残酷な方法で毛皮を動物から剥ぎ取っているか。剥ぎ取る前後も動物がどんなにむごい目に遭っているか。そういった話題が提示され、その中から色々な話に発展し、だんだんと、揉めていったのである。
いわく、話題の持って行き方が恣意的だ。
いわく、それぞれの文化に対する理解が欠けているのでは。
いわく、全体を見なければ意見なんて言えない。
(そんなことを言ったら永遠に全体は見えないのだから、永遠に発言はできないような気がするが、まぁここでは置く)
そしていわく、可哀想というのは簡単だが、感情論で話をするな。
で、この手の話を見るとよく出てくる、
「可哀想というけど、そういう感情論で話をするのはよくない」
という指摘が毎度の如く繰り返されいたのだけれど、そして確かに感情論で全てを推し進めるのは危険なのはその通りなのだが、「感情論」といって切って捨てる態度は……どうなのだろう、と思う。
可哀想、というのは、とてもプリミティブで強い感情だ。
それが実際には他者を傷つけたり、貶めたりする場合ももちろんある。だがそれは、全ての感情もそうだし、感情以外の全ての心的活動がそうである。言葉や正義も含めて。
人があることについて「可哀想」と思うことは、止められない。止められるなら、それは感情ではないだろう。
毛皮を剥ぎ取られる動物は可哀想だ。
そういう感情を、「そんな風に思うのは偽善だ、感情論だ、意味がない」と押し潰すのではなく、その感情自体は正しいと認めること。
そして同時に、そう感じないこともまた人間として在りうる心の形なのだ、ということを知ること。
どうするべきなのか、というのはその先の問題だ。そして実際の行動は、感情をある程度反映しつつ、感情に突き動かされるものではないだろう。
感情というのはつくづく思うけれど、人間に都合よい存在ではない。しょっちゅう間違うし、勘違いするし、コントロールしにくいし、変化するし、表に出せないような有様の時も多い。
けれど、感情は、決して嘘はつかない。
感情が発生するところには、必ず、何かしらの真実がある。
感情が本当に求めていることは、実は、存在を肯定されること、認められること、なのだと思う。
でも私たちは、感情を認めない。
「感情論はやめろ」と叩き返すように言う時のカタルシスは、感情という制御しにくく論破もできない存在を束の間圧殺できる、暗い征服感が根っこにあるような気がしてならない。
私たちは自他の感情を認める以外のことは何でもやる。
殺し、自棄になり、当たり散らし、議論し、言いくるめ、酒を飲み、甘い物を食べ、本を読み、性に溺れる。ただ、感情を認めてあげれば済むだけの問題を、そうやって引き延ばし、全生活に砂糖衣のようにまぶして、収拾がつかない状態にしてしまう。
感情が絡む話が必ずといっていいほど紛糾し、しかも実りがないのは、感情を認めないで話をすることなどできないのに、「とりあえず感情は抜きにして話をしましょう」などという実現不可能な前提を立ててしまうからだ。
感情は大いに認めて、感情を絡めたうえで、お互いの感情を配慮して話をしましょうーーなんて面倒なことをしたがる人は、誰もいない。
そしてもっと面倒な事態を招く訳だけど、ね。
動物愛護や環境問題につらなる話として、毛皮の話題が出ていた。一部の毛皮業者がどんなに残酷な方法で毛皮を動物から剥ぎ取っているか。剥ぎ取る前後も動物がどんなにむごい目に遭っているか。そういった話題が提示され、その中から色々な話に発展し、だんだんと、揉めていったのである。
いわく、話題の持って行き方が恣意的だ。
いわく、それぞれの文化に対する理解が欠けているのでは。
いわく、全体を見なければ意見なんて言えない。
(そんなことを言ったら永遠に全体は見えないのだから、永遠に発言はできないような気がするが、まぁここでは置く)
そしていわく、可哀想というのは簡単だが、感情論で話をするな。
で、この手の話を見るとよく出てくる、
「可哀想というけど、そういう感情論で話をするのはよくない」
という指摘が毎度の如く繰り返されいたのだけれど、そして確かに感情論で全てを推し進めるのは危険なのはその通りなのだが、「感情論」といって切って捨てる態度は……どうなのだろう、と思う。
可哀想、というのは、とてもプリミティブで強い感情だ。
それが実際には他者を傷つけたり、貶めたりする場合ももちろんある。だがそれは、全ての感情もそうだし、感情以外の全ての心的活動がそうである。言葉や正義も含めて。
人があることについて「可哀想」と思うことは、止められない。止められるなら、それは感情ではないだろう。
毛皮を剥ぎ取られる動物は可哀想だ。
そういう感情を、「そんな風に思うのは偽善だ、感情論だ、意味がない」と押し潰すのではなく、その感情自体は正しいと認めること。
そして同時に、そう感じないこともまた人間として在りうる心の形なのだ、ということを知ること。
どうするべきなのか、というのはその先の問題だ。そして実際の行動は、感情をある程度反映しつつ、感情に突き動かされるものではないだろう。
感情というのはつくづく思うけれど、人間に都合よい存在ではない。しょっちゅう間違うし、勘違いするし、コントロールしにくいし、変化するし、表に出せないような有様の時も多い。
けれど、感情は、決して嘘はつかない。
感情が発生するところには、必ず、何かしらの真実がある。
感情が本当に求めていることは、実は、存在を肯定されること、認められること、なのだと思う。
でも私たちは、感情を認めない。
「感情論はやめろ」と叩き返すように言う時のカタルシスは、感情という制御しにくく論破もできない存在を束の間圧殺できる、暗い征服感が根っこにあるような気がしてならない。
私たちは自他の感情を認める以外のことは何でもやる。
殺し、自棄になり、当たり散らし、議論し、言いくるめ、酒を飲み、甘い物を食べ、本を読み、性に溺れる。ただ、感情を認めてあげれば済むだけの問題を、そうやって引き延ばし、全生活に砂糖衣のようにまぶして、収拾がつかない状態にしてしまう。
感情が絡む話が必ずといっていいほど紛糾し、しかも実りがないのは、感情を認めないで話をすることなどできないのに、「とりあえず感情は抜きにして話をしましょう」などという実現不可能な前提を立ててしまうからだ。
感情は大いに認めて、感情を絡めたうえで、お互いの感情を配慮して話をしましょうーーなんて面倒なことをしたがる人は、誰もいない。
そしてもっと面倒な事態を招く訳だけど、ね。
弱音 ― 2005年12月06日
寒い。寒い。とにかく寒い。
何か心身がおかしくなってるんじゃないかと思うほど、とにかく寒い。
という訳で、風邪かなーと思ったのですが、どうもそういう感じでもなく、心因性の不調のような気がします。それとも単なる低血圧かも知れませんが。
昼間は泥沼のような鬱でひたすら眠くて眠り、夜は気分的には起きられるものの寒さと心理的疲労で体力が続かないという、かなり問題な有様になっています。
台所や部屋が片づいたら、この問題も一気に解決するような錯覚を感じているので、おとなしく夜中に掃除でもしようかしら。
何か心身がおかしくなってるんじゃないかと思うほど、とにかく寒い。
という訳で、風邪かなーと思ったのですが、どうもそういう感じでもなく、心因性の不調のような気がします。それとも単なる低血圧かも知れませんが。
昼間は泥沼のような鬱でひたすら眠くて眠り、夜は気分的には起きられるものの寒さと心理的疲労で体力が続かないという、かなり問題な有様になっています。
台所や部屋が片づいたら、この問題も一気に解決するような錯覚を感じているので、おとなしく夜中に掃除でもしようかしら。
被理解願望 ― 2005年12月25日
自分の中で、生理的なものはとりあえず置いて、一番強い欲求は何だろうと考えたことがあるのだけど、結局それは「理解」にまつわるものなんだろうな、という結論になった。
理解、というのは、もちろん自分が知らないものを知ったりそれまで理解不能だったものを理解できるようになる、という自分主体の理解もある。
けれどそれと同じく、いやもしかしたらそれ以上に、私が強く強くこいねがう願望は、自分が客体として理解されるということなのだ。
理解されたい。私がどういう人間なのか、何を考え何を喜び何を尊いを感じるのか、それが世界の中でどんな意味を持っているのか、それを私ではない誰か他の人が、考え追求し答えを見つけてみてほしい。
私の心の根っこには、このことに対する激しい願望、ほとんど飢餓感に近い欲求がある。
たぶん私は今までの人生において、理解されたという自覚があまりない、のだろう。好かれ、可愛がられ、目をかけられ、頼られ、愛されたことさえあったにも関わらず。
もしかしたら、単に私が自分を過大評価していて、正しい他人の理解を受け入れていないだけなのかも知れないけれど。
理解されるためには、他者に興味を持たれることが必要で、まぁ平凡極まりない私に興味を持つ人はそんなに多くはないから、そもそも叶えがたい願望であることも間違いない。
だから、私は自己分析をして、自分で自分を理解することでこの飢餓感を埋め合わせようとしている。
それに成功しているか否かは、自信はないが。
私は今まで何度か、精神的な危機に陥ったとき、精神科や心療内科へ行ったことがあまりない。
根っからクスリ嫌いというのもあるけれど、実のところ、私はカウンセリングというものから距離を置いておきたいのだ。カウンセリングが嫌いだからではない。もしもカウンセリングを受けたら、必ずやそれがもたらす疑似被理解感の虜になり、凄まじい勢いでカウンセリングに依存するだろうことを自覚しているからである。
これは歳を重ねたら薄まるものなのだろうか。それとも、ますます強くなっていき、始末に負えなくなるたぐいの欲望なのだろうか。
まぁしばらくは格闘が続くことは、きっと間違いないだろうけど。
理解、というのは、もちろん自分が知らないものを知ったりそれまで理解不能だったものを理解できるようになる、という自分主体の理解もある。
けれどそれと同じく、いやもしかしたらそれ以上に、私が強く強くこいねがう願望は、自分が客体として理解されるということなのだ。
理解されたい。私がどういう人間なのか、何を考え何を喜び何を尊いを感じるのか、それが世界の中でどんな意味を持っているのか、それを私ではない誰か他の人が、考え追求し答えを見つけてみてほしい。
私の心の根っこには、このことに対する激しい願望、ほとんど飢餓感に近い欲求がある。
たぶん私は今までの人生において、理解されたという自覚があまりない、のだろう。好かれ、可愛がられ、目をかけられ、頼られ、愛されたことさえあったにも関わらず。
もしかしたら、単に私が自分を過大評価していて、正しい他人の理解を受け入れていないだけなのかも知れないけれど。
理解されるためには、他者に興味を持たれることが必要で、まぁ平凡極まりない私に興味を持つ人はそんなに多くはないから、そもそも叶えがたい願望であることも間違いない。
だから、私は自己分析をして、自分で自分を理解することでこの飢餓感を埋め合わせようとしている。
それに成功しているか否かは、自信はないが。
私は今まで何度か、精神的な危機に陥ったとき、精神科や心療内科へ行ったことがあまりない。
根っからクスリ嫌いというのもあるけれど、実のところ、私はカウンセリングというものから距離を置いておきたいのだ。カウンセリングが嫌いだからではない。もしもカウンセリングを受けたら、必ずやそれがもたらす疑似被理解感の虜になり、凄まじい勢いでカウンセリングに依存するだろうことを自覚しているからである。
これは歳を重ねたら薄まるものなのだろうか。それとも、ますます強くなっていき、始末に負えなくなるたぐいの欲望なのだろうか。
まぁしばらくは格闘が続くことは、きっと間違いないだろうけど。
松本英子女史 ― 2005年12月26日
「散歩の達人」という雑誌などでイラストエッセイを連載している、松本英子さんというイラストレーターの方がいらっしゃるのですが、この方の単行本がいよいよ1月に発売ということで、首をながああああくして待っているのです。
松本さんは、人物の外面だけでなく、内面の特徴を表して絵にする才能に恵まれ、小物や建物といったマテリアルを精密かつわかりやすく描くことができ、デフォルメするところはぱきっとデフォルメした、メリハリのきいたイラストエッセイを創造しています。
また、その中に出てくる言葉遣いは、独特で機知に富んでいて、エッセイストとしてもすごいなぁとつくづく思うのです。
でも残念ながら、まだamazonでは予約受付してないみたい。うーん、中高生時代みたいに、発売日の数日前から本屋で張り込みするしかないかな。わくわく。そして満杯の本棚は見ないふりをするのです。
松本さんは、人物の外面だけでなく、内面の特徴を表して絵にする才能に恵まれ、小物や建物といったマテリアルを精密かつわかりやすく描くことができ、デフォルメするところはぱきっとデフォルメした、メリハリのきいたイラストエッセイを創造しています。
また、その中に出てくる言葉遣いは、独特で機知に富んでいて、エッセイストとしてもすごいなぁとつくづく思うのです。
でも残念ながら、まだamazonでは予約受付してないみたい。うーん、中高生時代みたいに、発売日の数日前から本屋で張り込みするしかないかな。わくわく。そして満杯の本棚は見ないふりをするのです。
彼岸 ― 2005年12月27日
軽鴨の君のご実家にいた、優雅なシルバーチンチラペルシャが、今日突然彼岸へ行ってしまった。
たぶん寿命だろうと思う。もう15歳だったのだから。2-3日前から急に衰え、最後は飼い主さんの腕の中で息を引き取ったそうだ。幸福な、今は人間でも滅多に与えられないような、静かな最期。
動物が彼岸へ行く時には、決して迷いがないそうで、どんなに愛し愛されなついていたペットであっても、最も美しかった時の姿で魂が抜け出たかと思うと、振り返りもせずに行くべきところへ走っていく、という目撃談を聞いたことがある。この話が真実かそうでないかをとやかく言うことには、あまり意味がない。ただ、ぐずぐずと振り返るのは、きっと人間だけなのだろう、とは確かに思う。彼らは、行くべき処へ行き、そこから愛するコンパニオンを見守る方がどれだけ自然で尊いことか、わかっているのだ、たぶん。
ここ数日、こわばるほどに寒い代わりに、空は澄んで、東京でも星が見える。オリオンやシリウス、金星や火星や木星や土星。
今日は年末の準備で買い物に出かけ、にぎわう商店街を通り抜け、野菜をたくさん買ってきた。明日からおせち料理を作る。
たぶん寿命だろうと思う。もう15歳だったのだから。2-3日前から急に衰え、最後は飼い主さんの腕の中で息を引き取ったそうだ。幸福な、今は人間でも滅多に与えられないような、静かな最期。
動物が彼岸へ行く時には、決して迷いがないそうで、どんなに愛し愛されなついていたペットであっても、最も美しかった時の姿で魂が抜け出たかと思うと、振り返りもせずに行くべきところへ走っていく、という目撃談を聞いたことがある。この話が真実かそうでないかをとやかく言うことには、あまり意味がない。ただ、ぐずぐずと振り返るのは、きっと人間だけなのだろう、とは確かに思う。彼らは、行くべき処へ行き、そこから愛するコンパニオンを見守る方がどれだけ自然で尊いことか、わかっているのだ、たぶん。
ここ数日、こわばるほどに寒い代わりに、空は澄んで、東京でも星が見える。オリオンやシリウス、金星や火星や木星や土星。
今日は年末の準備で買い物に出かけ、にぎわう商店街を通り抜け、野菜をたくさん買ってきた。明日からおせち料理を作る。
備忘録 ― 2005年12月28日
来年は、少しメモをとる習慣をつけようかな、と思い、メモ用紙を買ってみました。再生紙のブロックメモと、ロディックのメモも持ち歩き用に。ロディックのメモは、紙質がよくて、ミシン目がきれいで切り取る時の感触がたまらなく心地よい、とファンが多いけど、さてはて。
本当はメモカバーも欲しかったのだけど、硬い革のものか、合皮のものしか見つからなかったので見送りました。ある程度の硬さがないと、メモをとりにくいという都合もあるのでしょうけど、硬い革製品はあんまり好きではないのです。
毎日がどんな風に過ぎていったのか、手の中から滑り落ちる砂のように、あっという間に見えなくなってしまう年齢になったのですね、私も。
しかしそんな感傷にふける暇もなく、今夜は黒豆作りに精を出さねばなりません。
今年もあと4日です。
本当はメモカバーも欲しかったのだけど、硬い革のものか、合皮のものしか見つからなかったので見送りました。ある程度の硬さがないと、メモをとりにくいという都合もあるのでしょうけど、硬い革製品はあんまり好きではないのです。
毎日がどんな風に過ぎていったのか、手の中から滑り落ちる砂のように、あっという間に見えなくなってしまう年齢になったのですね、私も。
しかしそんな感傷にふける暇もなく、今夜は黒豆作りに精を出さねばなりません。
今年もあと4日です。
計画実現 ― 2005年12月29日
黒豆のシロップの甘い香りが部屋の中をゆっくりとたゆたう。
聖なる行列が空間を清めていく光景に、ちょっと似ている。いい気持ち。
今年は年末のおせち作りの予定を真面目に考えて、きちんきちんとやっているので、何だか急に素敵な奥様になった気分だ。計画通りに物事が進んでいくっていうのは、私の人生にはそうそうない出来事なので、ちょっと怖い気がする。
計画を立てるのは大好きで、放っておくといくらでも頭の中で、あれこれ計画や予定だけは作るのだけど、実際にそれを実行する段になると途端にどうでもよくなってしまう。たぶん、「こうすればできる」とわかる瞬間が一番楽しくて、それが実現することにはそんなに楽しみを感じていないんだろう。
考えついた時点で、自分の中ではすっかり色々なことが見えてしかるべきところへ配置されてしまう。実現した時に、それが他者と共有できればきっとそれがさらなる喜びに発展するはずなんだけど、現実には私は何かを実現した時に他者の評価を受けたことがあまりないので、その「さらなる喜び」というものに接した記憶が少ないのだ。
こういう、己のコミュニケーションスキルの低さによる限界を、もう少し何とかしたいというのが来年の抱負……になるのかな。
聖なる行列が空間を清めていく光景に、ちょっと似ている。いい気持ち。
今年は年末のおせち作りの予定を真面目に考えて、きちんきちんとやっているので、何だか急に素敵な奥様になった気分だ。計画通りに物事が進んでいくっていうのは、私の人生にはそうそうない出来事なので、ちょっと怖い気がする。
計画を立てるのは大好きで、放っておくといくらでも頭の中で、あれこれ計画や予定だけは作るのだけど、実際にそれを実行する段になると途端にどうでもよくなってしまう。たぶん、「こうすればできる」とわかる瞬間が一番楽しくて、それが実現することにはそんなに楽しみを感じていないんだろう。
考えついた時点で、自分の中ではすっかり色々なことが見えてしかるべきところへ配置されてしまう。実現した時に、それが他者と共有できればきっとそれがさらなる喜びに発展するはずなんだけど、現実には私は何かを実現した時に他者の評価を受けたことがあまりないので、その「さらなる喜び」というものに接した記憶が少ないのだ。
こういう、己のコミュニケーションスキルの低さによる限界を、もう少し何とかしたいというのが来年の抱負……になるのかな。
越年休暇 ― 2005年12月30日
軽鴨の君の今年の出勤は昨日で終わり。今日から五日間ほど、お休みとなる。
年末年始は家族と過ごすというのが、私の生活様式なので、ふくふくと軽鴨の君と炬燵にでも入ってお茶を飲む……と言いたいところだけど、そんな暇はなくて、今日はきんとんを作ったり、幡ヶ谷の「龍口酒家」に注文しておいた豪華上海蟹入りおせちセットを引き取りに行ったり、仕事納めお疲れさまディナーを池袋の「ヴィスコンティ」で食べたり、最後の買い物を色々としたり、とまぁめまぐるしい一日だった。あとはまな板の殺菌をしておかないと。
年末年始は忙しい。お正月になれば休めるかと思えば、結構そうでもないのが難しい。あののんびりとした空気を保つためには、自分一人が忙しいのは論外だけど、周りが忙しいのも駄目で、目に入る人誰も彼もが力を抜いた顔をしてのんびり過ごしていなければならない。そのためには、五日間のお休みというのはちょっと短すぎる。せめて一週間はないものかな、とないものねだりを心の中でしてみるのだ。
年末年始は家族と過ごすというのが、私の生活様式なので、ふくふくと軽鴨の君と炬燵にでも入ってお茶を飲む……と言いたいところだけど、そんな暇はなくて、今日はきんとんを作ったり、幡ヶ谷の「龍口酒家」に注文しておいた豪華上海蟹入りおせちセットを引き取りに行ったり、仕事納めお疲れさまディナーを池袋の「ヴィスコンティ」で食べたり、最後の買い物を色々としたり、とまぁめまぐるしい一日だった。あとはまな板の殺菌をしておかないと。
年末年始は忙しい。お正月になれば休めるかと思えば、結構そうでもないのが難しい。あののんびりとした空気を保つためには、自分一人が忙しいのは論外だけど、周りが忙しいのも駄目で、目に入る人誰も彼もが力を抜いた顔をしてのんびり過ごしていなければならない。そのためには、五日間のお休みというのはちょっと短すぎる。せめて一週間はないものかな、とないものねだりを心の中でしてみるのだ。
祝祭 ― 2005年12月31日
年末年始の非日常性は、自分一人が特別なのではなく、自分以外の人々もみんな何となく特別な装いだったり表情だったりすることからきます。
もっとも、年末年始であろうと鉄道は運行しますし、コンビニは営業してますし、スーパーだって営業していたりして、最近は「特別じゃない年末年始」を過ごしている人も多くなってきた訳ですが、そんな人でもやっぱり、どこか普段と違った顔をしているように、見えてきます。
誕生日のような、世界はいつもと同じ顔だけど、自分一人が特別な雰囲気をまとっているという祝祭は楽しいものです。でも、世界全部が非日常的な雰囲気になるという祝祭は、自分はいつもと同じつもりでも、何か見えない力で背中を押されてあれよあれよと非日常へ押し出されるような、強いエネルギーがあります。自分一人で祝祭の雰囲気を形作らなくても何とかなるという点では、結構ラクな祝祭です。
逆に言えば、そういう時に、色々な理由で祝祭に乗る訳にはいかない人々にとっては、辛い時間でもあるのでしょうけど。
年末にぴったりなのが、早川文庫で出ている「一角獣をさがせ!」という物語。ファンタジーとハードボイルドのエッセンスがぎゅっと凝縮されて作られた、上等なカクテルのようなきれのいい香りのお話です。
これを読みながら年越しの瞬間を味わう……という年末年始をいつか過ごしてみたいのですが、私は年末年始は家族と過ごすことにしていて、おせちを作ったり掃除をしたり挨拶回りに行ったりおしゃべりしたり、楽しくて忙しいイベントにスケジュールは埋めつくされていて、静かに読書、なんてどころではありません。
今の私は、誰かと年が変わる瞬間を過ごせる、とても幸福な人間です。でもあと何十年か運良く生きていくうちにもしかしたら、ひとりで、たったひとりで、年が変わるのを見届けなくてはならない日が来るかも知れません。
だから「一角獣をさがせ!」と読みながら年末年始を過ごすという光景は、その時までとっておくつもりです。でも我慢できなくて、今年のお正月に読んでしまうかも知れませんけどね。
とりあえず、色々とありましたが、今年も暮れていくようです。
これを読む全ての人に、そしてこれを読まない全ての人に、幸せが月の光のように、降り注ぎますよう。
もっとも、年末年始であろうと鉄道は運行しますし、コンビニは営業してますし、スーパーだって営業していたりして、最近は「特別じゃない年末年始」を過ごしている人も多くなってきた訳ですが、そんな人でもやっぱり、どこか普段と違った顔をしているように、見えてきます。
誕生日のような、世界はいつもと同じ顔だけど、自分一人が特別な雰囲気をまとっているという祝祭は楽しいものです。でも、世界全部が非日常的な雰囲気になるという祝祭は、自分はいつもと同じつもりでも、何か見えない力で背中を押されてあれよあれよと非日常へ押し出されるような、強いエネルギーがあります。自分一人で祝祭の雰囲気を形作らなくても何とかなるという点では、結構ラクな祝祭です。
逆に言えば、そういう時に、色々な理由で祝祭に乗る訳にはいかない人々にとっては、辛い時間でもあるのでしょうけど。
年末にぴったりなのが、早川文庫で出ている「一角獣をさがせ!」という物語。ファンタジーとハードボイルドのエッセンスがぎゅっと凝縮されて作られた、上等なカクテルのようなきれのいい香りのお話です。
これを読みながら年越しの瞬間を味わう……という年末年始をいつか過ごしてみたいのですが、私は年末年始は家族と過ごすことにしていて、おせちを作ったり掃除をしたり挨拶回りに行ったりおしゃべりしたり、楽しくて忙しいイベントにスケジュールは埋めつくされていて、静かに読書、なんてどころではありません。
今の私は、誰かと年が変わる瞬間を過ごせる、とても幸福な人間です。でもあと何十年か運良く生きていくうちにもしかしたら、ひとりで、たったひとりで、年が変わるのを見届けなくてはならない日が来るかも知れません。
だから「一角獣をさがせ!」と読みながら年末年始を過ごすという光景は、その時までとっておくつもりです。でも我慢できなくて、今年のお正月に読んでしまうかも知れませんけどね。
とりあえず、色々とありましたが、今年も暮れていくようです。
これを読む全ての人に、そしてこれを読まない全ての人に、幸せが月の光のように、降り注ぎますよう。
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