被理解願望 ― 2005年12月25日
自分の中で、生理的なものはとりあえず置いて、一番強い欲求は何だろうと考えたことがあるのだけど、結局それは「理解」にまつわるものなんだろうな、という結論になった。
理解、というのは、もちろん自分が知らないものを知ったりそれまで理解不能だったものを理解できるようになる、という自分主体の理解もある。
けれどそれと同じく、いやもしかしたらそれ以上に、私が強く強くこいねがう願望は、自分が客体として理解されるということなのだ。
理解されたい。私がどういう人間なのか、何を考え何を喜び何を尊いを感じるのか、それが世界の中でどんな意味を持っているのか、それを私ではない誰か他の人が、考え追求し答えを見つけてみてほしい。
私の心の根っこには、このことに対する激しい願望、ほとんど飢餓感に近い欲求がある。
たぶん私は今までの人生において、理解されたという自覚があまりない、のだろう。好かれ、可愛がられ、目をかけられ、頼られ、愛されたことさえあったにも関わらず。
もしかしたら、単に私が自分を過大評価していて、正しい他人の理解を受け入れていないだけなのかも知れないけれど。
理解されるためには、他者に興味を持たれることが必要で、まぁ平凡極まりない私に興味を持つ人はそんなに多くはないから、そもそも叶えがたい願望であることも間違いない。
だから、私は自己分析をして、自分で自分を理解することでこの飢餓感を埋め合わせようとしている。
それに成功しているか否かは、自信はないが。
私は今まで何度か、精神的な危機に陥ったとき、精神科や心療内科へ行ったことがあまりない。
根っからクスリ嫌いというのもあるけれど、実のところ、私はカウンセリングというものから距離を置いておきたいのだ。カウンセリングが嫌いだからではない。もしもカウンセリングを受けたら、必ずやそれがもたらす疑似被理解感の虜になり、凄まじい勢いでカウンセリングに依存するだろうことを自覚しているからである。
これは歳を重ねたら薄まるものなのだろうか。それとも、ますます強くなっていき、始末に負えなくなるたぐいの欲望なのだろうか。
まぁしばらくは格闘が続くことは、きっと間違いないだろうけど。
理解、というのは、もちろん自分が知らないものを知ったりそれまで理解不能だったものを理解できるようになる、という自分主体の理解もある。
けれどそれと同じく、いやもしかしたらそれ以上に、私が強く強くこいねがう願望は、自分が客体として理解されるということなのだ。
理解されたい。私がどういう人間なのか、何を考え何を喜び何を尊いを感じるのか、それが世界の中でどんな意味を持っているのか、それを私ではない誰か他の人が、考え追求し答えを見つけてみてほしい。
私の心の根っこには、このことに対する激しい願望、ほとんど飢餓感に近い欲求がある。
たぶん私は今までの人生において、理解されたという自覚があまりない、のだろう。好かれ、可愛がられ、目をかけられ、頼られ、愛されたことさえあったにも関わらず。
もしかしたら、単に私が自分を過大評価していて、正しい他人の理解を受け入れていないだけなのかも知れないけれど。
理解されるためには、他者に興味を持たれることが必要で、まぁ平凡極まりない私に興味を持つ人はそんなに多くはないから、そもそも叶えがたい願望であることも間違いない。
だから、私は自己分析をして、自分で自分を理解することでこの飢餓感を埋め合わせようとしている。
それに成功しているか否かは、自信はないが。
私は今まで何度か、精神的な危機に陥ったとき、精神科や心療内科へ行ったことがあまりない。
根っからクスリ嫌いというのもあるけれど、実のところ、私はカウンセリングというものから距離を置いておきたいのだ。カウンセリングが嫌いだからではない。もしもカウンセリングを受けたら、必ずやそれがもたらす疑似被理解感の虜になり、凄まじい勢いでカウンセリングに依存するだろうことを自覚しているからである。
これは歳を重ねたら薄まるものなのだろうか。それとも、ますます強くなっていき、始末に負えなくなるたぐいの欲望なのだろうか。
まぁしばらくは格闘が続くことは、きっと間違いないだろうけど。
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