鳩居堂 ― 2005年08月16日
最近、お香を焚くことに興味が出てきまして、ちょいと銀座の鳩居堂へ行って参りました。
ここで売っている小物や文房具は思いきり和風で、私の雰囲気とは少し違うのであまり買い物はしないのですが、二階の書道具や香道具のフロアは静かで郷愁を誘います。
小さい頃に書道に親しんだ私にとっては、ここは故郷のなまりを聞ける停車場、みたいなものかも知れません。
私が、空薫用の炭はありますか、と尋ねた相手は年輩の男性で、私のはっきりしない発音に一度だけ聞き返して、すぐに小さな炭の箱を取り出しました。今日起こった地震のことを尋ねて、さりげない気遣いの言葉をかけてもらったのですが、初対面の店員さんにこのような対応をしてもらうのは久しぶりです。よほど私が頼りなげに見えたのでしょうか。
明日にでも、何か焚いてみようと思います。
ここで売っている小物や文房具は思いきり和風で、私の雰囲気とは少し違うのであまり買い物はしないのですが、二階の書道具や香道具のフロアは静かで郷愁を誘います。
小さい頃に書道に親しんだ私にとっては、ここは故郷のなまりを聞ける停車場、みたいなものかも知れません。
私が、空薫用の炭はありますか、と尋ねた相手は年輩の男性で、私のはっきりしない発音に一度だけ聞き返して、すぐに小さな炭の箱を取り出しました。今日起こった地震のことを尋ねて、さりげない気遣いの言葉をかけてもらったのですが、初対面の店員さんにこのような対応をしてもらうのは久しぶりです。よほど私が頼りなげに見えたのでしょうか。
明日にでも、何か焚いてみようと思います。
煙 ― 2005年08月21日
鳩居堂の親切な紳士が出してくれた香炭団に火を点けて、自己流薫香などやっております。
普通ならここで、色々と専門家が配合した雅な練香や香木など焚くところなのでしょうが、私が参考にした本の原著者は海外の方でして、ハーブやスパイスを焚くことを入門として奨励しています。という訳で、私が焚いているのはもっぱらドライハーブ。今日はローズマリーでした。
ものが古かったという問題点はありましたが、ほのかに煙がたちのぼると、煙の匂いの奥深くに、ひっそりとローズマリーの香りがたたずんでいます。炭に香炉灰をかけて温度調節をするのですが、その案配が微妙なところで、煙の形が千変万化する様など見ながら灰の面倒を見ていると、時間はあっという間にたってしまいます。
炎が燃える様を見つめるのも楽しいものですが、煙を見つめるというのは、もっと静かな楽しみです。見つめていると、異次元をさまよい歩けるような気に、なってまいります。
普通ならここで、色々と専門家が配合した雅な練香や香木など焚くところなのでしょうが、私が参考にした本の原著者は海外の方でして、ハーブやスパイスを焚くことを入門として奨励しています。という訳で、私が焚いているのはもっぱらドライハーブ。今日はローズマリーでした。
ものが古かったという問題点はありましたが、ほのかに煙がたちのぼると、煙の匂いの奥深くに、ひっそりとローズマリーの香りがたたずんでいます。炭に香炉灰をかけて温度調節をするのですが、その案配が微妙なところで、煙の形が千変万化する様など見ながら灰の面倒を見ていると、時間はあっという間にたってしまいます。
炎が燃える様を見つめるのも楽しいものですが、煙を見つめるというのは、もっと静かな楽しみです。見つめていると、異次元をさまよい歩けるような気に、なってまいります。
独学 ― 2005年08月22日
薫香は難しいです。専門家がきちんと調合した練香や、もっと簡単に線香などを使えば簡単なのでしょうけれど、自分で樹脂やドライハーブを焚こうとするとすぐに焦げてしまいます。
炭の大きさや火を点けてからの時間、灰の量などを加減しながら、インセンスが焦げず、芳香成分は解放されるようなちょうどいい温度のポイントを見つけなくてはなりません。
昨日より今日、今日より明日は上達していると思いたいところですが……実際はどうなんでしょ。
私は大変に享楽的にできているというか、辛いこと苦しいこと面倒なことはキライ、ハングリー精神ゼロですから、手応えのないことを続けることは大変な苦行です。
でも、あれこれ手探りして、本で読んだだけのことを自分の手で構築し直す過程は、気持ちがいいものです。
成果がつかめないことに嫌気がさしたら、放り投げてやめてしまうことも、できます。気楽さは、誰も助けてくれないことの難しさ、無駄の多さの裏返しです。
家庭料理やアロマテラピーや、文章を書くことには、ある共通点があります。
セオリーの部分がそれほど多くなくて、自由度が高く、「不正解」がほとんどないことです。
無限の正解の中からひとつの「私の正解」を聴きとる。そして振り返るとその他にたくさんの正解が広がっている。そういう世界が、私は好きです。
炭の大きさや火を点けてからの時間、灰の量などを加減しながら、インセンスが焦げず、芳香成分は解放されるようなちょうどいい温度のポイントを見つけなくてはなりません。
昨日より今日、今日より明日は上達していると思いたいところですが……実際はどうなんでしょ。
私は大変に享楽的にできているというか、辛いこと苦しいこと面倒なことはキライ、ハングリー精神ゼロですから、手応えのないことを続けることは大変な苦行です。
でも、あれこれ手探りして、本で読んだだけのことを自分の手で構築し直す過程は、気持ちがいいものです。
成果がつかめないことに嫌気がさしたら、放り投げてやめてしまうことも、できます。気楽さは、誰も助けてくれないことの難しさ、無駄の多さの裏返しです。
家庭料理やアロマテラピーや、文章を書くことには、ある共通点があります。
セオリーの部分がそれほど多くなくて、自由度が高く、「不正解」がほとんどないことです。
無限の正解の中からひとつの「私の正解」を聴きとる。そして振り返るとその他にたくさんの正解が広がっている。そういう世界が、私は好きです。
高揚 ― 2005年08月23日
今日は久しぶりにお客さんが来て、わが家で作った粗食をご一緒しました。
夜のおしゃべりは大好きです。染め物が出来そうなくらい、こんもりとお茶殻を山にするほどお茶を飲みながら、あれこれ話をします。創造性が、蛍の光のようにひっそりと心にともっていき、やがてそれが数を増していくのは、素敵な光景です。
唯一の問題は、ハイになって夜眠れなくなることでしょうか。夜を明かして語り尽くすということを、やりたいものです。何度やっても飽きないことでしょう。相手は飽きるかも知れませんが。
夜のおしゃべりは大好きです。染め物が出来そうなくらい、こんもりとお茶殻を山にするほどお茶を飲みながら、あれこれ話をします。創造性が、蛍の光のようにひっそりと心にともっていき、やがてそれが数を増していくのは、素敵な光景です。
唯一の問題は、ハイになって夜眠れなくなることでしょうか。夜を明かして語り尽くすということを、やりたいものです。何度やっても飽きないことでしょう。相手は飽きるかも知れませんが。
最低限 ― 2005年08月24日
駒大苫小牧高校の暴力事件について、知り合いがBlogで「あれくらいのことは体罰なんかじゃないと思う、今の親は子供を甘やかしすぎではないか」というようなことを書いていて、何とも複雑な気分になった。
その後、色々と「最近の親はおかしい」「すぐ『ウチの子の人権が』とか言い出す」といった話がコメントで続いていく。
それを読んでいて、今の世の中では子育ては大変だと感じてしまった。小姑が家の中にも外にもうじゃうじゃいるような環境ではないか。
実際には、子供を産み育てるということには、まさに言葉では言い尽くせない喜びと恵みがある祝福された営みだとは思うのだけど。
最近の親はおかしい、異常だ、わがままだ、といった話はよく聞く。たぶん、それも一面の真実なんだろうとも思う。
でも恐らく、おかしくて異常でわがままで人間失格の親は、昔もたくさんいた。昔と今とで、その比率が著しく変わっているような気は、何故かしない。変わったとすれば、その異常な部分がどこに突出していたかという違いだと思う。
社会が豊かになっていったせいなのか、今の日本では、「良識ある社会人」として生きていくハードルは、かなり高い気がする。
そこそこ高水準の言語能力や、政治家の言うことを鵜呑みにしない程度の思考力と知能だけでも、なかなか大変な条件だと思うけれど、それに加えてかなりの額の年収を稼ぐこと(できれば定期的な収入で)が加わり、しかも他人に迷惑は決してかけてはいけない。
相性が悪い先生がいようが陰湿ないじめっ子がいようが学校にはきちんと通っていたという過去がなければならないらしいし、ひきこもりやニートやフリーターと名付けられる状態には断じてなってもらっては困る。
これは実は、考えられているほど容易いラインではないんじゃないだろうか。
こういう、「良識ある社会人を生産すること」を求められる「親」という立場は、かなりしんどいと思う。それを上回るほどの心の潤いがあるからこそ続いている営みだ。
もし本当に、「今の親が異常で歪んでいる」のなら、そこにはやはり理由があるだろう。そして、私が仮に人の親になったとして、しかも「歪んでしまう」としたら(その可能性は自他が思うほど低くはないと思うけれど)要因のいくばくかは、その辺りに——本能がもたらす心の潤いがカバーできなくなるほどの、無言の圧力にあるような気がしてならない。
親なんてね、別におかしくたって異常だって、子供は何とか育つもんだよ。大丈夫大丈夫。
そんな感じの気楽さが、子育てを取り巻く空気にはない。子供を産み育てることは大事業、しかも失敗が許されず、仮に失敗したとしたら取り返しがつかず、ありとあらゆる非難の対象になる責任重大の行為らしいのだ。
これは中世ヨーロッパの修道院入り並みの覚悟をせまる話じゃないだろうか。
まぁ、だから私は子供を産むという選択をしていない、という訳でもない、と思いたいけれど。
その後、色々と「最近の親はおかしい」「すぐ『ウチの子の人権が』とか言い出す」といった話がコメントで続いていく。
それを読んでいて、今の世の中では子育ては大変だと感じてしまった。小姑が家の中にも外にもうじゃうじゃいるような環境ではないか。
実際には、子供を産み育てるということには、まさに言葉では言い尽くせない喜びと恵みがある祝福された営みだとは思うのだけど。
最近の親はおかしい、異常だ、わがままだ、といった話はよく聞く。たぶん、それも一面の真実なんだろうとも思う。
でも恐らく、おかしくて異常でわがままで人間失格の親は、昔もたくさんいた。昔と今とで、その比率が著しく変わっているような気は、何故かしない。変わったとすれば、その異常な部分がどこに突出していたかという違いだと思う。
社会が豊かになっていったせいなのか、今の日本では、「良識ある社会人」として生きていくハードルは、かなり高い気がする。
そこそこ高水準の言語能力や、政治家の言うことを鵜呑みにしない程度の思考力と知能だけでも、なかなか大変な条件だと思うけれど、それに加えてかなりの額の年収を稼ぐこと(できれば定期的な収入で)が加わり、しかも他人に迷惑は決してかけてはいけない。
相性が悪い先生がいようが陰湿ないじめっ子がいようが学校にはきちんと通っていたという過去がなければならないらしいし、ひきこもりやニートやフリーターと名付けられる状態には断じてなってもらっては困る。
これは実は、考えられているほど容易いラインではないんじゃないだろうか。
こういう、「良識ある社会人を生産すること」を求められる「親」という立場は、かなりしんどいと思う。それを上回るほどの心の潤いがあるからこそ続いている営みだ。
もし本当に、「今の親が異常で歪んでいる」のなら、そこにはやはり理由があるだろう。そして、私が仮に人の親になったとして、しかも「歪んでしまう」としたら(その可能性は自他が思うほど低くはないと思うけれど)要因のいくばくかは、その辺りに——本能がもたらす心の潤いがカバーできなくなるほどの、無言の圧力にあるような気がしてならない。
親なんてね、別におかしくたって異常だって、子供は何とか育つもんだよ。大丈夫大丈夫。
そんな感じの気楽さが、子育てを取り巻く空気にはない。子供を産み育てることは大事業、しかも失敗が許されず、仮に失敗したとしたら取り返しがつかず、ありとあらゆる非難の対象になる責任重大の行為らしいのだ。
これは中世ヨーロッパの修道院入り並みの覚悟をせまる話じゃないだろうか。
まぁ、だから私は子供を産むという選択をしていない、という訳でもない、と思いたいけれど。
抗生物質 ― 2005年08月26日
mixiで、少し体罰についてコメントを書いたら、だいぶんこじれてきてしまったので、反省している。相手の方は、そもそも反論など求めていなかったのだ。「世の中は悪くなったよなぁ、最近の子供はほんとに悪いよ、それも親の教育のせいだ!」という愚痴に、そうだよねぇと相槌を打ってほしかっただけなのだ。
こういうのを「空気を読めない」と言うんだろうな。
大昔、「子供は動物だから、ぶたなきゃわかんないんだ」と言った人に、「それはあなたが動物だっただけじゃ?」と言ってえらい不機嫌にしてしまった大失敗を思い出す。
という訳で、私は意外と体罰についてまとまった考えを持っているらしいので、ここでちょっとまとめておこうかと思う。長くなるので、読もうという心優しい方はご覚悟を。
ところで、私は体罰について非常に冷ややかな見方をしている人だけれど、体罰撲滅運動みたいなものは考えていない。理由は簡単で、ある目的を妥協なく追い求めていくと、必ず反作用が起きて、の追求行為自体が目的を妨げる結果になるからだ。クラウゼヴィッツも言っている通り。
それから、「私は鉄拳教育で育ったけれど、それで歪みはしなかったし、むしろ感謝している」という人にケチをつける気はない。それはよかったですね、よい教育に恵まれましたね、と微笑むだけだ。
百人いれば、百人にふさわしい教育があるのだろう。世の中には、運命か偶然か故意か、ともあれ自分にとって最もふさわしい教育をきちんと与えられた人がたくさんいる。それは感謝し、喜べばいいことだろう。
だが、それと、体罰の難しさは別である。
手術してガンが治った人が、「私の場合はうまくいきました」といって、世界中のガン患者全てに手術するよう言って回るのは、大きなお世話を通り越して危険な話なのと、同じだ。
体罰というものを何かに例えるとすれば、私は「抗生物質」に例えると思う。それも適量を判断するのが難しい、熟練した医師の注意深い判断を必要とするような。
ある行為を子供に強制(というと聞こえは悪いけど、要するに退屈でも人の話はちゃんと聞こうとか、ほしくても人のものはとってはいけませんとか、そういうことだ)するのにあたって、適所適時適材を選べば、体罰は短い時間で殲滅的に効果を発揮する。道ばたでぎゃんぎゃん泣いてぐずっている子供を黙らせて家の中に連れて行くのに、これほど簡単で効果の高い方法はあまりない。
(私は親として子育てをしたことはないけれど、家庭環境の都合で、幼児から中学高校生まで、子供の面倒を見たことはかなりあるので、これは自信を持って言える)
ただ、常にどのような状況・相手でも同じだけの効果を発揮するとは限らない。副作用もまぁ、それなりにある。
じゃあ「注意深く、熟練した人の配慮と判断のもとに、適量の体罰を必要な時にだけ与えるのはいいことですね」と私も書きたいところだけれど。
でも、簡単で効果が期待される方法があれば、誰だってそれに飛びつくのだ。
飲めばやせるダイエット茶が、どんなにインチキ呼ばわりされても売れるのは、食べる量を抑制して一定の運動を欠かさずに行うという気が長い方法より、簡単だからである。
簡単に目的を達成できる方法があるのに、何だって「子供の目線になって考える」だの「人権に配慮する」だの「話をよく聞く」だのといった、手間がかかって効果が目に見えてこない方法をとらなくてはならないのだ?
手近な方法があれば、ひとはそれを使うものだ。正義と常識を子供に教えるのに往復ビンタを一回使った人が、二度としないなんてことは、たぶんない。必要を感じれば何回でも使うだろう。その全てが、「注意深く、熟練した人の配慮と判断のもとに、適量を必要な時にだけ」与えられるものなのか。
私は人間の咄嗟の判断というものを、そこまで信頼はしていない。人間は、間違うものである。
経緯はどうあれ、人を殴った経験、ひっぱたいた経験、肉体的に傷つけた経験がある人は、どれくらいいるだろうか。
私は小学生の時、ケンカがこじれて、相手の女の子の首をしめて殺しそうになったことがある。今でも時々記憶の箱からびっくり箱のお化けのように飛び出してきて、私を窒息させる経験のひとつだ。
その経験から学んだことは、「手を出す時には、頭なんて働いてない」という生理である。
冷静沈着な時には、大抵、人なんて叩けない。叩けるとしたら、それは一定の特殊な訓練か素質を必要とする。
(中井久夫氏のエッセイで読んだが、戦場で撃たれた銃弾のほとんどは、人ではなく空や物に対して向けられるそうである。人間は、簡単には人に銃を撃てないものなのだ。この「発砲率」の低さが軍隊では大きな問題となり、アメリカはこれを「改善」するために多くの訓練を編み出した。結果、ベトナム戦争では発砲率は95%に上がり、その代償として平時に適応できないたくさんの帰還兵を生んでしまったらしい。まぁこれは単なる「暴力」ではなく「殺人」であるから、ここで持ち出すにはあまりに極端な話であろうけど)
冷静な時には人をひっぱたくなどできないというのが事実であったとしたら、「冷静な判断の元に与えられる体罰」というものが、どれだけ困難な行為であるか。想像するだに恐ろしい。
もっとも、実際には体罰のほとんどは、かっとなって振るわれるものだから、多くの場合は一定のところで「我に返って」終わりになるのだろう。大抵は、その自然の作用でタイミングは間違わないのだと思う。
だが、抗生物質と同じく、肉体的接触には、慣れがある。
同じ効果を発揮するのに、同じ量では済まなくなるのだ。往復ビンタで言うことをきいた子供が、それからは従順で思いやりのある子供に必ず生まれ変わるのなら話は簡単だけど、そこで終わらないことだってたくさんある。
ビンタで言うことをきかないので、お尻を叩くようになり、それでも泣くので布団叩きでひっぱたいた、なんて話を笑い話でよく聞く。笑っていられるのは、当事者達が幸運にも今も健康で互いに仲良くしているからだ。笑っていられない人がどこかにいることを、彼らは想像もしてないかも知れないが。
慣れが発生しても効果を発揮しようと思えば、量を増やすしかない訳で、こうして時々「行きすぎたしつけ」というやつが発生するのだろう。
体罰の難しいところ、議論をややこしくするところは、
「体罰」と「暴力」は別物である
(タカとワシが別の鳥であるように)
けれど同一線上に並んでいる
(タカとワシの生物学的分類の基準は非常に曖昧であるように)
という点だ。
「オレは暴力は反対だが、体罰は必要だと思うよ」と言う人は、どんな時でもその二つを峻別できる判断能力があると無意識に自負しているのだろう。その自負心は立派だが、仮に間違えた場合、結果は大抵、取り返しがつかないのである。
「それはたまたま、不幸な偶然だったんだよ」と言えれば楽だと思う。私は、一の犠牲を気にして百の成功例を見ないタイプなのかも知れない。だが成功した人は、ときおり、あまりに失敗や犠牲に関して無知なことがある。
Itと呼ばれた子みたいな虐待と、ぐずる子供のお尻をお母さんが軽くペンと叩く、というような極端な二例なら、そりゃあ判断は簡単だ。それで全てが説明できるなら、世のいじめや家庭内・校内暴力はどんなに楽だろうか。
おまけに、暴力への感受性(許容量)という問題もある。
今の子供は恥をかきたがらないとか、傷つくことに過敏とか言うけれど、私は昔の子供もそうだったと思うし、クローズアップされるところの違いだと思う。だがその真偽についてはここでは触れない。
ともかくも、人は本当に様々で、鈴木さんにとっては何てことのない言動が、佐藤さんにとっては死にたいくらいのショックだった、ということはよくある。
物事は、とにかく、自分が思った通りには受け取られないものだ。
跳び蹴りを食らっても「いい思い出」にできる人もいれば、頭をはたかれたことが生涯忘れられない人もいる。その時の状況や相手との関係性もあるだろう。行為自体よりもそちらの方が問題かもしれない。人の心は、ややこしいのだ。
体罰の容認は、「善良な市民の生命財産を守るために」武器の所持を許可するようなものなのだろうか。ほとんどの人は正しくそれを使うだろう。だが、誤って使われることも多いだろう。そして、使われる回数が増えれば、心理的抵抗はどんどん減り、容易に使われるようになる。
もしも体罰を認めるのであれば、特に教師は、警官の訓練並みの厳しい心身の鍛練を義務づけるべきだと思う。どこまでなら叩いていいのか、どんな時は叩いてはいけないのか、今の教師はそれを知っているだろうか。そして、地域の大人は?
私の知り合いには何人か、色々な病気のたびに抗生物質を投与してきたので、最近ではあまり抗生物質が効かなくなったと嘆く人がいる。
体罰が、そんな結果を招かないよう願う。
そして体罰の是非よりも実はもっともっと大切なことは、
「ある理想的なひとつの方法で全ての子供が教育できる」
という思い上がった理想主義に、依存しないということだ。
間違った教育が無数にあるのなら、正しい教育も無数にある。そして究極的には、最高の教育者は自分であり、最も向き合わねばならない教育の対象も、自分なのであろう。
私も、体罰の是非をあれこれ書くよりも先に、自分自身の教育について、もっと真剣になった方がいい、のかも知れないが。
こういうのを「空気を読めない」と言うんだろうな。
大昔、「子供は動物だから、ぶたなきゃわかんないんだ」と言った人に、「それはあなたが動物だっただけじゃ?」と言ってえらい不機嫌にしてしまった大失敗を思い出す。
という訳で、私は意外と体罰についてまとまった考えを持っているらしいので、ここでちょっとまとめておこうかと思う。長くなるので、読もうという心優しい方はご覚悟を。
ところで、私は体罰について非常に冷ややかな見方をしている人だけれど、体罰撲滅運動みたいなものは考えていない。理由は簡単で、ある目的を妥協なく追い求めていくと、必ず反作用が起きて、の追求行為自体が目的を妨げる結果になるからだ。クラウゼヴィッツも言っている通り。
それから、「私は鉄拳教育で育ったけれど、それで歪みはしなかったし、むしろ感謝している」という人にケチをつける気はない。それはよかったですね、よい教育に恵まれましたね、と微笑むだけだ。
百人いれば、百人にふさわしい教育があるのだろう。世の中には、運命か偶然か故意か、ともあれ自分にとって最もふさわしい教育をきちんと与えられた人がたくさんいる。それは感謝し、喜べばいいことだろう。
だが、それと、体罰の難しさは別である。
手術してガンが治った人が、「私の場合はうまくいきました」といって、世界中のガン患者全てに手術するよう言って回るのは、大きなお世話を通り越して危険な話なのと、同じだ。
体罰というものを何かに例えるとすれば、私は「抗生物質」に例えると思う。それも適量を判断するのが難しい、熟練した医師の注意深い判断を必要とするような。
ある行為を子供に強制(というと聞こえは悪いけど、要するに退屈でも人の話はちゃんと聞こうとか、ほしくても人のものはとってはいけませんとか、そういうことだ)するのにあたって、適所適時適材を選べば、体罰は短い時間で殲滅的に効果を発揮する。道ばたでぎゃんぎゃん泣いてぐずっている子供を黙らせて家の中に連れて行くのに、これほど簡単で効果の高い方法はあまりない。
(私は親として子育てをしたことはないけれど、家庭環境の都合で、幼児から中学高校生まで、子供の面倒を見たことはかなりあるので、これは自信を持って言える)
ただ、常にどのような状況・相手でも同じだけの効果を発揮するとは限らない。副作用もまぁ、それなりにある。
じゃあ「注意深く、熟練した人の配慮と判断のもとに、適量の体罰を必要な時にだけ与えるのはいいことですね」と私も書きたいところだけれど。
でも、簡単で効果が期待される方法があれば、誰だってそれに飛びつくのだ。
飲めばやせるダイエット茶が、どんなにインチキ呼ばわりされても売れるのは、食べる量を抑制して一定の運動を欠かさずに行うという気が長い方法より、簡単だからである。
簡単に目的を達成できる方法があるのに、何だって「子供の目線になって考える」だの「人権に配慮する」だの「話をよく聞く」だのといった、手間がかかって効果が目に見えてこない方法をとらなくてはならないのだ?
手近な方法があれば、ひとはそれを使うものだ。正義と常識を子供に教えるのに往復ビンタを一回使った人が、二度としないなんてことは、たぶんない。必要を感じれば何回でも使うだろう。その全てが、「注意深く、熟練した人の配慮と判断のもとに、適量を必要な時にだけ」与えられるものなのか。
私は人間の咄嗟の判断というものを、そこまで信頼はしていない。人間は、間違うものである。
経緯はどうあれ、人を殴った経験、ひっぱたいた経験、肉体的に傷つけた経験がある人は、どれくらいいるだろうか。
私は小学生の時、ケンカがこじれて、相手の女の子の首をしめて殺しそうになったことがある。今でも時々記憶の箱からびっくり箱のお化けのように飛び出してきて、私を窒息させる経験のひとつだ。
その経験から学んだことは、「手を出す時には、頭なんて働いてない」という生理である。
冷静沈着な時には、大抵、人なんて叩けない。叩けるとしたら、それは一定の特殊な訓練か素質を必要とする。
(中井久夫氏のエッセイで読んだが、戦場で撃たれた銃弾のほとんどは、人ではなく空や物に対して向けられるそうである。人間は、簡単には人に銃を撃てないものなのだ。この「発砲率」の低さが軍隊では大きな問題となり、アメリカはこれを「改善」するために多くの訓練を編み出した。結果、ベトナム戦争では発砲率は95%に上がり、その代償として平時に適応できないたくさんの帰還兵を生んでしまったらしい。まぁこれは単なる「暴力」ではなく「殺人」であるから、ここで持ち出すにはあまりに極端な話であろうけど)
冷静な時には人をひっぱたくなどできないというのが事実であったとしたら、「冷静な判断の元に与えられる体罰」というものが、どれだけ困難な行為であるか。想像するだに恐ろしい。
もっとも、実際には体罰のほとんどは、かっとなって振るわれるものだから、多くの場合は一定のところで「我に返って」終わりになるのだろう。大抵は、その自然の作用でタイミングは間違わないのだと思う。
だが、抗生物質と同じく、肉体的接触には、慣れがある。
同じ効果を発揮するのに、同じ量では済まなくなるのだ。往復ビンタで言うことをきいた子供が、それからは従順で思いやりのある子供に必ず生まれ変わるのなら話は簡単だけど、そこで終わらないことだってたくさんある。
ビンタで言うことをきかないので、お尻を叩くようになり、それでも泣くので布団叩きでひっぱたいた、なんて話を笑い話でよく聞く。笑っていられるのは、当事者達が幸運にも今も健康で互いに仲良くしているからだ。笑っていられない人がどこかにいることを、彼らは想像もしてないかも知れないが。
慣れが発生しても効果を発揮しようと思えば、量を増やすしかない訳で、こうして時々「行きすぎたしつけ」というやつが発生するのだろう。
体罰の難しいところ、議論をややこしくするところは、
「体罰」と「暴力」は別物である
(タカとワシが別の鳥であるように)
けれど同一線上に並んでいる
(タカとワシの生物学的分類の基準は非常に曖昧であるように)
という点だ。
「オレは暴力は反対だが、体罰は必要だと思うよ」と言う人は、どんな時でもその二つを峻別できる判断能力があると無意識に自負しているのだろう。その自負心は立派だが、仮に間違えた場合、結果は大抵、取り返しがつかないのである。
「それはたまたま、不幸な偶然だったんだよ」と言えれば楽だと思う。私は、一の犠牲を気にして百の成功例を見ないタイプなのかも知れない。だが成功した人は、ときおり、あまりに失敗や犠牲に関して無知なことがある。
Itと呼ばれた子みたいな虐待と、ぐずる子供のお尻をお母さんが軽くペンと叩く、というような極端な二例なら、そりゃあ判断は簡単だ。それで全てが説明できるなら、世のいじめや家庭内・校内暴力はどんなに楽だろうか。
おまけに、暴力への感受性(許容量)という問題もある。
今の子供は恥をかきたがらないとか、傷つくことに過敏とか言うけれど、私は昔の子供もそうだったと思うし、クローズアップされるところの違いだと思う。だがその真偽についてはここでは触れない。
ともかくも、人は本当に様々で、鈴木さんにとっては何てことのない言動が、佐藤さんにとっては死にたいくらいのショックだった、ということはよくある。
物事は、とにかく、自分が思った通りには受け取られないものだ。
跳び蹴りを食らっても「いい思い出」にできる人もいれば、頭をはたかれたことが生涯忘れられない人もいる。その時の状況や相手との関係性もあるだろう。行為自体よりもそちらの方が問題かもしれない。人の心は、ややこしいのだ。
体罰の容認は、「善良な市民の生命財産を守るために」武器の所持を許可するようなものなのだろうか。ほとんどの人は正しくそれを使うだろう。だが、誤って使われることも多いだろう。そして、使われる回数が増えれば、心理的抵抗はどんどん減り、容易に使われるようになる。
もしも体罰を認めるのであれば、特に教師は、警官の訓練並みの厳しい心身の鍛練を義務づけるべきだと思う。どこまでなら叩いていいのか、どんな時は叩いてはいけないのか、今の教師はそれを知っているだろうか。そして、地域の大人は?
私の知り合いには何人か、色々な病気のたびに抗生物質を投与してきたので、最近ではあまり抗生物質が効かなくなったと嘆く人がいる。
体罰が、そんな結果を招かないよう願う。
そして体罰の是非よりも実はもっともっと大切なことは、
「ある理想的なひとつの方法で全ての子供が教育できる」
という思い上がった理想主義に、依存しないということだ。
間違った教育が無数にあるのなら、正しい教育も無数にある。そして究極的には、最高の教育者は自分であり、最も向き合わねばならない教育の対象も、自分なのであろう。
私も、体罰の是非をあれこれ書くよりも先に、自分自身の教育について、もっと真剣になった方がいい、のかも知れないが。
加害 ― 2005年08月26日
最悪だ。また人に対してひどい嫌味を言ってしまった。先方は激怒(というか冷酷無惨に切って捨てたという方が近いだろう)して、私は有罪になった。全く自業自得でどうしようもない。
こういう時に、人を傷つけるのは結局自分を傷つけることだ、と思う。
さすがに、何の理由もなく「面白そうだったから」嫌味を言った訳ではなくて、そこに至るまでのそれなりの経緯はあった。その前に先方に言われたことで、私はかなり傷ついたし、腹も立ったし、夜も眠れないほどくよくよ考えた。
自分のしでかしたことの重さはさておき、今でも思い出すと、まさに「はらわたが煮える思い」というやつを味わう。
だが、別に相手にその苦しみを返そうと思っていた訳ではないし、返したからと言って気が済むものでも全くない。
ここで言うのも何だが、私はネットで(たぶん実生活でも)かなりの温厚さんである。ただ、大幅に価値観が狂っているので、おかしなことをしょっちゅう言うのだ。そのせいで、たくさんの人に嫌われたし、怒られたし、いやがられてきた。
どんなに温厚に書いてもそうなのだから、嫌味など書こうものなら、どれほど私の書くものが不快なものになるかは、考えるも恐ろしい。その気になれば、私は、自分の虚弱さを棚に上げ、人の心に毒を盛りかねない人間なのだ。
私は恐らく、被害者よりも加害者に近い人間なのだろう。
常に、自分の中にある加害感情を意識している。それと話し合い、なだめ、時にはなぐさめ、時にはねじふせて、毎日生きている。
その果てしのない繰り返しの中から見えてくる、きれいなものが、それをくぐり抜けることでしか得られない何かがあるのだと、自分に言いきかせながら。毎日泣きそうな気持ちになりながら。こんなことを考えるのは自分だけじゃないかという底なしの恐怖に怯えながら。
誰も同情しない、誰も気づきもしない、精神の格闘。
ある時、ふと、
「こんなに必死に自分はがんばっているのに、何も善くならないし、誰も私のこの努力を知らない。私の苦しみに気づきもせず、私が作り出そうとするこの平和を、みんなは当然のもののように受け取っているじゃないか」
という、理不尽な感情がこみあげてくることがある。
これがほんの少し狂った時、私は空恐ろしい加害者になるだろう。
触れる者全てを傷つけ、あざけり、平穏をことごとく破壊し尽くして、その結果に訪れる不幸にさえも唾を吐く、モンスターと化すだろう。
モンスターになるかも知れない、という恐怖。
それは、自己の良心に何一つ恥じることなく、正義から揺らぐことなく生活していける、「普通の人」には決してわからないであろうものだ。だがその恐怖は確かに存在し、それに取り憑かれた時に、「普通の人」の無神経な幸福さがたまらなく不愉快であることを、私はおぼろげながら知っているのである。
私が「正義」を声高に訴える人に感じる、生理的な反発と嫌悪と憎悪は、たぶんその辺りに根を持っているのだろう。
時々、私は疲れ果てて、誰もいないところでひとりで泣いて過ごす。鳥さえも遠ざけて。
大抵は、泣いて、何かを必死になって書いて、それで感情は変わる。
私はそうやって何とか生きている。誰かの励ましや、同情や、共感や、理解や、愛情が私の上に注がれたら、どれだけうれしいだろうと思いつつ、それは恐らく得られないこともよくわかっている。
それでも、この厄介な精神を持って生まれたことには、何か意味があるのだと信じて——信じなければやっていけない、という面もあるけれど——日々を送る。
申し訳ありませんでした、と書いて、私は自分がどうしてそんな言動に至ったのかを逐一説明したい欲求を押し殺す。そんな説明には、何の意味もないことを噛みしめながら。
私の心の問題は、私が片づけるよりほかない。
この深い自己嫌悪を昇華して、何か綺麗な、心温まるものに変えていくこと。その、あまりに遠い目標を、かすんだ眼差しで見やりながら。
こういう時に、人を傷つけるのは結局自分を傷つけることだ、と思う。
さすがに、何の理由もなく「面白そうだったから」嫌味を言った訳ではなくて、そこに至るまでのそれなりの経緯はあった。その前に先方に言われたことで、私はかなり傷ついたし、腹も立ったし、夜も眠れないほどくよくよ考えた。
自分のしでかしたことの重さはさておき、今でも思い出すと、まさに「はらわたが煮える思い」というやつを味わう。
だが、別に相手にその苦しみを返そうと思っていた訳ではないし、返したからと言って気が済むものでも全くない。
ここで言うのも何だが、私はネットで(たぶん実生活でも)かなりの温厚さんである。ただ、大幅に価値観が狂っているので、おかしなことをしょっちゅう言うのだ。そのせいで、たくさんの人に嫌われたし、怒られたし、いやがられてきた。
どんなに温厚に書いてもそうなのだから、嫌味など書こうものなら、どれほど私の書くものが不快なものになるかは、考えるも恐ろしい。その気になれば、私は、自分の虚弱さを棚に上げ、人の心に毒を盛りかねない人間なのだ。
私は恐らく、被害者よりも加害者に近い人間なのだろう。
常に、自分の中にある加害感情を意識している。それと話し合い、なだめ、時にはなぐさめ、時にはねじふせて、毎日生きている。
その果てしのない繰り返しの中から見えてくる、きれいなものが、それをくぐり抜けることでしか得られない何かがあるのだと、自分に言いきかせながら。毎日泣きそうな気持ちになりながら。こんなことを考えるのは自分だけじゃないかという底なしの恐怖に怯えながら。
誰も同情しない、誰も気づきもしない、精神の格闘。
ある時、ふと、
「こんなに必死に自分はがんばっているのに、何も善くならないし、誰も私のこの努力を知らない。私の苦しみに気づきもせず、私が作り出そうとするこの平和を、みんなは当然のもののように受け取っているじゃないか」
という、理不尽な感情がこみあげてくることがある。
これがほんの少し狂った時、私は空恐ろしい加害者になるだろう。
触れる者全てを傷つけ、あざけり、平穏をことごとく破壊し尽くして、その結果に訪れる不幸にさえも唾を吐く、モンスターと化すだろう。
モンスターになるかも知れない、という恐怖。
それは、自己の良心に何一つ恥じることなく、正義から揺らぐことなく生活していける、「普通の人」には決してわからないであろうものだ。だがその恐怖は確かに存在し、それに取り憑かれた時に、「普通の人」の無神経な幸福さがたまらなく不愉快であることを、私はおぼろげながら知っているのである。
私が「正義」を声高に訴える人に感じる、生理的な反発と嫌悪と憎悪は、たぶんその辺りに根を持っているのだろう。
時々、私は疲れ果てて、誰もいないところでひとりで泣いて過ごす。鳥さえも遠ざけて。
大抵は、泣いて、何かを必死になって書いて、それで感情は変わる。
私はそうやって何とか生きている。誰かの励ましや、同情や、共感や、理解や、愛情が私の上に注がれたら、どれだけうれしいだろうと思いつつ、それは恐らく得られないこともよくわかっている。
それでも、この厄介な精神を持って生まれたことには、何か意味があるのだと信じて——信じなければやっていけない、という面もあるけれど——日々を送る。
申し訳ありませんでした、と書いて、私は自分がどうしてそんな言動に至ったのかを逐一説明したい欲求を押し殺す。そんな説明には、何の意味もないことを噛みしめながら。
私の心の問題は、私が片づけるよりほかない。
この深い自己嫌悪を昇華して、何か綺麗な、心温まるものに変えていくこと。その、あまりに遠い目標を、かすんだ眼差しで見やりながら。
最近のコメント