ボトルレターではなく電話 ― 2014年07月27日
小説にしろ漫画にしろ、物語を読むことに対する意欲がものすごく落ちている。
そういう状態が年単位で続いているので、自分が活字中毒であることを忘れそうになるのだけれど、かといって充足している感覚もないし、未だにゲームを遊ぶモチベーションの大半は物語の感受なので、物語への欲望自体が低下している訳でもなさそうだ。
物語への飢餓感はあるけれど、読む気にはなれない。空腹感はあるのに食欲がない、みたいな変な感じ。
感想やレビューや解釈についての書き物をすれば、少しは意欲が高まるかなぁと一時期割と真面目に書いてみたけれど、どうもそういうテーマの書き物は、反響がないと手応えが感じられないようだ。
レビュー以外のテーマの書き物は、書くこと自体で十分手応えになるというか、そこで満足感があるのだけど、本やゲームのレビューというのは何故か「読まれた先」が見えないとすごく虚しくなる。
当たり前だが、そんなに大したものを書いている訳ではない以上反響は皆無に近いので、段々とやる気が下がっていって、今はあまり書いていない。書こうかな、と思う作品はいくつもあるのだけれど。普段、あまり読み手の反応が行動原理に影響しないタイプの書き手なので、ちょっと珍しい。
思うに、私にとってはレビューや感想は、会話の延長というか、自分の解釈を増幅させてくれるラリーとして書かれているのだと思う。普段の文章が、呼気のように、ただ流れるように、あるいは降ってくるように書いているものなのに対して、こちらは明確に返事を必要としている。それも、ただの返事ではなく、相性のよい返事を、である。
相性がいいというのは、単純な「そうそう、そうだよね」という肯定ではなくて、肯定を含みつつも違った視点や違った解釈、時には否定をもはらむ「そうかそういう読みがあったのか」と思えるものである。かといって、「なるほどその解釈はすごい」と思えるものでも、あまりに素晴らしすぎたり偉かったりする人の解釈だと、今度はこっちの解釈の存在意義がないのでただの上書きになってしまい、これはこれで無意味になる。
なので「たまたま同じ本を読んだ人と共有するソーシャルリーディング」では、この欲求は全然満たされない。というかむしろそういう場は相性の悪いノイズが多すぎて邪魔になることの方が多い。ソーシャルリーディングの場に、結局なじめなかったのも、そういう「互いに相性のよい会話」を構築できない、理論上は構築のために開かれているのだが実際上それを実現するための手間が巨大すぎたからだと思う。
何となく、今の私は、読書体験というものがひどく一方通行になっている印象が強いようだ。
もしかしたらこの感覚は、もっと根深いところに絡んでいるのかも知れないが、追究したところであんまりいい結果にならない気がするので、深追いしないことにする。
とりあえず、この読書や物語への欲求自体を放置して極限の空腹になって贅沢を言わない状態にまで落とし込むか、相性のよい返事が来ないものしか書けない自業自得状態の無意味感に耐え忍びつつそれでもレビューや感想を書くか、どちらかになるのだろう。
同じ作品を読んでいる、というただその一点だけで友達になれた、そういう時代に戻りたいとは思わないけれど、そういう環境にあった頃は楽だったのだなぁ……という気持ちはある。人間は、今ある恵みには大抵気づかないで、後になってようやく気づくものなので、たぶん今も何かすごい恵みがあるのだろうけれど。
そういう状態が年単位で続いているので、自分が活字中毒であることを忘れそうになるのだけれど、かといって充足している感覚もないし、未だにゲームを遊ぶモチベーションの大半は物語の感受なので、物語への欲望自体が低下している訳でもなさそうだ。
物語への飢餓感はあるけれど、読む気にはなれない。空腹感はあるのに食欲がない、みたいな変な感じ。
感想やレビューや解釈についての書き物をすれば、少しは意欲が高まるかなぁと一時期割と真面目に書いてみたけれど、どうもそういうテーマの書き物は、反響がないと手応えが感じられないようだ。
レビュー以外のテーマの書き物は、書くこと自体で十分手応えになるというか、そこで満足感があるのだけど、本やゲームのレビューというのは何故か「読まれた先」が見えないとすごく虚しくなる。
当たり前だが、そんなに大したものを書いている訳ではない以上反響は皆無に近いので、段々とやる気が下がっていって、今はあまり書いていない。書こうかな、と思う作品はいくつもあるのだけれど。普段、あまり読み手の反応が行動原理に影響しないタイプの書き手なので、ちょっと珍しい。
思うに、私にとってはレビューや感想は、会話の延長というか、自分の解釈を増幅させてくれるラリーとして書かれているのだと思う。普段の文章が、呼気のように、ただ流れるように、あるいは降ってくるように書いているものなのに対して、こちらは明確に返事を必要としている。それも、ただの返事ではなく、相性のよい返事を、である。
相性がいいというのは、単純な「そうそう、そうだよね」という肯定ではなくて、肯定を含みつつも違った視点や違った解釈、時には否定をもはらむ「そうかそういう読みがあったのか」と思えるものである。かといって、「なるほどその解釈はすごい」と思えるものでも、あまりに素晴らしすぎたり偉かったりする人の解釈だと、今度はこっちの解釈の存在意義がないのでただの上書きになってしまい、これはこれで無意味になる。
なので「たまたま同じ本を読んだ人と共有するソーシャルリーディング」では、この欲求は全然満たされない。というかむしろそういう場は相性の悪いノイズが多すぎて邪魔になることの方が多い。ソーシャルリーディングの場に、結局なじめなかったのも、そういう「互いに相性のよい会話」を構築できない、理論上は構築のために開かれているのだが実際上それを実現するための手間が巨大すぎたからだと思う。
何となく、今の私は、読書体験というものがひどく一方通行になっている印象が強いようだ。
もしかしたらこの感覚は、もっと根深いところに絡んでいるのかも知れないが、追究したところであんまりいい結果にならない気がするので、深追いしないことにする。
とりあえず、この読書や物語への欲求自体を放置して極限の空腹になって贅沢を言わない状態にまで落とし込むか、相性のよい返事が来ないものしか書けない自業自得状態の無意味感に耐え忍びつつそれでもレビューや感想を書くか、どちらかになるのだろう。
同じ作品を読んでいる、というただその一点だけで友達になれた、そういう時代に戻りたいとは思わないけれど、そういう環境にあった頃は楽だったのだなぁ……という気持ちはある。人間は、今ある恵みには大抵気づかないで、後になってようやく気づくものなので、たぶん今も何かすごい恵みがあるのだろうけれど。
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