疑似会話2012年12月30日

 私にとって人との会話というのは、思考のメンテナンスというか、調律のようなものです。
 他人の話を聴くにせよ、あるいは他人に話をするにせよ、それをすることによって自分の偏りに気づいて調整したり、逆に偏っていると思っていたものが割とバランスされていることに気づいたり、要するにそういった相互作用が私にとっては重要です。
 私が「会話」というものに載せているものは、他の人よりもずっと重くて、囲碁や将棋を指している感覚に近いかも知れません。囲碁や将棋と言っても、相手を言い負かすとかそういう意味での勝敗を競うものではなくて、勝敗はあるのですが違うレイヤーのもの、お互いにそこに何か貴重なものを作り上げることに成功したか否か、そこから何かを持ち帰ることができるかを目指すものです。
 でもたぶん、普通は会話というのは、もっと軽くて、単純で、あまり意味のあることは載せないものだと思います。

 私がTwitterやSNSでうまくコミュニケーションできないのは、そこにあるのが疑似会話だけれど私にとっての会話ではなく、代替物でさえないのに、どうしても会話をしたいと思う気持ちを捨てられないからでしょう。
 ブログに何かを書く時は、ボトルに手紙を入れて流すような気分になりますが、Twitterに何かを書く時は、繋がっているけれど無音しか返ってこない番号に電話をかけている感覚を覚えます。
 それは無音の音叉を基準にピアノを調律するような作業で、それならいっそ、調律など始めからしない方がましなのではと思います。

 様々な疑似会話ツールが増えていくほど、私にとっての「会話」をする機会は少なくなっていって、今ではもう宝石のような貴重品になりつつあります。その貴重な機会も、実に些細な理由で壊れていくのが普通で、もはや手の届かないものなのではと感じることもしょっちゅうです。