無言 ― 2011年07月01日
ブログやmixiやTwitterなど、自己表現をする場はどんどん増えてきました。少し窓を開けば、たくさんの人の声が聞こえ、好むと好まざるとに関わらず言葉が飛び込んでくる。そんな世の中です。
朝起きた時間から食べたものから職場の愚痴から恋愛相談から就寝の挨拶まで、誰に聞かせるともなくつぶやくことができる、そこに返事がかえってくる日常。そして家と同じように、コミュニケーションチャンネルにもある程度定期的に「風を通す」方が好まれるので、常に一定量のつぶやきささやきが、場を満たしています。
それによって、消化され昇華され解消されているものがある一方で、それによって消耗されているものもあるのかも知れません。
昔どこかで、
「スパイは自分から秘密を探り出そうとか、何かを要求しようとかはせず、じっと黙って話を聞き続けるのである。話すことがなくなると、人は自然に、言ってはならないことでも、秘密でも、自分から言い始めるものである」
というようなことを聞いた覚えがあります。うろ覚えですし、本当なのかどうかはわかりませんが、妙に説得力がある言葉です。
無言に耐えること、秘密を持ち堪えること、は、華麗なる言葉の空中戦たるネットメディアの世界ではあまり注目されない、心の特別な部分を必要とします。それは平和に耐える能力が戦争に勝つ能力と違うように、目立たず持てはやされることはないけれど確かに在る、能力です。
ヴァレリーが「何故書くのか」と問われた時に「弱さから」と答えたという話を聞いて、その時はすぐに感動はしなかったのですが、ずいぶん後まで心に引っかかっており、今でも時々思い起こします。
おそらく私が書く理由も、かなりの部分は弱さからであろうと思います。私の文章の半分は、宛名は書かないけれど誰かに宛てている一種の手紙です。それを本当の手紙として書かないところに、私の弱さがあるのだと思います。
私は書かずにいられないという意味で、無言に耐える能力を欠いている人間です。
ただ、思いついたことをすぐに書くことを非常に苦手としているという点では、「何かを持ち堪え続ける」という能力は多少はあるのかも知れません。逆に、即応性と打てば響くキレのよさを求められるTwitterに、私が比重をあまり置けないのは、そういった方向性の能力を欠いているからなのでしょう。
朝起きた時間から食べたものから職場の愚痴から恋愛相談から就寝の挨拶まで、誰に聞かせるともなくつぶやくことができる、そこに返事がかえってくる日常。そして家と同じように、コミュニケーションチャンネルにもある程度定期的に「風を通す」方が好まれるので、常に一定量のつぶやきささやきが、場を満たしています。
それによって、消化され昇華され解消されているものがある一方で、それによって消耗されているものもあるのかも知れません。
昔どこかで、
「スパイは自分から秘密を探り出そうとか、何かを要求しようとかはせず、じっと黙って話を聞き続けるのである。話すことがなくなると、人は自然に、言ってはならないことでも、秘密でも、自分から言い始めるものである」
というようなことを聞いた覚えがあります。うろ覚えですし、本当なのかどうかはわかりませんが、妙に説得力がある言葉です。
無言に耐えること、秘密を持ち堪えること、は、華麗なる言葉の空中戦たるネットメディアの世界ではあまり注目されない、心の特別な部分を必要とします。それは平和に耐える能力が戦争に勝つ能力と違うように、目立たず持てはやされることはないけれど確かに在る、能力です。
ヴァレリーが「何故書くのか」と問われた時に「弱さから」と答えたという話を聞いて、その時はすぐに感動はしなかったのですが、ずいぶん後まで心に引っかかっており、今でも時々思い起こします。
おそらく私が書く理由も、かなりの部分は弱さからであろうと思います。私の文章の半分は、宛名は書かないけれど誰かに宛てている一種の手紙です。それを本当の手紙として書かないところに、私の弱さがあるのだと思います。
私は書かずにいられないという意味で、無言に耐える能力を欠いている人間です。
ただ、思いついたことをすぐに書くことを非常に苦手としているという点では、「何かを持ち堪え続ける」という能力は多少はあるのかも知れません。逆に、即応性と打てば響くキレのよさを求められるTwitterに、私が比重をあまり置けないのは、そういった方向性の能力を欠いているからなのでしょう。
休日 ― 2011年07月02日
久しぶりに眼鏡の調整をしてもらったら、ずいぶん眼鏡のつるやら何やらが歪んでいたようで、調整された眼鏡をかけたらすっきりした視界になってました。まめに調整してもらわなくちゃいけないなと反省した次第です……。
今日はついでに巣鴨に行って、ところてんと玄米ちまきと氷抹茶と田舎汁粉を食べ、ちりめんを使った雑貨屋さんをひやかし、通りのあれこれを見てまわり、馬喰町のセレクトショップを覗いて、ついでに馬喰町から秋葉原までのんびり散歩し、秋葉原を通ったにも関わらず3DSのすれちがい通信が3人しかいないことに驚愕し、池袋西武で鯖寿司を買って帰宅して夕飯、という休日らしい休日でした。
セレクトショップでは、青大豆と野草茶と、それからうぐいすきなこを買ったので、これで何かお菓子でも作ろうかと思っています。前に作ったきなことゴマのケーキを、うぐいすきなこで作ってみようかな。
今日はついでに巣鴨に行って、ところてんと玄米ちまきと氷抹茶と田舎汁粉を食べ、ちりめんを使った雑貨屋さんをひやかし、通りのあれこれを見てまわり、馬喰町のセレクトショップを覗いて、ついでに馬喰町から秋葉原までのんびり散歩し、秋葉原を通ったにも関わらず3DSのすれちがい通信が3人しかいないことに驚愕し、池袋西武で鯖寿司を買って帰宅して夕飯、という休日らしい休日でした。
セレクトショップでは、青大豆と野草茶と、それからうぐいすきなこを買ったので、これで何かお菓子でも作ろうかと思っています。前に作ったきなことゴマのケーキを、うぐいすきなこで作ってみようかな。
梅干しの本漬け ― 2011年07月03日
梅干し用の瓶がようやく届いたので、もみしそと合わせて、下漬けしておいた梅を本漬けです。
今回は、生の赤紫蘇が買えなかったので(どうやら売っているタイミングを逃したらしい)もみしその状態のものを買ってきて、漬けました。もみしそ作りは来年以降にします。
1kgしか梅を漬けていないので、あがってきた梅酢の量も少なめで、瓶に詰めた時に梅全部を覆ってくれる量ではありません。なので、これも白梅酢を購入してきて追加することに。意外と量が必要で、400mlくらい追加しました。もっと大量に梅を漬けると、梅酢の量も増えて、追加しなくてもよくなるそうですが。
瓶に、緑がかった薄茶色の梅と、もみしそを交互に詰めていき、最後に梅酢をとくとくと注いだところは、フルーツのコンポートの瓶詰めのようでもあり、もはや食べ物というよりも美しいオブジェのような趣です。
土用干しは、瓶から出さずに瓶ごと日光にあてる瓶干し方式を採用する予定です。しかし、梅雨の明けた土用の晴天の時に……と言っても、いつ梅雨が明けるのやら計りかねる昨今の気候では、なかなか難しい気もしますね。とりあえず夏の土用入りは七月二十日なので、その辺りでしょうか。
今回は、生の赤紫蘇が買えなかったので(どうやら売っているタイミングを逃したらしい)もみしその状態のものを買ってきて、漬けました。もみしそ作りは来年以降にします。
1kgしか梅を漬けていないので、あがってきた梅酢の量も少なめで、瓶に詰めた時に梅全部を覆ってくれる量ではありません。なので、これも白梅酢を購入してきて追加することに。意外と量が必要で、400mlくらい追加しました。もっと大量に梅を漬けると、梅酢の量も増えて、追加しなくてもよくなるそうですが。
瓶に、緑がかった薄茶色の梅と、もみしそを交互に詰めていき、最後に梅酢をとくとくと注いだところは、フルーツのコンポートの瓶詰めのようでもあり、もはや食べ物というよりも美しいオブジェのような趣です。
土用干しは、瓶から出さずに瓶ごと日光にあてる瓶干し方式を採用する予定です。しかし、梅雨の明けた土用の晴天の時に……と言っても、いつ梅雨が明けるのやら計りかねる昨今の気候では、なかなか難しい気もしますね。とりあえず夏の土用入りは七月二十日なので、その辺りでしょうか。
ホウボウの塩焼き ― 2011年07月04日
今日は風が気持ちいい日だったので、あちこちの窓を開けて網戸にしたら、一気に家の中に風が通って大変快適でした。エアコンなどはお呼びでない感じ。湿度も一時は57%くらいまでに下がったくらいです。蚊取線香をつけて、風を味わうと、いかにも夏。
最近は、エアコンをつけるせいか夜寝苦しくて(普通逆だと思うのですが、私はエアコンをつけると体調を崩しやすいのです……)なかなかしんどいのですが、束の間それを忘れていました。
で、夜ごはんに、らでぃっしゅぼーやで届いた、ホウボウという魚を塩焼きにしてみました。
佐世保港から、市場規格に合わない、通常だと販売されない魚を詰め合わせて送ってくれるものなのですが、なるほど普段食べない知らない魚が多くて楽しいのです。それにしても、ホウボウ。いえおそらく、地元の方はよく召し上がるのだと思うのですが、私は初めてでした。
見ての通りのユーモラスな形、でぷっと太ったたくましい体躯。味は脂が乗っていて、白身なのに味の濃い、食べ応えのあるお魚でした。
最近は、エアコンをつけるせいか夜寝苦しくて(普通逆だと思うのですが、私はエアコンをつけると体調を崩しやすいのです……)なかなかしんどいのですが、束の間それを忘れていました。
で、夜ごはんに、らでぃっしゅぼーやで届いた、ホウボウという魚を塩焼きにしてみました。
佐世保港から、市場規格に合わない、通常だと販売されない魚を詰め合わせて送ってくれるものなのですが、なるほど普段食べない知らない魚が多くて楽しいのです。それにしても、ホウボウ。いえおそらく、地元の方はよく召し上がるのだと思うのですが、私は初めてでした。
見ての通りのユーモラスな形、でぷっと太ったたくましい体躯。味は脂が乗っていて、白身なのに味の濃い、食べ応えのあるお魚でした。
外気 ― 2011年07月05日
窓を開けていると、外の空気が入ってくるので、自分の色々なところが調節されるような気がします。どうも日頃から閉じこもってしまいがちなので、これからは積極的に窓を開けないと……と思いつつ、秋になったらまた窓を閉め切る人になりそうなのが厄介なところ。
夕方から梅雨らしい雨が降ってきたと思ったら、一気にゲリラ雷雨に移行して、すぐ近くに落雷した激しい音が聞こえて、飛び上がっていました。
急いで色々な電化製品の電気を落として、Macもコンセントから外して、仕方ないので家の掃除をこまこまと。
少し前に気合いを入れて片付けたはずの部屋が、またかなり混沌としてきています。人が突然来ても大丈夫なようにしないといけないのですが……。6月頭にお客様が来て以来、静かなものだったので油断していたようです。ああ、またものを色々と処分しないと……。
夕方から梅雨らしい雨が降ってきたと思ったら、一気にゲリラ雷雨に移行して、すぐ近くに落雷した激しい音が聞こえて、飛び上がっていました。
急いで色々な電化製品の電気を落として、Macもコンセントから外して、仕方ないので家の掃除をこまこまと。
少し前に気合いを入れて片付けたはずの部屋が、またかなり混沌としてきています。人が突然来ても大丈夫なようにしないといけないのですが……。6月頭にお客様が来て以来、静かなものだったので油断していたようです。ああ、またものを色々と処分しないと……。
生姜と酒粕のパウンドケーキ ― 2011年07月06日
誕生日プレゼントで、パウンドケーキのレシピ本をいただきました。
今日はその中から、ショウガと酒粕のパウンドケーキを作成。手順がばたばたして、酒粕が溶け切らずにケーキの一部に小さな塊を作ったりもしましたが、まぁ何とか出来上がりです。
ショウガと酒粕がたっぷり、ごまも入っているので、あまじょっぱいような、ほこほこする味です。もしかしたら冬向きのレシピのような気もしますが、真夏に食べてしまうのです。噛んでいると全粒粉のふすま部分の風味が加わって、一層おいしく。
酒粕をお菓子に入れると、本当にチーズのような風味になります。発酵の香りなのだと思うのですが。
今日はその中から、ショウガと酒粕のパウンドケーキを作成。手順がばたばたして、酒粕が溶け切らずにケーキの一部に小さな塊を作ったりもしましたが、まぁ何とか出来上がりです。
ショウガと酒粕がたっぷり、ごまも入っているので、あまじょっぱいような、ほこほこする味です。もしかしたら冬向きのレシピのような気もしますが、真夏に食べてしまうのです。噛んでいると全粒粉のふすま部分の風味が加わって、一層おいしく。
酒粕をお菓子に入れると、本当にチーズのような風味になります。発酵の香りなのだと思うのですが。
午睡 ― 2011年07月07日
夕方六時くらいに、突然眠気が襲ってきて、そのままやっていることを全て休止して、一時間ほどうたた寝しました。うたた寝は15分で起きると気分爽快と言いますが、15分経過したところで起きたもののどうにも耐え切れず、追加です。
網戸からそよそよと風がやってくるのを感じながら、うとうとするのはよいものです。夏とは、本来こういう時間を持つための季節ではなかったかと思います。
かつてインドネシアに駐在した日本人のサラリーマンは、現地の人々が怠けていると思い込んだそうですが、実際には日本式のワークスタイル、九時五時まで働くやり方をインドネシアの気候でやれば早死にしてしまうのでやらないだけで、現地の人々は気候にあったやり方で勤勉に働いていたという話を思い出します。
夏はエアコン漬けにしないと動けないような日本の在り方(家の造作や働き方やその他諸々)自体が、やはり相当無理があるというか、あれは台風のようなもので、エネルギーを一時大量消費して一定期間経ったら消える、そういう在り方だったような気がしてなりません。
網戸からそよそよと風がやってくるのを感じながら、うとうとするのはよいものです。夏とは、本来こういう時間を持つための季節ではなかったかと思います。
かつてインドネシアに駐在した日本人のサラリーマンは、現地の人々が怠けていると思い込んだそうですが、実際には日本式のワークスタイル、九時五時まで働くやり方をインドネシアの気候でやれば早死にしてしまうのでやらないだけで、現地の人々は気候にあったやり方で勤勉に働いていたという話を思い出します。
夏はエアコン漬けにしないと動けないような日本の在り方(家の造作や働き方やその他諸々)自体が、やはり相当無理があるというか、あれは台風のようなもので、エネルギーを一時大量消費して一定期間経ったら消える、そういう在り方だったような気がしてなりません。
音楽鑑賞 ― 2011年07月08日
ここのところ、感情がいつもにもまして低空飛行に入っているので、音楽を聴いたり、意識を逃してくれるような頭の体操になるようなミステリを読むか、そうでなければ自分で書いた文章を読み返したりしています。
落ち込んでいる時に自分の文章を読み返すというのは、いかにも自己陶酔的で嫌な感じだけれど、自分で書いた文章の中でもごくごく一部が、時に自分を越えた何かにちゃんと触れていると思えるもので、そういうものを読んでいる時には自分と対話しているというより、何か違うものと対話しているような気分になります。もちろん、そういうのは本当にごく一部で、大半の自分の文章は、無害かうんざりするか、どちらかなのですけれど。そして、そういう気持ちになれるような極限られた文章でさえ、他人からみたら取るに足らない代物なのでしょうけれど。
音楽を聴く、というのは、実は私の日常にはない行為です。正確に言うと数年前から抜け落ちた行為です。何故なのかはわかりません。本を飢えたように読まなくなってからと同じ時期です。たぶん、私の中で何かが変わった時なのでしょう。
今は音楽を聴くと、あれこれと考えてしまうので、聞き流せなくなりました。友達が遊びに来た時のBGMにするか、ゲームのサントラのような「BGMになることを前提にしている」音楽を流すか、くらいです。
低調になっていてあまりよくないな、と思った時だけ、自分から音楽を聴きます。なので、コンサートやライブにもほとんど行っていません。
音楽を聴こうとする時は、何かの調子が狂っている時で、私は音楽を聞くことでそれを調整しようというよりも、むしろ非日常的な状態に徹底的に意識を揺さぶって疲れさせようとしているかのようです。
落ち込んでいる時に自分の文章を読み返すというのは、いかにも自己陶酔的で嫌な感じだけれど、自分で書いた文章の中でもごくごく一部が、時に自分を越えた何かにちゃんと触れていると思えるもので、そういうものを読んでいる時には自分と対話しているというより、何か違うものと対話しているような気分になります。もちろん、そういうのは本当にごく一部で、大半の自分の文章は、無害かうんざりするか、どちらかなのですけれど。そして、そういう気持ちになれるような極限られた文章でさえ、他人からみたら取るに足らない代物なのでしょうけれど。
音楽を聴く、というのは、実は私の日常にはない行為です。正確に言うと数年前から抜け落ちた行為です。何故なのかはわかりません。本を飢えたように読まなくなってからと同じ時期です。たぶん、私の中で何かが変わった時なのでしょう。
今は音楽を聴くと、あれこれと考えてしまうので、聞き流せなくなりました。友達が遊びに来た時のBGMにするか、ゲームのサントラのような「BGMになることを前提にしている」音楽を流すか、くらいです。
低調になっていてあまりよくないな、と思った時だけ、自分から音楽を聴きます。なので、コンサートやライブにもほとんど行っていません。
音楽を聴こうとする時は、何かの調子が狂っている時で、私は音楽を聞くことでそれを調整しようというよりも、むしろ非日常的な状態に徹底的に意識を揺さぶって疲れさせようとしているかのようです。
風鈴 ― 2011年07月09日
お友達から、月と星をかたどった、ガラスの風鈴をいただきました。どこに飾るかあれこれ考えてしまいます。風鈴の音は好きです。私のように夏は冷房なしで過ごす人間にとっては、こういう涼を呼んでくれるものが重要なのです。
かつてはお鳥様が部屋の中を飛び交う暮らしでしたから、あまり窓も開けられませんでしたし、部屋に何かを吊るすということもしていなかったのですけれど。
風鈴もそうですが、こういう「涼を呼ぶ」ものというのは、どうもエアコンのような直接的な温度を下げるものと併用すると、あまりうまく働かないようです。
神田の天野屋さんで、甘酒とかき氷をいただいた時に、エアコンのない古民家に、扇風機だけがついていて、外の小さな庭に打ち水で濡れた植物と庭石が見えて、風鈴が鳴って、という光景があって、それは温度ではない涼しさがありました。もしあそこにエアコンが導入されたら、突然その光景の持つ「涼しさ」は失われるのではないかと思います。
ある種の、微妙な「遠回し」の玉突きのような形で効果をもたらす方法の中に、直接的な方法を放り込むと、いきなり台無しになってしまうのは何故なのでしょうか。
かつてはお鳥様が部屋の中を飛び交う暮らしでしたから、あまり窓も開けられませんでしたし、部屋に何かを吊るすということもしていなかったのですけれど。
風鈴もそうですが、こういう「涼を呼ぶ」ものというのは、どうもエアコンのような直接的な温度を下げるものと併用すると、あまりうまく働かないようです。
神田の天野屋さんで、甘酒とかき氷をいただいた時に、エアコンのない古民家に、扇風機だけがついていて、外の小さな庭に打ち水で濡れた植物と庭石が見えて、風鈴が鳴って、という光景があって、それは温度ではない涼しさがありました。もしあそこにエアコンが導入されたら、突然その光景の持つ「涼しさ」は失われるのではないかと思います。
ある種の、微妙な「遠回し」の玉突きのような形で効果をもたらす方法の中に、直接的な方法を放り込むと、いきなり台無しになってしまうのは何故なのでしょうか。
権謀術策 ― 2011年07月10日
九州電力が、玄海原発の運営再開の理解を求めるテレビ番組にやらせを仕組んでいた事件を見ると、何と言うか、権謀術策というものを甘く見ている人が多いのかなぁと思わずにはいられません。
イベントごとや説明会などやることになれば、ああいうサクラや演出などは割と普通にあるものなので、たぶん九州電力としてもその一環で、あまり深く考えもせずに当たり前のようにやったような気がします。まぁ、みんなやる、普通のことだよね、みたいな。
問題は、それが明らかになった時に部外者にどんな印象を与えるかをまるで考えていなかったらしいこと、そしてそれが決して明らかにならないための配慮をまるでしていなかったように見えること、です。
たまに悪事が発覚した時に、
「こんなのみんなやってる当たり前のことじゃないか。どうして自分だけが責められる」
というような弁明が漏れたりしますけれど、そんな発言が出てしまうこと自体、その人が「そのことをやってはいけなかった」証明なのだと思います。
人間の社会には、あってはならないけれどなくてはならない、という「否認すれど捨てられず」な要素は必ずあるものです。しかしそれは、捨てられることはないとしても、決して日の当たるところで拍手喝采で認められることはありません。
そういった要素は、もし日の下に出てしまうようなことがあれば、一瞬にして全てを否定されます。
それがみんながやる、普通のことのように見えるものであっても。その危うい境界をぎりぎりで切り抜けていく能力と覚悟が、そういった領域に住まう人間の求められるものなのでしょう。
そしてあの九州電力のやらせ行為も、権謀術策としては実に幼稚なものだけれど、ひとつの権謀術策という「日の当たらないもの」である以上、その宿命からは逃れられないのです。
日の下に明るみになってしまった、ばれてしまった権謀術策ほど惨めで有害なものはありません。
ばれたらおしまいだからこそ権謀術策は大変難しく、意味を持つのです。それは安易に効能だけを見て振り回すものではありません。明るみになった時に「みんなやってる」という言い訳をしたくなる人には、もともと扱えない武器なのです。
手品のトリックだって一山いくらで売られ、ワイドショーが政治家の裏の意図を取り沙汰し、「業界裏話」を普通の人が雑学知識として得々と話す社会に、私たちはいます。
そういう社会の中にいると、ふと「表舞台にはあらわれないもの」というものに対して、それがスポットライトを浴びたってどうってことはないような、そんな錯覚を抱くのかも知れません。
けれどおそらく、本当にそういうものを扱う人というのは、それが錯覚以外の何物でもなく、「決して表にはあらわれてはいけないもの、表れた時は死と破滅を意味するもの」があるということを骨の髄まで知っているのではないかと思います。
かつて中井久夫氏は、精神科医の自己規定として「外人傭兵」と「売春婦」を取り上げ、さらにフロイトの「きみは二階の陽光をたのしみたまえ、ぼくは地下室で仕事をする」という名言を引いていました。
おそらく、権謀術策は、それが明るみになってしまうような人が扱ってはいけないものなのでしょう。それは「ばれなきゃやってもいい」というような安易な結果論、運に道を委ねることとは、全く異なるのです。
もしその苦痛を引き受ける覚悟、言わずにおく力、決して認められないことに耐え続ける力がないのなら、そういった「表に出ることのない」ものに手を出すことなく、どこどこまでも「まっとうな」もので勝負していく方が、結局は最善なのだと思います。
悪魔との取引は、魂を捧げなければならないのです。けれど、魂を捧げるということに対して、覚悟はおろか、そもそも知ってすらいないのに、悪魔と取引したがる人は、意外に多いのかも、知れません。
イベントごとや説明会などやることになれば、ああいうサクラや演出などは割と普通にあるものなので、たぶん九州電力としてもその一環で、あまり深く考えもせずに当たり前のようにやったような気がします。まぁ、みんなやる、普通のことだよね、みたいな。
問題は、それが明らかになった時に部外者にどんな印象を与えるかをまるで考えていなかったらしいこと、そしてそれが決して明らかにならないための配慮をまるでしていなかったように見えること、です。
たまに悪事が発覚した時に、
「こんなのみんなやってる当たり前のことじゃないか。どうして自分だけが責められる」
というような弁明が漏れたりしますけれど、そんな発言が出てしまうこと自体、その人が「そのことをやってはいけなかった」証明なのだと思います。
人間の社会には、あってはならないけれどなくてはならない、という「否認すれど捨てられず」な要素は必ずあるものです。しかしそれは、捨てられることはないとしても、決して日の当たるところで拍手喝采で認められることはありません。
そういった要素は、もし日の下に出てしまうようなことがあれば、一瞬にして全てを否定されます。
それがみんながやる、普通のことのように見えるものであっても。その危うい境界をぎりぎりで切り抜けていく能力と覚悟が、そういった領域に住まう人間の求められるものなのでしょう。
そしてあの九州電力のやらせ行為も、権謀術策としては実に幼稚なものだけれど、ひとつの権謀術策という「日の当たらないもの」である以上、その宿命からは逃れられないのです。
日の下に明るみになってしまった、ばれてしまった権謀術策ほど惨めで有害なものはありません。
ばれたらおしまいだからこそ権謀術策は大変難しく、意味を持つのです。それは安易に効能だけを見て振り回すものではありません。明るみになった時に「みんなやってる」という言い訳をしたくなる人には、もともと扱えない武器なのです。
手品のトリックだって一山いくらで売られ、ワイドショーが政治家の裏の意図を取り沙汰し、「業界裏話」を普通の人が雑学知識として得々と話す社会に、私たちはいます。
そういう社会の中にいると、ふと「表舞台にはあらわれないもの」というものに対して、それがスポットライトを浴びたってどうってことはないような、そんな錯覚を抱くのかも知れません。
けれどおそらく、本当にそういうものを扱う人というのは、それが錯覚以外の何物でもなく、「決して表にはあらわれてはいけないもの、表れた時は死と破滅を意味するもの」があるということを骨の髄まで知っているのではないかと思います。
かつて中井久夫氏は、精神科医の自己規定として「外人傭兵」と「売春婦」を取り上げ、さらにフロイトの「きみは二階の陽光をたのしみたまえ、ぼくは地下室で仕事をする」という名言を引いていました。
おそらく、権謀術策は、それが明るみになってしまうような人が扱ってはいけないものなのでしょう。それは「ばれなきゃやってもいい」というような安易な結果論、運に道を委ねることとは、全く異なるのです。
もしその苦痛を引き受ける覚悟、言わずにおく力、決して認められないことに耐え続ける力がないのなら、そういった「表に出ることのない」ものに手を出すことなく、どこどこまでも「まっとうな」もので勝負していく方が、結局は最善なのだと思います。
悪魔との取引は、魂を捧げなければならないのです。けれど、魂を捧げるということに対して、覚悟はおろか、そもそも知ってすらいないのに、悪魔と取引したがる人は、意外に多いのかも、知れません。
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