旅行中 ― 2011年03月23日
3月11日を境にして、色々なことが変わってしまった。
たくさんの人がそう言っています。たぶんそうなんだろうな、と思います。
けれど奇妙なことに、私自身は、そんな感覚がまるでなくて。
何かが変わってしまったという実感が全然感じられなくて。
かといっていつもの状態なのかと問われれば、そうとも言い切れず。
震災を機にあふれだした、社会の善意も、そしてまた悪意も、私にとってはうすうす感じられていたものであり、意外さはありませんでした。ただむき出しのリアルさに、たじろぐ気持ちはありましたけど。
またこの善意や悪意の奔流が、「社会の真の姿」とも思えなくて、あくまで突発的な一面的な姿に過ぎないだろうなとも感じています。
原子力発電所の事故は、中高生の頃に原子力発電所の是非を考える文献調査をしていた記憶を思い出させました。今にして思えば、その調査はずいぶん脇が甘いというか、精査に耐えるものではなかったのですけれど、それでも基本的な何かを形作ったと思います。
チェルノブイリの事故によって放出された放射性物質が、そう簡単には消えもせず、空と海をめぐって自分の体内までやってくる事実を自覚した恐怖が、その時にすでに刻印されており、今回の事故も私にとっては目新しいものではありません。
私が今、かなり厳しく電力消費を削って生活しているのは、自分にそういう過去がありながら、こんな事故が起こるような現状を社会に許したという認識と、関係があるのでしょうけれど。
私の中のはっきりとした変化というか、差異を上げるなら、ふわふわした浮遊感みたいなものがずっとあって、それは「旅行中」の感覚にとても近い気がします。
自宅にいても旅行中のような感じ、というのは、考えようによってはおかしな状態なのかも知れませんが、逆に何と呑気なこの非常時に、と自分でも思わないではありません。
旅行は、非日常とはいえそれなりのバランスを保っており、やがてどこかに帰り着くものです。私は、無根拠に、いずれ絶望するほど遠くはないうちに、どこかに帰り着くのだろうと感じているのでしょう。
たくさんの人がそう言っています。たぶんそうなんだろうな、と思います。
けれど奇妙なことに、私自身は、そんな感覚がまるでなくて。
何かが変わってしまったという実感が全然感じられなくて。
かといっていつもの状態なのかと問われれば、そうとも言い切れず。
震災を機にあふれだした、社会の善意も、そしてまた悪意も、私にとってはうすうす感じられていたものであり、意外さはありませんでした。ただむき出しのリアルさに、たじろぐ気持ちはありましたけど。
またこの善意や悪意の奔流が、「社会の真の姿」とも思えなくて、あくまで突発的な一面的な姿に過ぎないだろうなとも感じています。
原子力発電所の事故は、中高生の頃に原子力発電所の是非を考える文献調査をしていた記憶を思い出させました。今にして思えば、その調査はずいぶん脇が甘いというか、精査に耐えるものではなかったのですけれど、それでも基本的な何かを形作ったと思います。
チェルノブイリの事故によって放出された放射性物質が、そう簡単には消えもせず、空と海をめぐって自分の体内までやってくる事実を自覚した恐怖が、その時にすでに刻印されており、今回の事故も私にとっては目新しいものではありません。
私が今、かなり厳しく電力消費を削って生活しているのは、自分にそういう過去がありながら、こんな事故が起こるような現状を社会に許したという認識と、関係があるのでしょうけれど。
私の中のはっきりとした変化というか、差異を上げるなら、ふわふわした浮遊感みたいなものがずっとあって、それは「旅行中」の感覚にとても近い気がします。
自宅にいても旅行中のような感じ、というのは、考えようによってはおかしな状態なのかも知れませんが、逆に何と呑気なこの非常時に、と自分でも思わないではありません。
旅行は、非日常とはいえそれなりのバランスを保っており、やがてどこかに帰り着くものです。私は、無根拠に、いずれ絶望するほど遠くはないうちに、どこかに帰り着くのだろうと感じているのでしょう。
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