お百度参り ― 2011年03月21日
震災の後、三日間ほど、私はいつもと違う状態に自分がなっていることを自覚しました。
それは、単純に表現しようと思えばとても単純に表現できる状態ではありました。躁状態、高揚感、罪悪感、焦燥感、責任感。
けれどそういった、かたちとして、あるいは意識できる状態として認識できる「心理」というような、「心の状態」というだけでは説明しきれない、もっとなまの、根源的な"パワーのかたまり"とでも言いたくなるようなものが、自分という存在のあちこちにマグマのごとく湧いてくるような感じでした。
即物的に説明するならば、アドレナリンなどの「闘争と逃亡のホルモン」のような体内物質がどっと放出されて、肝臓やら脂肪やらに蓄えていたものを次々分解してエネルギーに変換して、
「さあ準備はできた、逃げるなり闘うなりしたまえ!」
とスタンバイしていた状態だったのではないかと思います。
それが、普通の「心理」とちょっと違っていたのは、たとえば普段の罪悪感なり責任感なり焦燥感なりは、自分なりに原因が掴めたり、自己モニタリングができたりすると、ある程度操縦が可能になるのに、今回は自分でもはっきりと「これは震災直後の躁状態だな」と自覚していたにも関わらず、簡単にはコントロールできなかったことです。
何か余計なことをしない方がいいぞ、とわかってはいたものの、この状態で「何もしないでいる」というのは非常な苦痛でした。私は普段より散発的な発言が増えました。軽鴨の君が体調不良だったので、薬を買いに行ったりすることで、それらはようやく緩和されたように思います。
私は精神衛生学も、心理学も、専門に学んだ訳ではないので、以下は全くの素人考えなのですが。
もしもこれが、災害を前にした時の、その場を乗り切る「火事場の馬鹿力」的な躁状態だったとするならば、これをハンドリングするのはなかなか簡単ではないような気がします。
「自覚する」とか「考える」とか、そういった内向きの精神力で動かすアプローチは、無駄とは言わないにせよ非常に効率の悪い結果しかもたらさないものでした。もっとわかりやすく、体を動かす、瞬発的な活動をする、そういったことでようやく、落ち着きを取り戻したのです。
その理由は、この状態が、普段の社会生活のレイヤーよりはるかに原始的な、生存に関わるようなレイヤーで心身を揺り動かすもので、言葉や意識的思考といった生物としては歴史の浅い道具では、あまり上手に届かない層だったからではないでしょうか。
最近の日本は阪神淡路大震災や中越地震などを経験しており、今回の震災直後には、その時の反省や情報が、一瞬でネットやメディアを駆け巡りました。
その時に、本当に多く言われたのが、
「直後の時点では、ボランティアや物品の寄付は、迷惑になるからやってはいけない」
といった注意でした。
その注意は必要なものであり、正しかったのだろうと思うのですが。
しかし恐らく私のように、直後の躁状態になっていた人にとっては、「○○するな」という、「動くな」に等しい指示があちこちで降ってきた状態は、実は意外な負担を心身に強いたのではないでしょうか。数回のクリックや、タッチパネル前での数分の操作で終わる金銭の寄付などで、あのエネルギーが消費できたようには、とても思えません。
首都圏では消費者の買いだめが問題視されましたけれど、私にはあれは、ヒステリーやパニックというよりも、「何かしなさい」と生み出されたエネルギーが行き場を求めた結果のように思えます。だとするならば、「冷静に」といった呼びかけはあまり意味がなかったでしょうし、まして非難や批判や嘲笑など、無意味を通り越して有害ですらあったかも知れません。
「ボランティアには行くな」という話には、大抵セットで、「今はボランティアは邪魔だけれど、半年後一年後にはそういった人手が必要となることがあるだろうから、それまで待て」という発言がついていました。
「あなたの気持ちが本当ならば、一年後に……」といった一言が添えられていることもありました。
けれど、あのパワーはとても瞬発的、短時間に費やされるエネルギーでした。現に私は、あの頃、とても意識が散漫になり、文章を書くことはおろか、読む力も衰えました。本を読むのにあんなに集中できなかったのは久しぶりです。
あの力を、半年や一年待機させる、保存させるというのは、率直に言って不可能に近いと思います。
「あなたの気持ちが本当なら一年後に」云々の言葉は、普通の人が一年後に「あの時のエネルギー、あの時のモチベーション」が沸き上がらないことに対し、「自分の気持ちは嘘だった」と新たな罪悪感に苛まれる状態を生むという、誰も幸せにならない結果を招くのではないかと、私はちょっと怖く感じるのです。
半年後、一年後にボランティアに向かう人の気持ちは、震災直後に「何かをしてあげたい」と切実に祈る時の気持ちとは、違う色、違う方向性のものだと思います。もちろん、直後の切実さがきっかけや根本の種となることはあると思いますが、同一視するのはどうなのでしょうか。
災害心理などを研究する心理学者の皆様は、こういう、災害直後に起こる「エネルギーの超過状態」を、どうやったら皆が幸せになるような形で利用できるか、というのを考えるといいのではないかと思います。
それは言葉や理性で「説得する」ものではないような気がします。
*** ***
日本の民間信仰に、「お百度参り」というものがあります。
切実な願掛けを行い、その祈願のためにある特定の寺社に百度参拝するものです。歩くルートが決まっていたり、「人に見られないように」などの制限があったりすることもあります。
四国のお遍路さんのような霊場巡りも、恐らくこれと同じようなものが流れているような気がします。まぁ私は民俗学も素人なので、そう思うというだけなのですけれど。
ふと振り返ってこの行為を眺めてみると、「エネルギーの超過状態」を通過する行為として、なかなかうまくできているのではないでしょうか。
まずそれらは、単純な祈念のような、頭だけを使う活動ではありません。「歩く」という肉体を使い、体力を消耗する活動です。またその内容は、誰でもできる程度には単純であり、「回数をカウントする」「人に見られないようにする」といった適度に意識を働かせる要素も備えています。
そして、着実に「積み重ねていく」種類の作業で、始まりと終わりがはっきりしています。「自分はここまで来た」「あとこれくらい」というものを、自分で把握できます。数をこなすという行為は、終わった後の達成感も保証するでしょう。
つまりお百度参りは、単なる「たくさんお参りしたから霊験がある」というだけではなく、自分ではどうにもできない状況をどうにかしなければならない時に湧きあがってくるであろう、超過したエネルギーを、祈りという漠然としてなかなか結びにくい焦点に導いてくれる良質の儀式だったように思います。
(「だった」と過去形で表現するのは、現代の日本では、こういう明確な神仏への祈念にリアリティを感じられる人が少ないからです)
また、こう書くと、お百度参りのようなものは、単なるプラシーボや昇華活動のように見えますけれど、そうとも言い切れない部分があります。
自己啓発や願望成就、霊性について語る多くの言説には、
「目標を明確に視覚化する一方で、それに捕らわれこだわり過ぎてもいけない」
という考えが出てきます。まぁそこまで大げさではないにせよ、ぎりぎりと胃を痛くするような心配の後にふっと気が抜けて安心した瞬間に、思いも寄らぬ幸運や成就が起こることはよくあります。
もしかしたら、お百度参りのような活動は、エネルギーを無駄に消費させるガス抜きのようなものと見せかけて、実はそのエネルギーを玉突きのように現実への作用に変化させて、巡り巡って望ましい結果をもたらしているのかも知れません。
神仏へのリアリティをなかなか保ちえない人や社会でも、何とかして、「自分なりのお百度参り」を見つけなければならないのでしょう。
短期的・瞬発的なエネルギーを、害の少ない形で消化させ、しかもそれが長期的な活動につながっていく。そんな活動を見つけることが、「何かをしてはいけない」という自縄自縛をほどいてくれるような気がするのです。
それは、単純に表現しようと思えばとても単純に表現できる状態ではありました。躁状態、高揚感、罪悪感、焦燥感、責任感。
けれどそういった、かたちとして、あるいは意識できる状態として認識できる「心理」というような、「心の状態」というだけでは説明しきれない、もっとなまの、根源的な"パワーのかたまり"とでも言いたくなるようなものが、自分という存在のあちこちにマグマのごとく湧いてくるような感じでした。
即物的に説明するならば、アドレナリンなどの「闘争と逃亡のホルモン」のような体内物質がどっと放出されて、肝臓やら脂肪やらに蓄えていたものを次々分解してエネルギーに変換して、
「さあ準備はできた、逃げるなり闘うなりしたまえ!」
とスタンバイしていた状態だったのではないかと思います。
それが、普通の「心理」とちょっと違っていたのは、たとえば普段の罪悪感なり責任感なり焦燥感なりは、自分なりに原因が掴めたり、自己モニタリングができたりすると、ある程度操縦が可能になるのに、今回は自分でもはっきりと「これは震災直後の躁状態だな」と自覚していたにも関わらず、簡単にはコントロールできなかったことです。
何か余計なことをしない方がいいぞ、とわかってはいたものの、この状態で「何もしないでいる」というのは非常な苦痛でした。私は普段より散発的な発言が増えました。軽鴨の君が体調不良だったので、薬を買いに行ったりすることで、それらはようやく緩和されたように思います。
私は精神衛生学も、心理学も、専門に学んだ訳ではないので、以下は全くの素人考えなのですが。
もしもこれが、災害を前にした時の、その場を乗り切る「火事場の馬鹿力」的な躁状態だったとするならば、これをハンドリングするのはなかなか簡単ではないような気がします。
「自覚する」とか「考える」とか、そういった内向きの精神力で動かすアプローチは、無駄とは言わないにせよ非常に効率の悪い結果しかもたらさないものでした。もっとわかりやすく、体を動かす、瞬発的な活動をする、そういったことでようやく、落ち着きを取り戻したのです。
その理由は、この状態が、普段の社会生活のレイヤーよりはるかに原始的な、生存に関わるようなレイヤーで心身を揺り動かすもので、言葉や意識的思考といった生物としては歴史の浅い道具では、あまり上手に届かない層だったからではないでしょうか。
最近の日本は阪神淡路大震災や中越地震などを経験しており、今回の震災直後には、その時の反省や情報が、一瞬でネットやメディアを駆け巡りました。
その時に、本当に多く言われたのが、
「直後の時点では、ボランティアや物品の寄付は、迷惑になるからやってはいけない」
といった注意でした。
その注意は必要なものであり、正しかったのだろうと思うのですが。
しかし恐らく私のように、直後の躁状態になっていた人にとっては、「○○するな」という、「動くな」に等しい指示があちこちで降ってきた状態は、実は意外な負担を心身に強いたのではないでしょうか。数回のクリックや、タッチパネル前での数分の操作で終わる金銭の寄付などで、あのエネルギーが消費できたようには、とても思えません。
首都圏では消費者の買いだめが問題視されましたけれど、私にはあれは、ヒステリーやパニックというよりも、「何かしなさい」と生み出されたエネルギーが行き場を求めた結果のように思えます。だとするならば、「冷静に」といった呼びかけはあまり意味がなかったでしょうし、まして非難や批判や嘲笑など、無意味を通り越して有害ですらあったかも知れません。
「ボランティアには行くな」という話には、大抵セットで、「今はボランティアは邪魔だけれど、半年後一年後にはそういった人手が必要となることがあるだろうから、それまで待て」という発言がついていました。
「あなたの気持ちが本当ならば、一年後に……」といった一言が添えられていることもありました。
けれど、あのパワーはとても瞬発的、短時間に費やされるエネルギーでした。現に私は、あの頃、とても意識が散漫になり、文章を書くことはおろか、読む力も衰えました。本を読むのにあんなに集中できなかったのは久しぶりです。
あの力を、半年や一年待機させる、保存させるというのは、率直に言って不可能に近いと思います。
「あなたの気持ちが本当なら一年後に」云々の言葉は、普通の人が一年後に「あの時のエネルギー、あの時のモチベーション」が沸き上がらないことに対し、「自分の気持ちは嘘だった」と新たな罪悪感に苛まれる状態を生むという、誰も幸せにならない結果を招くのではないかと、私はちょっと怖く感じるのです。
半年後、一年後にボランティアに向かう人の気持ちは、震災直後に「何かをしてあげたい」と切実に祈る時の気持ちとは、違う色、違う方向性のものだと思います。もちろん、直後の切実さがきっかけや根本の種となることはあると思いますが、同一視するのはどうなのでしょうか。
災害心理などを研究する心理学者の皆様は、こういう、災害直後に起こる「エネルギーの超過状態」を、どうやったら皆が幸せになるような形で利用できるか、というのを考えるといいのではないかと思います。
それは言葉や理性で「説得する」ものではないような気がします。
*** ***
日本の民間信仰に、「お百度参り」というものがあります。
切実な願掛けを行い、その祈願のためにある特定の寺社に百度参拝するものです。歩くルートが決まっていたり、「人に見られないように」などの制限があったりすることもあります。
四国のお遍路さんのような霊場巡りも、恐らくこれと同じようなものが流れているような気がします。まぁ私は民俗学も素人なので、そう思うというだけなのですけれど。
ふと振り返ってこの行為を眺めてみると、「エネルギーの超過状態」を通過する行為として、なかなかうまくできているのではないでしょうか。
まずそれらは、単純な祈念のような、頭だけを使う活動ではありません。「歩く」という肉体を使い、体力を消耗する活動です。またその内容は、誰でもできる程度には単純であり、「回数をカウントする」「人に見られないようにする」といった適度に意識を働かせる要素も備えています。
そして、着実に「積み重ねていく」種類の作業で、始まりと終わりがはっきりしています。「自分はここまで来た」「あとこれくらい」というものを、自分で把握できます。数をこなすという行為は、終わった後の達成感も保証するでしょう。
つまりお百度参りは、単なる「たくさんお参りしたから霊験がある」というだけではなく、自分ではどうにもできない状況をどうにかしなければならない時に湧きあがってくるであろう、超過したエネルギーを、祈りという漠然としてなかなか結びにくい焦点に導いてくれる良質の儀式だったように思います。
(「だった」と過去形で表現するのは、現代の日本では、こういう明確な神仏への祈念にリアリティを感じられる人が少ないからです)
また、こう書くと、お百度参りのようなものは、単なるプラシーボや昇華活動のように見えますけれど、そうとも言い切れない部分があります。
自己啓発や願望成就、霊性について語る多くの言説には、
「目標を明確に視覚化する一方で、それに捕らわれこだわり過ぎてもいけない」
という考えが出てきます。まぁそこまで大げさではないにせよ、ぎりぎりと胃を痛くするような心配の後にふっと気が抜けて安心した瞬間に、思いも寄らぬ幸運や成就が起こることはよくあります。
もしかしたら、お百度参りのような活動は、エネルギーを無駄に消費させるガス抜きのようなものと見せかけて、実はそのエネルギーを玉突きのように現実への作用に変化させて、巡り巡って望ましい結果をもたらしているのかも知れません。
神仏へのリアリティをなかなか保ちえない人や社会でも、何とかして、「自分なりのお百度参り」を見つけなければならないのでしょう。
短期的・瞬発的なエネルギーを、害の少ない形で消化させ、しかもそれが長期的な活動につながっていく。そんな活動を見つけることが、「何かをしてはいけない」という自縄自縛をほどいてくれるような気がするのです。
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