iPhone帆布ケース ― 2011年02月01日
外出が多かったせいか、今日は何だかぼーっとしてしまいました。
午前中に宅配便の再配達を受け取った後は、自宅で部屋の片づけとか細かいことを色々と。新しいパソコンの導入で、一度混沌としていた寝室も、徐々に可視床面積も増えてまっとうな状態に近づいてはいるのですが、とりあえずはあふれたDVDたちをどうするかが懸案になりそうです。
先日、iPhoneのケースを新調しました。
iPhoneのカバーは、買ってすぐにとりあえず適当なシリコンのものをつけて、しのいでいたのですが、なかなかいいものが見つからなくて。
木製のケースとかも、かなり心が動いたのですけれど、iPhoneを買い替えたらお払い箱になってしまう恐れを考えると、どうも踏み切れなかったのです。
で、先日ネットサーフィン中に帆布のケースを作ってくれるWebショップを見つけて、雰囲気がよかったのと、iPhone4でもたぶん同じように使えそう(恐らく今年に出るであろう5も、今より小さくなるか同じくらいだろうから使えるだろうと勝手に判断)というのが決め手になって、購入しました。手作りなのに、ずいぶんとリーズナブル。
https://www.staana-studio.com/shop/products-page/?product_id=133
いったんケースを開けて、中からiPhoneを取り出すので、一手間余分にかかるのですが、思ったほどには面倒にはならなかったです。帆布の手触りが好きだからでしょうね。中の滑りがいいので、iPhoneを出す時に特に引っかかったり手間取ったりもしません。
何故かこれに入れていると、シリコンケースに入れていた時よりも、iPhoneて薄いんだなぁ……と実感します。
午前中に宅配便の再配達を受け取った後は、自宅で部屋の片づけとか細かいことを色々と。新しいパソコンの導入で、一度混沌としていた寝室も、徐々に可視床面積も増えてまっとうな状態に近づいてはいるのですが、とりあえずはあふれたDVDたちをどうするかが懸案になりそうです。
先日、iPhoneのケースを新調しました。
iPhoneのカバーは、買ってすぐにとりあえず適当なシリコンのものをつけて、しのいでいたのですが、なかなかいいものが見つからなくて。
木製のケースとかも、かなり心が動いたのですけれど、iPhoneを買い替えたらお払い箱になってしまう恐れを考えると、どうも踏み切れなかったのです。
で、先日ネットサーフィン中に帆布のケースを作ってくれるWebショップを見つけて、雰囲気がよかったのと、iPhone4でもたぶん同じように使えそう(恐らく今年に出るであろう5も、今より小さくなるか同じくらいだろうから使えるだろうと勝手に判断)というのが決め手になって、購入しました。手作りなのに、ずいぶんとリーズナブル。
https://www.staana-studio.com/shop/products-page/?product_id=133
いったんケースを開けて、中からiPhoneを取り出すので、一手間余分にかかるのですが、思ったほどには面倒にはならなかったです。帆布の手触りが好きだからでしょうね。中の滑りがいいので、iPhoneを出す時に特に引っかかったり手間取ったりもしません。
何故かこれに入れていると、シリコンケースに入れていた時よりも、iPhoneて薄いんだなぁ……と実感します。
米研ぎ笊、またたび ― 2011年02月02日
数年前に購入してずっと使っていた竹の米研ぎ笊が、いよいよささくれたり隙間が空いたりして、お米を研ぐには使いづらくなってきたので、ついに念願の!またたび細工の米研ぎ笊を購入しました。
以前、探してみた時にはすぐ入手できそうなものが見つからなかったのに、今回はすぐにまたたび細工の米研ぎ笊を買うことができました。やはり縁というか時期というか、そういうものはあるのだと思います。その時になると、すぐに見つかる。
購入したのは↓のお店です。
http://www.formaaki.com/webshop/shop/matatabi.html
またたび細工の笊は、目がぎゅっと詰まっていて、お米を研ぐ時に引っかかる感触が全くありません。すごく気持ちがいい。きちんと手入れすれば十年以上保つそうです。果たしてちゃんとそれだけ保たせることができるでしょうか。
研いでいる時の音が、さらさらと耳に心地よくて、うっとりします。あとかすかに香りがします。ごはんに香りが残ったりはしないのですけどね。ふわりと、緑の香りです。
そういえばまたたびの枝を見せると、猫は大興奮になったりするけど、この笊でもそのパワーは残っているのだろうか……。
今までの竹の笊は、野菜を洗ったりするのに使うつもりです。台所に植物のものがあると、ほっとするのですよね。私だけでしょうか。
以前、探してみた時にはすぐ入手できそうなものが見つからなかったのに、今回はすぐにまたたび細工の米研ぎ笊を買うことができました。やはり縁というか時期というか、そういうものはあるのだと思います。その時になると、すぐに見つかる。
購入したのは↓のお店です。
http://www.formaaki.com/webshop/shop/matatabi.html
またたび細工の笊は、目がぎゅっと詰まっていて、お米を研ぐ時に引っかかる感触が全くありません。すごく気持ちがいい。きちんと手入れすれば十年以上保つそうです。果たしてちゃんとそれだけ保たせることができるでしょうか。
研いでいる時の音が、さらさらと耳に心地よくて、うっとりします。あとかすかに香りがします。ごはんに香りが残ったりはしないのですけどね。ふわりと、緑の香りです。
そういえばまたたびの枝を見せると、猫は大興奮になったりするけど、この笊でもそのパワーは残っているのだろうか……。
今までの竹の笊は、野菜を洗ったりするのに使うつもりです。台所に植物のものがあると、ほっとするのですよね。私だけでしょうか。
フォローとリムーブの間 ― 2011年02月07日
Twitterというのは、ツイートの内容は自由で、フォローもリムーブも自由で、フォロワーの数が人間の価値を表してる訳ではないというのはよく言われることです。
それは、
「売れた部数が多ければ名作という訳じゃないよ」
「友達は多ければいいという訳じゃないよ」
という考えが真実であるのと同じくらいには、真実です。
けれど、友達の数が少ないということを、何の価値も感情も交えずに、語り判断しイメージできる人が極めて稀であるのと同じように、それは真実の一面でしかなく、それを単純に語ることには危険がともないます。
Twitterの難しさは、フォローとリムーブ「しか存在しない」ことなのだと思います。
人間関係には、上下とは別の、フラットな平行関係においても、全く同じ関係性はありえません。
ひとりの人間には多様な顔があり、多様な関係性が存在します。
ピタゴラスイッチの「ぼくのおとうさん」の歌を思い浮かべる間でもなく、
おとーさん、おとーさん、ぼくのおとーさん は、会社に行くと課長さんであり、食堂入るとお客さんであり、英会話学校では生徒さんであり、うちに帰るとぼくのお父さん、であります。
そしてそういう、わかりやすい名前がつく関係性はまだ扱いやすい方です。たぶん、Twitterでもその辺は与しやすいのではないでしょうか。
お父さんはお父さんである以外にも別の顔があり、息子には息子である以外にも別の顔があるということを、当然の前提としつつ、それらを見ず、知らず、理解せずに(あるいは知らないふりをして)やっていくのが人間関係というものです。
人はとかく、愛する人に、「自分の全てを理解し受け入れて欲しい」と強く願うものですが、実は愛という恐らくこの世で最も近接した人間関係であっても、ある程度の「あえて見ない・理解しない・受け入れない・秘密の部分」を持たなければ成立できません。
(もちろん、「その部分」の量は、他の関係性に比べれば極めて少なく、また質も異なるものですが)
むしろ、一定の「その部分」があることをネガティブではない意味で受容することが、愛、あるいは近しさ、昵懇さというものです。
それは別に、偽善でも建前でも嘘でもなんでもなく、「愛の名において全てを受け入れよと欲する」「愛の名において全てを受け入れようとあがく」のは、一種の暴力でしかない、ということを学ぶのが、恐らく人間関係における成熟でしょう。
***
たぶん、Twitterではない人間関係であれば、その辺りの使い分けを、人は無意識にしているのだと思います。
オタクは誰が相手でも自分に興味のある話しかしないから嫌われるのだ、というのはよく言われることですが、本来ならば人間というのは、自分と相手の関係性を計りつつ、「共有の話題」を見つけようと努力し、それを膨らませていきます。
それをしないで「私の全てを受け入れてください」と言えば、それは暴力的だと誰でも思うはずです。
そしてまた、ある伝えたい事柄があった時、AさんとBさんに同じ言葉同じ表現でそれを伝えたとしても、同じように伝わる訳ではありません。
むしろひとは、常に、違う表現違う言葉でそれを伝えていくものです。それが逆に、誤解を防ぐ方法でもあります。
しかし、Twitterは、本質的に、「話す相手を選べず」「表現を相手によって変えられない」ものです。
にも関わらず、「話している主体も、話す相手も、漠然とした不特定多数ではなく、目に見える形で現れている」ものです。
何かのテーマやカリスマを中心とした掲示板やファンクラブ、
匿名のひとかたまりとなって感情を吐き出して全てを自己責任で運用する匿名掲示板、
基本的に不特定多数に開かれているブログ、
はっきりと特定個人に向けて語りかけられたメール、
公開範囲をコントロールするmixiのようなSNS、
等々とは、そこが違い、その違いはもしかしたら想像以上のものなのです。
ツイートは、独り言と友達への話しかけと公衆への演説の間を、都合よく、無責任に、ゆきつもどりつします。
あたかも特定的に話しかけているかのように、独り言(あるいは演説)を語り続けることができます。逆に、独り言のふりをして誰かに語りかけることも。
聞かせなくてもいいことを、聞かせなくてもいい相手に、名指ししているかどうかは曖昧にしつつ、語ることも、できます。
その意図がなくても、結果的にそうなってしまうことも、あります。
雑談も真剣な相談もお得な情報も悪口雑言もマスターベーションも、全く同じチャンネルで、しかも極めてフィルタリングの手段が限られた状態で、注がれるのが、Twitterの難しさです。
そしてTwitterには実質、フォローとリムーブ(あるいはフォローしない)の間がありません。かろうじて、リストがそれになるのでしょうが。
その間がないこと、は、様々な色彩と濃淡の友情(フラットなこの繋がり方は恐らく「友情」という表現が最も近いでしょう)を同じ方法論で処理することを意味します。本来友情ではないものを友情として扱うという危険も含めて。
***
Twitterでは、誰かが他の誰かのツイートに不快な思いをし、その受けた感情が行き場を失って暴発する光景が、時々見られます。
多くの場合は、ネットでよく言い古された「華麗にスルーしろ」のTwitter版である、「いやならフォローするな」「いやならリムーブ(ブロック)しろ」という対応でそれらは片付けられ、そうしない人には「自分の感情にばかりこだわるわがままな人」というような評価がつきます。
しかし、あるツイートに対して苦痛を感じた人や、そのその感情に対して、「いやならフォローしなければ(リムーブすれば)いい」と返すのは、実のところ全くのすれ違いというか、答えになっていないような気もします。
極論すれば、検閲に反対する作家に向けて「いやなら検閲されないものを書けばいい」と言い放つような。
彼らの目にはそういう回答に映っているのではないか、という気がしてならないのです。
そこにある苦痛とは、受けた側の正直な感覚としては、見たくないものを意に反して見せられているハラスメントであり、巧妙に意図を隠ぺいされた攻撃ですらあります。
それに対して、与えた側の正直な感覚は、「そんなことまでかまってられるか」といううんざりした声になるでしょう。
そして不快感が「そんなこと」と片付けられる感覚がまた、すれ違いと行き違いを生みます。
そうしたすれ違いを意識しなければ、今後も互いへの軽蔑と嫌悪の再生産がされていくのみの結果となるでしょう。
もっとも、そんな状態でも全然普通にTwitter上で「共存」していくと思うのですが。その懐の広さ(というよりも無関心さ)はTwitterの大きな長所でもあります。
そもそも、
「仕事が辛くてね」という人に対して「仕事やめろ」と言うしか対処法がない会社のような場所、が、Twitterであるという見方もできるでしょう。
***
もっとも、そういうところに至るまで、Twitterというものが長生きできるのかという問題は、また別にあるのですけれど。
10年後には、ごく一部の「昔からやっている層」が老人ホームの中で生活しているように残っている、そんな状態になっているのかも知れません。
そして結局は、ただ人間というこの厄介ないきものだけが残されて、新しいツールでコミュニケーションしながら、古い問題をまた繰り返す未来が続いていくというのも、実にありそうな話ではあります。
それは、
「売れた部数が多ければ名作という訳じゃないよ」
「友達は多ければいいという訳じゃないよ」
という考えが真実であるのと同じくらいには、真実です。
けれど、友達の数が少ないということを、何の価値も感情も交えずに、語り判断しイメージできる人が極めて稀であるのと同じように、それは真実の一面でしかなく、それを単純に語ることには危険がともないます。
Twitterの難しさは、フォローとリムーブ「しか存在しない」ことなのだと思います。
人間関係には、上下とは別の、フラットな平行関係においても、全く同じ関係性はありえません。
ひとりの人間には多様な顔があり、多様な関係性が存在します。
ピタゴラスイッチの「ぼくのおとうさん」の歌を思い浮かべる間でもなく、
おとーさん、おとーさん、ぼくのおとーさん は、会社に行くと課長さんであり、食堂入るとお客さんであり、英会話学校では生徒さんであり、うちに帰るとぼくのお父さん、であります。
そしてそういう、わかりやすい名前がつく関係性はまだ扱いやすい方です。たぶん、Twitterでもその辺は与しやすいのではないでしょうか。
お父さんはお父さんである以外にも別の顔があり、息子には息子である以外にも別の顔があるということを、当然の前提としつつ、それらを見ず、知らず、理解せずに(あるいは知らないふりをして)やっていくのが人間関係というものです。
人はとかく、愛する人に、「自分の全てを理解し受け入れて欲しい」と強く願うものですが、実は愛という恐らくこの世で最も近接した人間関係であっても、ある程度の「あえて見ない・理解しない・受け入れない・秘密の部分」を持たなければ成立できません。
(もちろん、「その部分」の量は、他の関係性に比べれば極めて少なく、また質も異なるものですが)
むしろ、一定の「その部分」があることをネガティブではない意味で受容することが、愛、あるいは近しさ、昵懇さというものです。
それは別に、偽善でも建前でも嘘でもなんでもなく、「愛の名において全てを受け入れよと欲する」「愛の名において全てを受け入れようとあがく」のは、一種の暴力でしかない、ということを学ぶのが、恐らく人間関係における成熟でしょう。
***
たぶん、Twitterではない人間関係であれば、その辺りの使い分けを、人は無意識にしているのだと思います。
オタクは誰が相手でも自分に興味のある話しかしないから嫌われるのだ、というのはよく言われることですが、本来ならば人間というのは、自分と相手の関係性を計りつつ、「共有の話題」を見つけようと努力し、それを膨らませていきます。
それをしないで「私の全てを受け入れてください」と言えば、それは暴力的だと誰でも思うはずです。
そしてまた、ある伝えたい事柄があった時、AさんとBさんに同じ言葉同じ表現でそれを伝えたとしても、同じように伝わる訳ではありません。
むしろひとは、常に、違う表現違う言葉でそれを伝えていくものです。それが逆に、誤解を防ぐ方法でもあります。
しかし、Twitterは、本質的に、「話す相手を選べず」「表現を相手によって変えられない」ものです。
にも関わらず、「話している主体も、話す相手も、漠然とした不特定多数ではなく、目に見える形で現れている」ものです。
何かのテーマやカリスマを中心とした掲示板やファンクラブ、
匿名のひとかたまりとなって感情を吐き出して全てを自己責任で運用する匿名掲示板、
基本的に不特定多数に開かれているブログ、
はっきりと特定個人に向けて語りかけられたメール、
公開範囲をコントロールするmixiのようなSNS、
等々とは、そこが違い、その違いはもしかしたら想像以上のものなのです。
ツイートは、独り言と友達への話しかけと公衆への演説の間を、都合よく、無責任に、ゆきつもどりつします。
あたかも特定的に話しかけているかのように、独り言(あるいは演説)を語り続けることができます。逆に、独り言のふりをして誰かに語りかけることも。
聞かせなくてもいいことを、聞かせなくてもいい相手に、名指ししているかどうかは曖昧にしつつ、語ることも、できます。
その意図がなくても、結果的にそうなってしまうことも、あります。
雑談も真剣な相談もお得な情報も悪口雑言もマスターベーションも、全く同じチャンネルで、しかも極めてフィルタリングの手段が限られた状態で、注がれるのが、Twitterの難しさです。
そしてTwitterには実質、フォローとリムーブ(あるいはフォローしない)の間がありません。かろうじて、リストがそれになるのでしょうが。
その間がないこと、は、様々な色彩と濃淡の友情(フラットなこの繋がり方は恐らく「友情」という表現が最も近いでしょう)を同じ方法論で処理することを意味します。本来友情ではないものを友情として扱うという危険も含めて。
***
Twitterでは、誰かが他の誰かのツイートに不快な思いをし、その受けた感情が行き場を失って暴発する光景が、時々見られます。
多くの場合は、ネットでよく言い古された「華麗にスルーしろ」のTwitter版である、「いやならフォローするな」「いやならリムーブ(ブロック)しろ」という対応でそれらは片付けられ、そうしない人には「自分の感情にばかりこだわるわがままな人」というような評価がつきます。
しかし、あるツイートに対して苦痛を感じた人や、そのその感情に対して、「いやならフォローしなければ(リムーブすれば)いい」と返すのは、実のところ全くのすれ違いというか、答えになっていないような気もします。
極論すれば、検閲に反対する作家に向けて「いやなら検閲されないものを書けばいい」と言い放つような。
彼らの目にはそういう回答に映っているのではないか、という気がしてならないのです。
そこにある苦痛とは、受けた側の正直な感覚としては、見たくないものを意に反して見せられているハラスメントであり、巧妙に意図を隠ぺいされた攻撃ですらあります。
それに対して、与えた側の正直な感覚は、「そんなことまでかまってられるか」といううんざりした声になるでしょう。
そして不快感が「そんなこと」と片付けられる感覚がまた、すれ違いと行き違いを生みます。
そうしたすれ違いを意識しなければ、今後も互いへの軽蔑と嫌悪の再生産がされていくのみの結果となるでしょう。
もっとも、そんな状態でも全然普通にTwitter上で「共存」していくと思うのですが。その懐の広さ(というよりも無関心さ)はTwitterの大きな長所でもあります。
そもそも、
「仕事が辛くてね」という人に対して「仕事やめろ」と言うしか対処法がない会社のような場所、が、Twitterであるという見方もできるでしょう。
***
もっとも、そういうところに至るまで、Twitterというものが長生きできるのかという問題は、また別にあるのですけれど。
10年後には、ごく一部の「昔からやっている層」が老人ホームの中で生活しているように残っている、そんな状態になっているのかも知れません。
そして結局は、ただ人間というこの厄介ないきものだけが残されて、新しいツールでコミュニケーションしながら、古い問題をまた繰り返す未来が続いていくというのも、実にありそうな話ではあります。
抽斗 ― 2011年02月08日
今日は特にオチのないとりとめのない話。
まぁそうじゃないかと自分でも薄々わかっていたのですが、私は引き出しに弱いのです。
なんのこっちゃと言われそうですが、引き出しが好きなのです。引き出しがついている家具とか、問答無用で欲しくなります。
私が今までの人生で、一度だけ「衝動買い」した家具は(実際には一週間悩みましたけど、家具という大きな買物の中ではこれは衝動買いの部類でしょう)、町田の東急ハンズの中国家具フェアで売られていた、薬箪笥風の箪笥です。CDを立てたらちょうど入るくらいの大きさの引き出しがずらり並んでいる姿は壮観です。
薬箪笥とか、階段箪笥とか、引き出しが整然と配置されている光景が大好きです。以前、鳥類学者の書斎を再現したという博物館の展示で、引き出しの中にぎっしりと小鳥の剥製が並べられていたのを見た時は、ざっくりと斬られたようなものすごい強い印象を受けました。
ここ数ヶ月というものの、ずっと部屋の整理を継続しているのですが、その中で一番しっくりする整理方法というか、落ち着く形を模索してみると、「引き出しが並んでる」というところに落ち着くのです。
もしかしたら、壁一面が図書館の地図整理棚のごとき引き出しに埋め尽くされているような状態が理想なのかも知れませんが、現実はそんな訳にはいきませんで、段ボール引き出しボックスを積み重ねるくらいが現状ですけれど。無印良品のポリプロピレン整理ケースが、引き出しタイプで、積み重ねることを前提に作られているのでスタックも引き出しもスムーズで非常によさそうなのですが、プラスチックの質感が部屋の一定以上の量を占める状態に馴染めるのか、自信がなくて、まだ使っていません。
しかし本来ならば、まず収納するべきものの量と大きさを見極めて、それにふさわしい引き出しなり容器なりを揃えるべきなのですけれど、私のような引き出し愛好者は、引き出しと見るやたがが外れてまずそれを並べてしまい、そこからようやく我に返って「何を入れようか……」と考え始めるのが常です。
今回の部屋の整理では、さすがにそういうことはしないようにしようと自分に言い聞かせて、まずモノの整理から始めているのですが、気がつくとネットサーフィンで引き出し型の家具や収納用品を見ている状態になります。
いつか、部屋の壁という壁に引き出しを並べ尽くして、そこに入らないものは持たない!みたいな暴挙に出るのではないかと心配です。
ムガル帝国誌(一)(二) ― 2011年02月09日
ムガル帝国誌(一),ベルニエ著,関美奈子訳,2001.11.16.第1刷,青482-1
ムガル帝国誌(二),ベルニエ著,倉田信子訳,2001.12.14.第1刷,青482-2
17世紀半ば、己の好奇心に従って、フランスからはるか遠くインドのムガル帝国へ旅に出た哲学者ベルニエによる、ムガル帝国についての見聞録。この頃のムガル帝国は、かのタージ・マハルを建造したシャー・ジャハーンから、息子へ権力が移譲する、ムガル帝国最盛期(そして滅びを前にした)時代だった。
見聞録は、シャー・ジャハーンの息子四人が、帝位をめぐって陰謀と戦争を繰り広げ、ついに三男アウラングゼーブが完全に帝位を手中に収めるまでの政変の記録から始まり、ムガル帝国の政治経済や文化、カシミール王国への行幸とかの地の描写、インド独特の風習の紹介など、バリエーション豊かで飽きない。
特に(一)の「ムガル帝国の大政変」は、四人の兄弟による駆け引きと争い、権謀術策の連続で、よくできた歴史物語という趣である。
象を繰り出しての戦い、王が国家の全てを所有し、王とともに都市まるごとが移動していく壮大な行幸、夫とともに寡婦が焼かれる悲惨な風習、さわやかなライム水や甘い砂糖漬け、息をさわやかにするビンロウや敗れた王族を始末する罌粟の麻薬ポーストなど、ザッツ・ファンタジーとも言うべき数々の風景を楽しむためだけでも、この本を読む価値はある。
この見聞録で描写される、王が国家の土地財産を全て私有する政治形態の欠点と国土の荒廃は、注釈にもあるがベルニエの政治的イデオロギーによるものだろう。モンテスキューやマルクスに引用されて、この本はインドの正確な描写として権威化されていったようだが、そういうところはあまり気にせずに、ひとりの人間の目に映った異国の情景を素直に味わい、それ以上の教訓を無理矢理引き出さないことが、この本の味わいのような気がする。
ムガル帝国誌(二),ベルニエ著,倉田信子訳,2001.12.14.第1刷,青482-2
17世紀半ば、己の好奇心に従って、フランスからはるか遠くインドのムガル帝国へ旅に出た哲学者ベルニエによる、ムガル帝国についての見聞録。この頃のムガル帝国は、かのタージ・マハルを建造したシャー・ジャハーンから、息子へ権力が移譲する、ムガル帝国最盛期(そして滅びを前にした)時代だった。
見聞録は、シャー・ジャハーンの息子四人が、帝位をめぐって陰謀と戦争を繰り広げ、ついに三男アウラングゼーブが完全に帝位を手中に収めるまでの政変の記録から始まり、ムガル帝国の政治経済や文化、カシミール王国への行幸とかの地の描写、インド独特の風習の紹介など、バリエーション豊かで飽きない。
特に(一)の「ムガル帝国の大政変」は、四人の兄弟による駆け引きと争い、権謀術策の連続で、よくできた歴史物語という趣である。
象を繰り出しての戦い、王が国家の全てを所有し、王とともに都市まるごとが移動していく壮大な行幸、夫とともに寡婦が焼かれる悲惨な風習、さわやかなライム水や甘い砂糖漬け、息をさわやかにするビンロウや敗れた王族を始末する罌粟の麻薬ポーストなど、ザッツ・ファンタジーとも言うべき数々の風景を楽しむためだけでも、この本を読む価値はある。
この見聞録で描写される、王が国家の土地財産を全て私有する政治形態の欠点と国土の荒廃は、注釈にもあるがベルニエの政治的イデオロギーによるものだろう。モンテスキューやマルクスに引用されて、この本はインドの正確な描写として権威化されていったようだが、そういうところはあまり気にせずに、ひとりの人間の目に映った異国の情景を素直に味わい、それ以上の教訓を無理矢理引き出さないことが、この本の味わいのような気がする。
見えない敵と甘い物の数を競う ― 2011年02月16日
用事で外出したり、雪で転んで手を擦りむいて青あざ作ったり、バレンタインギフトを各方面にお渡ししたり、ぱたぱたと飛び回る鳥のような状態でしたが、ようやく一段落です。
バレンタインデー近辺にあちこちで飛び交う様々な話を聞いていると、バレンタインデーというのは、一見すると女性の甘い物への欲求が支えいているように見えますけれど、本当は男性の競争心理が支えているのではないかと思えてきます。私の目には、男性という存在は、多くの場合とにかく何かと何かについて競うことで自己の証を立てるものに見えるのですが、バレンタインデーの狂騒曲というのはまさに、男性が本人にしか見えない仮想敵とチョコレートの数や質を競う一喜一憂から成立しているようです。もちろん、日本に限った話ですけれど。
そういう仮想敵との競争という性質を帯びているがゆえに、バレンタインギフトというのは、「男性にプレゼントをしてほぼ無条件に喜んでもらえる」という保証のある、数少ないイベントとなっています。男性に何かをプレゼントして、ちゃんと喜んでもらえるという機会は意外と少ないもので、喜びをきちんと表現できる数少ない男性が好印象を与える所以ですけれど、やはり好ましい反応があるとプレゼントを贈る側というのは盛り上がりますから、女性としても「また来年もやろう」という気持ちになる訳です。女性と子供に物をプレゼントする機会の方が圧倒的に多いのは、何と言ってもリアクションがあるからだと思います。あげない時のリアクション、というものも含めて。
まぁそんなとりとめもないことを考えながら、最近の私は、なかなか進まない部屋の片付けに頭を悩ませる毎日です。
バレンタインデー近辺にあちこちで飛び交う様々な話を聞いていると、バレンタインデーというのは、一見すると女性の甘い物への欲求が支えいているように見えますけれど、本当は男性の競争心理が支えているのではないかと思えてきます。私の目には、男性という存在は、多くの場合とにかく何かと何かについて競うことで自己の証を立てるものに見えるのですが、バレンタインデーの狂騒曲というのはまさに、男性が本人にしか見えない仮想敵とチョコレートの数や質を競う一喜一憂から成立しているようです。もちろん、日本に限った話ですけれど。
そういう仮想敵との競争という性質を帯びているがゆえに、バレンタインギフトというのは、「男性にプレゼントをしてほぼ無条件に喜んでもらえる」という保証のある、数少ないイベントとなっています。男性に何かをプレゼントして、ちゃんと喜んでもらえるという機会は意外と少ないもので、喜びをきちんと表現できる数少ない男性が好印象を与える所以ですけれど、やはり好ましい反応があるとプレゼントを贈る側というのは盛り上がりますから、女性としても「また来年もやろう」という気持ちになる訳です。女性と子供に物をプレゼントする機会の方が圧倒的に多いのは、何と言ってもリアクションがあるからだと思います。あげない時のリアクション、というものも含めて。
まぁそんなとりとめもないことを考えながら、最近の私は、なかなか進まない部屋の片付けに頭を悩ませる毎日です。
思考整理役 ― 2011年02月17日
時々思うのは、私という人間は、「レスポンス」にある種の能力というか、他者から見た時の存在の意味というか、何かそういうものがあるのかも知れないということです。
それは恐らく、非常に個性的だったり知的レベルが高かったりする人が、常に周囲に一定数以上存在するという、私の生まれ持った恵まれた運命によって育まれたものだと思います。そういう優れた人々にとって私は、時々、顔のついた好ましい壁や、思考の交通整理をする交差点の中のお巡りさんのような役割を果たすようです。これはカウンセリングとも違う役割で、触媒のようなものに近いかも知れません。あるいはバッターの練習のために球を投げ続ける専門のピッチャーのようなものでしょうか。
こういう役割において、私自身の意見や視点は、あまり重要ではなく、しかし無色透明な鏡のようなものでもいけないようです。視点や意見を持ち、それを示しながら、しかしそれは話す人の思考がよりよくまとまった段階で空気のように溶けて消えていき感知できなくなるというのが望ましい。言葉にするととても難しいように聞こえるのですが、言葉で言うよりは大変なことでもありません、実は。
この能力において、私よりもはるかに優れた(そして私よりもはるかに個性的で魅力的な)人物をひとりだけ知っていますが、彼女の周囲にはやはり、極めて特異で才能豊かな人が集まっています。
彼女と私の違いは、彼女がその自身の魅力と個性によって、特定的に「あの人に会いたい」と呼ばれるのに対して、私は隙間家具のように、とりあえず手が空いているから呼び出されるか、呼び出されることすらなく偶然に会った時にその役割を果たすということでしょうか。
私自身の思考に興味がある人はあまりいないので、私のブログや日記は日々平和です。たぶん、「世界の中における私の価値」というものは、私個人にあるのではなく、私の目に映る私以外の人々やものにあるのではないかと思います。私が(私以外の人の誰かの)伝記を書いたら読んでみたいと言われたことが一度だけありますが、あれは色々なことを象徴していたように、今では感じられるのです。
それは恐らく、非常に個性的だったり知的レベルが高かったりする人が、常に周囲に一定数以上存在するという、私の生まれ持った恵まれた運命によって育まれたものだと思います。そういう優れた人々にとって私は、時々、顔のついた好ましい壁や、思考の交通整理をする交差点の中のお巡りさんのような役割を果たすようです。これはカウンセリングとも違う役割で、触媒のようなものに近いかも知れません。あるいはバッターの練習のために球を投げ続ける専門のピッチャーのようなものでしょうか。
こういう役割において、私自身の意見や視点は、あまり重要ではなく、しかし無色透明な鏡のようなものでもいけないようです。視点や意見を持ち、それを示しながら、しかしそれは話す人の思考がよりよくまとまった段階で空気のように溶けて消えていき感知できなくなるというのが望ましい。言葉にするととても難しいように聞こえるのですが、言葉で言うよりは大変なことでもありません、実は。
この能力において、私よりもはるかに優れた(そして私よりもはるかに個性的で魅力的な)人物をひとりだけ知っていますが、彼女の周囲にはやはり、極めて特異で才能豊かな人が集まっています。
彼女と私の違いは、彼女がその自身の魅力と個性によって、特定的に「あの人に会いたい」と呼ばれるのに対して、私は隙間家具のように、とりあえず手が空いているから呼び出されるか、呼び出されることすらなく偶然に会った時にその役割を果たすということでしょうか。
私自身の思考に興味がある人はあまりいないので、私のブログや日記は日々平和です。たぶん、「世界の中における私の価値」というものは、私個人にあるのではなく、私の目に映る私以外の人々やものにあるのではないかと思います。私が(私以外の人の誰かの)伝記を書いたら読んでみたいと言われたことが一度だけありますが、あれは色々なことを象徴していたように、今では感じられるのです。
再会 ― 2011年02月22日
ここのところ、もう何年もご無沙汰だった「読書欲」が出てきて、結構なペースで本を読んでいます。あと新聞も。
私はどう考えても活字依存症で、もともと本を砦のように自分の周囲に巡らす種類の人間なのですが、ここ数年は、憑き物が落ちたように本への偏愛がなくなり、本の山を見ると段々とうんざりしてくるようになってきました。
なので、かなりの量の本を処分し、電子化し、家の中の本に割くスペースは大分少なくなりました。それでもまだまだ、収まり切れないのが困ったところではあるのですが。本を買う量もかなり減って、料理の本のような実用書が多くなってきていました。
新聞については、私はもともとニュースやマスメディアというものへの耐性がとても低くて、追いかけていると非常に疲れて抑鬱的になるので、こちらもここ数年、読む頻度が落ちていたのです。
ところが、このところ、自分の活字中毒自体は全く改善されていないことを実感してしまいまして。
読書が減った分、私の活字中毒は無意識に活字を摂取するという状態になっていたようで、有り体に言えばそれはネットサーフィンやWikipediaの閲覧やTwitter・mixiの利用で代用されていたのだと思うのです。
私は去年あたりから、とても扱いづらい、難しい精神状態になっていて、たぶんそれは再来年くらいまで続くと予想しているのですが、恐らくはその流れで、最近インターネットコンテンツの利用が極めてしんどくなってきているのです。そういう状態になったせいで、自分がかなり無意識に惰性で、ネットという活字を摂取していたことを、実感するようになってきました。
何だかもう、そろそろやめよう……少なくともこのしんどい流れが変わるまでは、何とか対策を打たないといけない。そう思って、私は意識的に、インターネットの利用を減らし始めました。今ではTwitterやmixiにアクセスする回数が激減しています。
で、今はどうやら、インターネットのコンテンツを相手にするよりは、新聞を相手にする方がまだ心理的処理をしやすいらしく、また本を減らしたせいで「自分にとって必要な本」が絞られたこともあり、本を読むという行為から得られる実りが、以前よりも増えてきました。最近は、ブクログに登録したりもしてますが、あまりレビューをしたりせずに、本を読んだ後ただそれを自分の中で熟成させるに任せるということが、またできるようになってきました。
こうして私はまた、昔の友達に久しぶりに会うように、読書を再開しています。
もしかしたらこの流れのせいで、私はずいぶんとコミュニケーションの取りにくい人になってしまうのかも知れません。
なぜなら、もともと私は、あまり誘われたり呼ばれたりする人ではなくて、自分からせっせと他人の近況をうかがったり、声をかけて集まりを主催したり、誰かに他の誰かの近況を伝えたりすることで、ようやく多少なりとも世間と繋がっていたのですが、自分から外にアクセスするという努力を、少なくとも相当の部分放棄してしまったのですから。それでも、私を呼ぶ人の声を聴けば、現れる用意はいつでもしてはあるのですが。
考えてみると、私の人生は、この「社会との接点を広げて外に懸命に手を延ばす」時と、「自分の意味のなさを噛みしめて丸くなる」時の繰り返しなのだと思います。それは螺旋のごとく、少しずつ位相を変えつつも季節のように巡ってきます。私は今、私という存在の直接の意味や意義を、何も思いつかず、ただ時折私を「相手」として必要とする、もっと意義深い存在にとってのみ多少の意味があるのだろうとしか思いませんが、十年前に味わったこの実感は、もはや懐かしいとか馴染み深いとさえ呼べそうです。たぶん、形を変えつつ、一生残る感覚なのでしょう。私の人生があと何年残っているのか、わかりませんけれど。
私はどう考えても活字依存症で、もともと本を砦のように自分の周囲に巡らす種類の人間なのですが、ここ数年は、憑き物が落ちたように本への偏愛がなくなり、本の山を見ると段々とうんざりしてくるようになってきました。
なので、かなりの量の本を処分し、電子化し、家の中の本に割くスペースは大分少なくなりました。それでもまだまだ、収まり切れないのが困ったところではあるのですが。本を買う量もかなり減って、料理の本のような実用書が多くなってきていました。
新聞については、私はもともとニュースやマスメディアというものへの耐性がとても低くて、追いかけていると非常に疲れて抑鬱的になるので、こちらもここ数年、読む頻度が落ちていたのです。
ところが、このところ、自分の活字中毒自体は全く改善されていないことを実感してしまいまして。
読書が減った分、私の活字中毒は無意識に活字を摂取するという状態になっていたようで、有り体に言えばそれはネットサーフィンやWikipediaの閲覧やTwitter・mixiの利用で代用されていたのだと思うのです。
私は去年あたりから、とても扱いづらい、難しい精神状態になっていて、たぶんそれは再来年くらいまで続くと予想しているのですが、恐らくはその流れで、最近インターネットコンテンツの利用が極めてしんどくなってきているのです。そういう状態になったせいで、自分がかなり無意識に惰性で、ネットという活字を摂取していたことを、実感するようになってきました。
何だかもう、そろそろやめよう……少なくともこのしんどい流れが変わるまでは、何とか対策を打たないといけない。そう思って、私は意識的に、インターネットの利用を減らし始めました。今ではTwitterやmixiにアクセスする回数が激減しています。
で、今はどうやら、インターネットのコンテンツを相手にするよりは、新聞を相手にする方がまだ心理的処理をしやすいらしく、また本を減らしたせいで「自分にとって必要な本」が絞られたこともあり、本を読むという行為から得られる実りが、以前よりも増えてきました。最近は、ブクログに登録したりもしてますが、あまりレビューをしたりせずに、本を読んだ後ただそれを自分の中で熟成させるに任せるということが、またできるようになってきました。
こうして私はまた、昔の友達に久しぶりに会うように、読書を再開しています。
もしかしたらこの流れのせいで、私はずいぶんとコミュニケーションの取りにくい人になってしまうのかも知れません。
なぜなら、もともと私は、あまり誘われたり呼ばれたりする人ではなくて、自分からせっせと他人の近況をうかがったり、声をかけて集まりを主催したり、誰かに他の誰かの近況を伝えたりすることで、ようやく多少なりとも世間と繋がっていたのですが、自分から外にアクセスするという努力を、少なくとも相当の部分放棄してしまったのですから。それでも、私を呼ぶ人の声を聴けば、現れる用意はいつでもしてはあるのですが。
考えてみると、私の人生は、この「社会との接点を広げて外に懸命に手を延ばす」時と、「自分の意味のなさを噛みしめて丸くなる」時の繰り返しなのだと思います。それは螺旋のごとく、少しずつ位相を変えつつも季節のように巡ってきます。私は今、私という存在の直接の意味や意義を、何も思いつかず、ただ時折私を「相手」として必要とする、もっと意義深い存在にとってのみ多少の意味があるのだろうとしか思いませんが、十年前に味わったこの実感は、もはや懐かしいとか馴染み深いとさえ呼べそうです。たぶん、形を変えつつ、一生残る感覚なのでしょう。私の人生があと何年残っているのか、わかりませんけれど。
深刻病 ― 2011年02月23日
最近何だか、ものを書こうとすると深刻なことばかり書いてしまうという傾向があって、自分の中のバランスがとれていないのだろうなと思います。
深刻なことを書く時は、書いたままどこにも出さずにひっそりと私のMacの中に眠らせておくこともありますけれど、たまには目に見えるところに出してみることもあります。とはいえ、そういう文章に、何も手ごたえや反応がなければないで無意味感が来ますし、反応があればあったで悩むので、なかなかどうして、ちょうどいい精神状態に持っていくことができません。かと言って、書かないともっと悪くなるのですが。
まぁこういう状態も、信頼のおける人と、ゆっくり時間を気にせずにお茶でも飲みながら話をすると、案外するりと変化していくものでしょうから、あまり気にし過ぎない方がいいのでしょうね。
バートランド・ラッセルが「幸福論」で書いていましたけれど、自己の内部にあまりかまいすぎると、幸福から離れることにつながるというのは、一理ある意見だと思います。
深刻なことを書く時は、書いたままどこにも出さずにひっそりと私のMacの中に眠らせておくこともありますけれど、たまには目に見えるところに出してみることもあります。とはいえ、そういう文章に、何も手ごたえや反応がなければないで無意味感が来ますし、反応があればあったで悩むので、なかなかどうして、ちょうどいい精神状態に持っていくことができません。かと言って、書かないともっと悪くなるのですが。
まぁこういう状態も、信頼のおける人と、ゆっくり時間を気にせずにお茶でも飲みながら話をすると、案外するりと変化していくものでしょうから、あまり気にし過ぎない方がいいのでしょうね。
バートランド・ラッセルが「幸福論」で書いていましたけれど、自己の内部にあまりかまいすぎると、幸福から離れることにつながるというのは、一理ある意見だと思います。
りんごとナッツのソフトビスケット ― 2011年02月25日
写真を撮ろうと思ったけど、見た目はブラウン一色の地味な食べ物だったのでやめました(笑)。
グラニースミスという、酸味が比較的強い品種のりんごが、らでぃっしゅぼーやで届いたので、カノウユミコさんのレシピでソフトビスケットを作りました。
蒸し煮したりんごと、色々なナッツとレーズンを、小麦粉でさっくりまとめて作るレシピ。糖分は加えませんが、ナッツとコクと、レーズンと蒸し煮したりんごの甘味が絶妙で、後味のいいビスケットです。
加熱したりんごは、作り立ては酸味が立った感じですが、時間が経つにつれて酸味の鋭角な感じが和らいで、香りと甘味のバランスがとれてきます。時間が経つにつれておいしくなっていくというところは、ビスケット向きかも知れません。
おいしかったのでぱくぱく食べていたら、後日の分がなくなってしまったので、軽鴨の君の分はまた改めて作らなくてはならないようです。
グラニースミスという、酸味が比較的強い品種のりんごが、らでぃっしゅぼーやで届いたので、カノウユミコさんのレシピでソフトビスケットを作りました。
蒸し煮したりんごと、色々なナッツとレーズンを、小麦粉でさっくりまとめて作るレシピ。糖分は加えませんが、ナッツとコクと、レーズンと蒸し煮したりんごの甘味が絶妙で、後味のいいビスケットです。
加熱したりんごは、作り立ては酸味が立った感じですが、時間が経つにつれて酸味の鋭角な感じが和らいで、香りと甘味のバランスがとれてきます。時間が経つにつれておいしくなっていくというところは、ビスケット向きかも知れません。
おいしかったのでぱくぱく食べていたら、後日の分がなくなってしまったので、軽鴨の君の分はまた改めて作らなくてはならないようです。
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