源泉2010年10月07日

 言葉を放つというのは、世界のどこかにある、心の源になっている泉に、感情を投げ入れるような行為だと思います。悪意のある言葉を放てば、悪意が泉に投げ入れられ、それが流れ流れてやがて自分の口に入ることになる。善意もまた然り。

 言葉というのは、本来ならフラッシュのようにはじけて消え去っていく運命の感情に、形を与えて固定するものです。
 それは、新雪のごとく美しくも儚い善き心を、思い起こすことができるほど長い間留めておくことができる一方で、刹那で消えていれば害の少なかったであろう悪意を、からめとって呪いのように固定させることもあります。

 私は、自分が傷ついた言葉を、忘れずにとても長い間、昨日のことのように思い出すことができます。
 恐らく、私が過去に放った、誰かを傷つけた言葉も、私が忘れてしまっても未だ誰かの心に残ってしまっているのに違いありません。消せるものならば消したいものですけれど。

 そういうことを考えると、たとえもっともな、正当なものであったとしても、悪意をこめた言葉は、やはり形にしてしまわないほうがいいのだろうなと思います。
 書くのであれば、無意味であっても、善意の方がいくばくかはましなようです。

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