謹賀新年 ― 2010年01月01日
あけましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いいたします(深々とお辞儀)。
2010.1.1.って書いたら、妙に1が多くてゲシュタルト崩壊起こしかけました。あれ、この縦棒ってイチって読むんだっけ?みたいな思考が一瞬浮かんで消える。
今年もアンドラ・龍口酒家・池袋の線條手打餃子さんの餃子という、豪華トリプルおせち体制に加え、自家製の黒豆と金柑の甘煮と茹で野菜とデザートのあんことお菓子とみかんたくさん、というお正月です。
年が明けて最初に汲む水、若水は思い切りお鳥様の飲み水になりました。今年も変わらず、お鳥様中心のわが家の生活。
あ、月蝕は見忘れました。「レイトン教授と魔神の笛」クリアしてて忘れてました。おいおい。
そんなこんなで、今年は珍しく一年の計は元旦にあり、の「今年の目標」とやらを掲げてみたいと思います。年末にどれくらい達成できなかったかと見て笑うためにね!(すでに間違ってる)
・ものを減らす
まー軽鴨の君の新年のお願いは「妻が常人なみに掃除をしてくれますように」なのですが、やっぱりモノが多いと掃除がしにくい訳で、とにかくモノを減らそうと思っています。
具体的には1日に小さいモノだったら5個、大きいものだったら1個減らすようにしたいなぁ。
で、目標としては、人が何の前触れもなくやってきても全然あわてないでにっこりウェルカムな状態、というまぶしすぎるものを設定してみます。あ、まぶしくて直視できない。
・体を鍛える
なんじゃこれ、小学生の目標か。まぁ運動不足があまりにもひどくて、ダイエット云々以前の感じになっているのですが、実は体重云々ではなくてですね。
今年の9月あたりに、奈良の三輪山に登る機会に恵まれそうなのです。三輪山は標高自体は高尾山よりも低いくらいなのですが、不思議な空気に包まれている霊山ということで、登るには数字で想像する以上の精神力と体力を必要とするみたいです。
で、気合いを入れるためにもちゃんと体力つけようとね。
とりあえずは毎日ぷちトレして、歩いて、ヨガとか?
・朝食たべる
なんじゃこれ、小学生でも立てない目標だぞ。
諸般の事情から、早寝早起きができていないので、とりあえず一般の人が朝食と認めてくれるような時間に朝食を食べられるようにしたいなぁと。
早起きするのは難題だけどね。特に今の季節。
・書く
私にとって文章を書くというのは、呼吸のようなものでやらないと死んでしまう訳ですが、このところ非常に内向的に、人に見せることを考えない文章ばかりを書いていたので、ここらでまとまった量、さらに定期的に、人が読むのを前提にした文章を書くことをしないとなぁと。
具体的には、まずはアサブロの方を毎日更新することですかね。できれば何文字以上とか、何かルールを作りたいところです。実際には何文字以下、の方が私へのルールとしては厳しいかも知れないけど。無駄に長い文章書くのだけは得意だからね!
「他人が読むのを前提とした物語」を今年書くかどうかはまだ未定ですが、まぁこればかりは自分で決めるというよりも、天から命じられるとか、降りてくるものなのかも知れません。天が許すならば誰かが必要としてくれるなら、書くことでしょう。
あと、長らく放置しているホームページをきちんとしないと。いっそBiNDあたりを導入してイチから作りなおすか、普通にiText Proとかで地道にタグを手打ちして続行するかは、まだ悩んでます。
とりあえずまぁそんな感じで、のんびり今年もやりたいと思います。
ちなみに今年は1/18以降から、うお座の方が幸運に恵まれます。夏頃はアップダウンが激しい運気ですが。
それでは今年も、皆様に幸せが光のように降り注ぎますように。
今年もどうぞよろしくお願いいたします(深々とお辞儀)。
2010.1.1.って書いたら、妙に1が多くてゲシュタルト崩壊起こしかけました。あれ、この縦棒ってイチって読むんだっけ?みたいな思考が一瞬浮かんで消える。
今年もアンドラ・龍口酒家・池袋の線條手打餃子さんの餃子という、豪華トリプルおせち体制に加え、自家製の黒豆と金柑の甘煮と茹で野菜とデザートのあんことお菓子とみかんたくさん、というお正月です。
年が明けて最初に汲む水、若水は思い切りお鳥様の飲み水になりました。今年も変わらず、お鳥様中心のわが家の生活。
あ、月蝕は見忘れました。「レイトン教授と魔神の笛」クリアしてて忘れてました。おいおい。
そんなこんなで、今年は珍しく一年の計は元旦にあり、の「今年の目標」とやらを掲げてみたいと思います。年末にどれくらい達成できなかったかと見て笑うためにね!(すでに間違ってる)
・ものを減らす
まー軽鴨の君の新年のお願いは「妻が常人なみに掃除をしてくれますように」なのですが、やっぱりモノが多いと掃除がしにくい訳で、とにかくモノを減らそうと思っています。
具体的には1日に小さいモノだったら5個、大きいものだったら1個減らすようにしたいなぁ。
で、目標としては、人が何の前触れもなくやってきても全然あわてないでにっこりウェルカムな状態、というまぶしすぎるものを設定してみます。あ、まぶしくて直視できない。
・体を鍛える
なんじゃこれ、小学生の目標か。まぁ運動不足があまりにもひどくて、ダイエット云々以前の感じになっているのですが、実は体重云々ではなくてですね。
今年の9月あたりに、奈良の三輪山に登る機会に恵まれそうなのです。三輪山は標高自体は高尾山よりも低いくらいなのですが、不思議な空気に包まれている霊山ということで、登るには数字で想像する以上の精神力と体力を必要とするみたいです。
で、気合いを入れるためにもちゃんと体力つけようとね。
とりあえずは毎日ぷちトレして、歩いて、ヨガとか?
・朝食たべる
なんじゃこれ、小学生でも立てない目標だぞ。
諸般の事情から、早寝早起きができていないので、とりあえず一般の人が朝食と認めてくれるような時間に朝食を食べられるようにしたいなぁと。
早起きするのは難題だけどね。特に今の季節。
・書く
私にとって文章を書くというのは、呼吸のようなものでやらないと死んでしまう訳ですが、このところ非常に内向的に、人に見せることを考えない文章ばかりを書いていたので、ここらでまとまった量、さらに定期的に、人が読むのを前提にした文章を書くことをしないとなぁと。
具体的には、まずはアサブロの方を毎日更新することですかね。できれば何文字以上とか、何かルールを作りたいところです。実際には何文字以下、の方が私へのルールとしては厳しいかも知れないけど。無駄に長い文章書くのだけは得意だからね!
「他人が読むのを前提とした物語」を今年書くかどうかはまだ未定ですが、まぁこればかりは自分で決めるというよりも、天から命じられるとか、降りてくるものなのかも知れません。天が許すならば誰かが必要としてくれるなら、書くことでしょう。
あと、長らく放置しているホームページをきちんとしないと。いっそBiNDあたりを導入してイチから作りなおすか、普通にiText Proとかで地道にタグを手打ちして続行するかは、まだ悩んでます。
とりあえずまぁそんな感じで、のんびり今年もやりたいと思います。
ちなみに今年は1/18以降から、うお座の方が幸運に恵まれます。夏頃はアップダウンが激しい運気ですが。
それでは今年も、皆様に幸せが光のように降り注ぎますように。
レイトン教授と永遠の歌姫 ― 2010年01月02日
のんびりと、おせちを食べたりお茶を飲んだりしながら過ごす一日。軽鴨の君は週末もお仕事でお休みじゃないことが多々ありますから、軽鴨の君がずっと家にいると、ああ長いお休みなのだなぁとほのぼのします。
夕方から、映画「レイトン教授と永遠の歌姫」を観てきました。映画を観るという習慣がほとんどなく、滅多に映画館に足を運ばない私にしては珍しいです。これも軽鴨の君がせっついてくれなかったら、そのまま見逃していたかも知れません。
DSのパズルゲーム、レイトン教授シリーズの映画化ということで、ゲームを遊んでいればより楽しめますが、そうでなくてもなかなか楽しい娯楽映画になっていたと思います。とても素直に楽しみました。
イギリスはロンドン、ただしスチームパンク風の、リアルなロンドンとは少し違う世界を舞台に、謎解きを愛する考古学者レイトンと、その弟子である少年ルークが、「永遠の命を与える」と標榜する謎の存在と対決する、冒険と知恵比べの物語。
謎解き部分は結構きちんとしていて、しかもあまり難しすぎず、謎を解こうと思って観ていればかなりの確率でレイトンがひらめくのと同時に謎を解けるのではないでしょうか。ストーリーの締めくくりとなる最後のものは、まぁまず推理不可能ですが、ただし伏線はちゃんと映画冒頭で語られている辺りが面白いです。
あと、最終的な敵役の、出落ちっぷりが好き。
そんな感じで、久しぶりに楽しく映画を観てきました。こういう陽性の物語はいいですね。明るい気持ちになります。
夕方から、映画「レイトン教授と永遠の歌姫」を観てきました。映画を観るという習慣がほとんどなく、滅多に映画館に足を運ばない私にしては珍しいです。これも軽鴨の君がせっついてくれなかったら、そのまま見逃していたかも知れません。
DSのパズルゲーム、レイトン教授シリーズの映画化ということで、ゲームを遊んでいればより楽しめますが、そうでなくてもなかなか楽しい娯楽映画になっていたと思います。とても素直に楽しみました。
イギリスはロンドン、ただしスチームパンク風の、リアルなロンドンとは少し違う世界を舞台に、謎解きを愛する考古学者レイトンと、その弟子である少年ルークが、「永遠の命を与える」と標榜する謎の存在と対決する、冒険と知恵比べの物語。
謎解き部分は結構きちんとしていて、しかもあまり難しすぎず、謎を解こうと思って観ていればかなりの確率でレイトンがひらめくのと同時に謎を解けるのではないでしょうか。ストーリーの締めくくりとなる最後のものは、まぁまず推理不可能ですが、ただし伏線はちゃんと映画冒頭で語られている辺りが面白いです。
あと、最終的な敵役の、出落ちっぷりが好き。
そんな感じで、久しぶりに楽しく映画を観てきました。こういう陽性の物語はいいですね。明るい気持ちになります。
落差 ― 2010年01月03日
今日でお正月休みも終わりです。ふう。
そんな最終日も、のんびりと……というよりたらたらと、おせちを食べたり溜まっている録画を観たりという過ごし方でした。おい体を鍛えるはどこへ行った。
ずいぶん前のテレビ番組ですが「探偵Xからの挑戦状 season2」の録画を観ていました。
これは有名なミステリ作家が書いた作品をドラマ化して、携帯小説として配信して、ドラマで放送し、視聴者が犯人当てや謎解きをして、答えを次の週のドラマで発表するという趣向です。
番組のナビゲーターというか狂言回しとして、竹中直人と谷村美月がコミカルな掛け合いミニドラマが入り、本編の作品が放送されます。
どうも私から観ると、この狂言回しの掛け合い部分が一番面白くて、本編の部分はおまけのような感じになってしまうのです。この掛け合い部分を観るために録画していたような気がします。
これは俳優の演技力の問題ではなくて、どうも本編のミステリ部分に乗り切れないせいのようです。ミステリ部分のドラマが、妙に安っぽいというか。
繰り返すのですが、俳優さんたちの演技には何も問題はありません。けれど全体の空気感が肌に合わないとでも言うのでしょうか。違和感が強くて。
リアリティはもちろんないし、全くの絵空事としても素直に受け止めて観られないのです。
同じミステリというジャンルでも、たとえばNHKで放送されていた「名探偵ポワロ」とか「シャーロック・ホームズの冒険」は大好きでDVDまで購入したくらいなのですけれど。こちらには違和感がないのです。
もしかしたら、海外の、しかも十九世紀とか二十世紀初頭を舞台にしたドラマということで、自分が全く体験しなかった世界ですから、違和感を覚えずに済むのかも知れません。
自分がよく知っている現代日本の大都市という舞台だからこそ、つまり本物を知っているからこそ、描かれるドラマ世界との落差が目に付いて乗り切れないのでしょうか。
よく考えると、私はもう何年もドラマを観ていなくて、映画もほとんど観ていません。観ていないから、慣れもなくて些細なところに突っかかるのか(知らない言語の文法につまずくように)。それともいちいち突っかかってしまうからこそ、観るのが嫌になってしまったのか。今となってはわかりませんけれど。
でも確かに、ドラマを観ない原因のひとつには、この違和感があるような気がします。
ドラマや映画という表現媒体のカリカチュアライズの文法と、私はよほど相性が悪いのでしょうか。それが、ミステリという特に飛躍やハッタリが必要なジャンルを表現するために、なおさら強調されてしまうのでしょう。
まぁそんな小難しい話は別にして、実は本編のミステリ部分が、後味の悪い話(私にとっては、なのですが)が大半なのが、一番の原因なのかも知れませんけれど。
ミステリは、娯楽の道具として人間を殺し弄ぶのですから、せめて後味がよい物語であってほしいと思ってしまうのです。まあ私のわがままなのですけれど。
そんな最終日も、のんびりと……というよりたらたらと、おせちを食べたり溜まっている録画を観たりという過ごし方でした。おい体を鍛えるはどこへ行った。
ずいぶん前のテレビ番組ですが「探偵Xからの挑戦状 season2」の録画を観ていました。
これは有名なミステリ作家が書いた作品をドラマ化して、携帯小説として配信して、ドラマで放送し、視聴者が犯人当てや謎解きをして、答えを次の週のドラマで発表するという趣向です。
番組のナビゲーターというか狂言回しとして、竹中直人と谷村美月がコミカルな掛け合いミニドラマが入り、本編の作品が放送されます。
どうも私から観ると、この狂言回しの掛け合い部分が一番面白くて、本編の部分はおまけのような感じになってしまうのです。この掛け合い部分を観るために録画していたような気がします。
これは俳優の演技力の問題ではなくて、どうも本編のミステリ部分に乗り切れないせいのようです。ミステリ部分のドラマが、妙に安っぽいというか。
繰り返すのですが、俳優さんたちの演技には何も問題はありません。けれど全体の空気感が肌に合わないとでも言うのでしょうか。違和感が強くて。
リアリティはもちろんないし、全くの絵空事としても素直に受け止めて観られないのです。
同じミステリというジャンルでも、たとえばNHKで放送されていた「名探偵ポワロ」とか「シャーロック・ホームズの冒険」は大好きでDVDまで購入したくらいなのですけれど。こちらには違和感がないのです。
もしかしたら、海外の、しかも十九世紀とか二十世紀初頭を舞台にしたドラマということで、自分が全く体験しなかった世界ですから、違和感を覚えずに済むのかも知れません。
自分がよく知っている現代日本の大都市という舞台だからこそ、つまり本物を知っているからこそ、描かれるドラマ世界との落差が目に付いて乗り切れないのでしょうか。
よく考えると、私はもう何年もドラマを観ていなくて、映画もほとんど観ていません。観ていないから、慣れもなくて些細なところに突っかかるのか(知らない言語の文法につまずくように)。それともいちいち突っかかってしまうからこそ、観るのが嫌になってしまったのか。今となってはわかりませんけれど。
でも確かに、ドラマを観ない原因のひとつには、この違和感があるような気がします。
ドラマや映画という表現媒体のカリカチュアライズの文法と、私はよほど相性が悪いのでしょうか。それが、ミステリという特に飛躍やハッタリが必要なジャンルを表現するために、なおさら強調されてしまうのでしょう。
まぁそんな小難しい話は別にして、実は本編のミステリ部分が、後味の悪い話(私にとっては、なのですが)が大半なのが、一番の原因なのかも知れませんけれど。
ミステリは、娯楽の道具として人間を殺し弄ぶのですから、せめて後味がよい物語であってほしいと思ってしまうのです。まあ私のわがままなのですけれど。
塩漬けキャベツ ― 2010年01月04日
あっというまにいつもの日常になってしまいました。
日常というものはあまりにも強固で、たちまちのうちに私たちを呑み込んでいきます。
まぁ軽鴨の君が出勤してしまうと、私のやることは、書き物をするとか洗濯をするとかFF11をプレイするとかで。本当にいつもの日常です。
去年末に、「札幌大球」という種類のキャベツが、らでぃっしゅぼーやから届きまして。
これは昔北海道でニシン漬けが大量に生産されていた時代にニシン漬けの材料のひとつになっていたそうで、食味がよいキャベツとして人気があったそうです。さくさくとした歯ごたえと、さわやかな甘味があります。しかし残念ながら、現在はほとんど生産されていないとか。
このキャベツ、とにかく巨大です。どれくらい巨大かというと、四分の一にカットして届けられた状態で、すでに私の顔を覆うくらいあります。よく「赤ちゃんはどこから来るの?」という子供の質問に困った親が「キャベツの中よ」と言ったという昔話を聞きますが、そのキャベツは間違いなく札幌大球です。赤ん坊なぞ楽勝で入ります。このキャベツが人食いキャベツだったら、人類はとっくに滅亡です。
大きいので冷蔵庫の野菜室に入れるのも一苦労で、考えた末にざく切りにして塩をまぶして、小分けにして保存容器に入れて冷蔵庫に入れていました。
塩と冷蔵庫のおかげで今も腐敗することなく、ほどよい浅漬け状態を維持しておりますが、さすがに少し色が黒ずんで来まして、大丈夫かしらと心配になってきました。
軽鴨の君に得体のしれないものを食べさせる訳にはいかないので、ちょっとゆずの果汁をかけて私ひとりのおかずにしたのですが、これがなかなか美味で、おいしくいただいてしまいました。
そして不思議なことに、ゆずの果汁をかけたせいなのか、黒ずみもなくなっていたような……。キャベツが黒ずむ仕組みは、もしかして酸で中和されるのかしら。後で調べてみようかと思います。
日常というものはあまりにも強固で、たちまちのうちに私たちを呑み込んでいきます。
まぁ軽鴨の君が出勤してしまうと、私のやることは、書き物をするとか洗濯をするとかFF11をプレイするとかで。本当にいつもの日常です。
去年末に、「札幌大球」という種類のキャベツが、らでぃっしゅぼーやから届きまして。
これは昔北海道でニシン漬けが大量に生産されていた時代にニシン漬けの材料のひとつになっていたそうで、食味がよいキャベツとして人気があったそうです。さくさくとした歯ごたえと、さわやかな甘味があります。しかし残念ながら、現在はほとんど生産されていないとか。
このキャベツ、とにかく巨大です。どれくらい巨大かというと、四分の一にカットして届けられた状態で、すでに私の顔を覆うくらいあります。よく「赤ちゃんはどこから来るの?」という子供の質問に困った親が「キャベツの中よ」と言ったという昔話を聞きますが、そのキャベツは間違いなく札幌大球です。赤ん坊なぞ楽勝で入ります。このキャベツが人食いキャベツだったら、人類はとっくに滅亡です。
大きいので冷蔵庫の野菜室に入れるのも一苦労で、考えた末にざく切りにして塩をまぶして、小分けにして保存容器に入れて冷蔵庫に入れていました。
塩と冷蔵庫のおかげで今も腐敗することなく、ほどよい浅漬け状態を維持しておりますが、さすがに少し色が黒ずんで来まして、大丈夫かしらと心配になってきました。
軽鴨の君に得体のしれないものを食べさせる訳にはいかないので、ちょっとゆずの果汁をかけて私ひとりのおかずにしたのですが、これがなかなか美味で、おいしくいただいてしまいました。
そして不思議なことに、ゆずの果汁をかけたせいなのか、黒ずみもなくなっていたような……。キャベツが黒ずむ仕組みは、もしかして酸で中和されるのかしら。後で調べてみようかと思います。
手抜き ― 2010年01月05日
お昼は、ほうれん草のペペロンチーノスパゲティなど作り、緑色を愛でながら食べておりました。
夕飯は、軽鴨の君が外で食べてくるとのことで。
そういう夜は、私は大抵とてもいい加減なごはんで済ませます。ひとりのごはんて、何てつまらないんでしょう。丹精込めて作ったところで、食べるのは一瞬。そう思うとたちまち面倒になってしまうのです。
森茉莉女史は、自分がおいしいものを食べるのが好きで、他人のためには作らないとエッセイに書いていたけれど、そういう人が作るごはんはきっとおいしいのだろうなぁ。
けれど私は森茉莉ではないので、あたためた昨日の玄米ごはんに、玄米たまごやらキムチやらキャベツの浅漬けやらをのっけて、適当に食べてごはんを終わらせてしまうのです。
そして、明日はちゃんとごはんを作らないとなぁと思いつつ、考え事をしながら食べ終わってしまって、ごはんのことを忘れてしまうのが私のひとりのごはんの日常です。
夕飯は、軽鴨の君が外で食べてくるとのことで。
そういう夜は、私は大抵とてもいい加減なごはんで済ませます。ひとりのごはんて、何てつまらないんでしょう。丹精込めて作ったところで、食べるのは一瞬。そう思うとたちまち面倒になってしまうのです。
森茉莉女史は、自分がおいしいものを食べるのが好きで、他人のためには作らないとエッセイに書いていたけれど、そういう人が作るごはんはきっとおいしいのだろうなぁ。
けれど私は森茉莉ではないので、あたためた昨日の玄米ごはんに、玄米たまごやらキムチやらキャベツの浅漬けやらをのっけて、適当に食べてごはんを終わらせてしまうのです。
そして、明日はちゃんとごはんを作らないとなぁと思いつつ、考え事をしながら食べ終わってしまって、ごはんのことを忘れてしまうのが私のひとりのごはんの日常です。
オー・ヘンリー傑作選 ― 2010年01月06日
オー・ヘンリー傑作選,大津栄一郎訳,2008.2.25.第50刷(1979.11.10.初版),赤330-1
こうして読み返してみると、ベダだけれどやっぱり、「最後の一葉」「賢者の贈り物」「改心」といった短編のもたらす感情は強い。その他には「千ドル」も好きだ。少しほろ苦いけれど、幸福がある。
オー・ヘンリーの短編は、偉ぶった解釈や解説を全く必要としないほどに、わかりやすい。名作と讃えられながら、それ以上に持ち上げられることがないのは、そのわかりやすさゆえではないかと思う。人は、特に文学者や批評家といった生き物は、わかりにくいものを分解していくのが好きなのだ。オー・ヘンリーの短編には、小難しさはどこにもない。そこが美しい。
プロットの巧みさは言うまでもないけれど、言葉の使い方の見事さも改めて感じ入ってしまう。「最後の一葉」の老画家の口癖である「傑作」、「賢者の贈り物」の主人公夫婦を東方の賢者と称賛する比喩、「改心」の「君がつけているそのばらをぼくにくれないか」という象徴的な(しかも象徴性に寄り掛かっていない)一言。どの言葉も、読めばその意味をすぐに感じとることができ、そしてなお深い。
こうして読み返してみると、ベダだけれどやっぱり、「最後の一葉」「賢者の贈り物」「改心」といった短編のもたらす感情は強い。その他には「千ドル」も好きだ。少しほろ苦いけれど、幸福がある。
オー・ヘンリーの短編は、偉ぶった解釈や解説を全く必要としないほどに、わかりやすい。名作と讃えられながら、それ以上に持ち上げられることがないのは、そのわかりやすさゆえではないかと思う。人は、特に文学者や批評家といった生き物は、わかりにくいものを分解していくのが好きなのだ。オー・ヘンリーの短編には、小難しさはどこにもない。そこが美しい。
プロットの巧みさは言うまでもないけれど、言葉の使い方の見事さも改めて感じ入ってしまう。「最後の一葉」の老画家の口癖である「傑作」、「賢者の贈り物」の主人公夫婦を東方の賢者と称賛する比喩、「改心」の「君がつけているそのばらをぼくにくれないか」という象徴的な(しかも象徴性に寄り掛かっていない)一言。どの言葉も、読めばその意味をすぐに感じとることができ、そしてなお深い。
ココア ― 2010年01月07日
今日は自由が丘へ出かけないといけなかったのに、すっかり寝坊して、どたばたと起きて走り回っていました。なかなかすっきり早起きして朝食を作るところにたどりつけません。
普段は何も口にしないでそのまま走り出てしまうのですけれど、今日は寝坊したにしても少しだけ余裕があったので、急いでインスタントのココアを作って飲みました。大豆粉末とごまと黒糖の入ったインスタントココアです。
http://kayoudayo.jp/syohin/579/579_b.html
ココアだけでも飲むとやはり違うもので、寒い中歩いていく頭の中が、いつもならぼんやりとしているのですが、今日は視界の焦点がぴんと合っている感じでした。普段は視界も曖昧のまま歩いているのかと思うと、それはそれでかなり問題のような気もするのですが……。
こういう一杯から始めて、徐々にきちんとした朝ご飯を作るようにすればいいのだろうなぁと、頭ではわかっているのですが、継続していくことが一番難しいことだと思います。あ、甘酒のペーストもつくらなくちゃ(脈絡のないことを思い出す)。
普段は何も口にしないでそのまま走り出てしまうのですけれど、今日は寝坊したにしても少しだけ余裕があったので、急いでインスタントのココアを作って飲みました。大豆粉末とごまと黒糖の入ったインスタントココアです。
http://kayoudayo.jp/syohin/579/579_b.html
ココアだけでも飲むとやはり違うもので、寒い中歩いていく頭の中が、いつもならぼんやりとしているのですが、今日は視界の焦点がぴんと合っている感じでした。普段は視界も曖昧のまま歩いているのかと思うと、それはそれでかなり問題のような気もするのですが……。
こういう一杯から始めて、徐々にきちんとした朝ご飯を作るようにすればいいのだろうなぁと、頭ではわかっているのですが、継続していくことが一番難しいことだと思います。あ、甘酒のペーストもつくらなくちゃ(脈絡のないことを思い出す)。
焼き大根 ― 2010年01月08日
食材として好きなのに、なかなかうまく使えない存在ってあるものです。冷蔵庫で何故か余りがちになってしまう野菜。
たとえば大根。
私は大根が好きですが、意識しないと大根を使った料理を作ろうとしません。たぶん、調理に時間をかけた方がおいしいという思い込み(ある意味ではそれは正しいのですが)があって、夕飯を作る段になると「もう下ごしらえしてる時間ないし」という気分になるせいだと思います。
ふろふき大根とか好きなのですが、最近作っていません。作ればいいのに。
で、今日も軽鴨の君からカエルコールが来てから、さて何作ろうということになったのですが、カノウユミコさんの「大根料理」という料理本に載っていた「焼き大根」がおいしそうで、しかも意外と時間がかからないので、作りたくなったのです。
http://www.amazon.co.jp/dp/4839925208/
トータルで20分くらいで作れるレシピ。ざっくり言うと、蒸し煮した半月切りの大根をグリルやトースターで焼いて焦げ目をつけて、好きな味付けでいただくというもの。
これがとてもおいしくて、軽鴨の君にも大層喜ばれて、また食べたいというリクエストを賜りました。
煮込んだ大根よりもさわやかな感じで、けれどこっくりとした野菜の甘味があります。これは確かに独特のおいしさです。飽きずにぱくぱくと食べてしまえそう。
作る時間もそんなにかからないので、また夕飯に作るといたしましょう。幸い、大根はらでぃっしゅぼーやからたくさん届きます。冬の味覚ですしね。
たとえば大根。
私は大根が好きですが、意識しないと大根を使った料理を作ろうとしません。たぶん、調理に時間をかけた方がおいしいという思い込み(ある意味ではそれは正しいのですが)があって、夕飯を作る段になると「もう下ごしらえしてる時間ないし」という気分になるせいだと思います。
ふろふき大根とか好きなのですが、最近作っていません。作ればいいのに。
で、今日も軽鴨の君からカエルコールが来てから、さて何作ろうということになったのですが、カノウユミコさんの「大根料理」という料理本に載っていた「焼き大根」がおいしそうで、しかも意外と時間がかからないので、作りたくなったのです。
http://www.amazon.co.jp/dp/4839925208/
トータルで20分くらいで作れるレシピ。ざっくり言うと、蒸し煮した半月切りの大根をグリルやトースターで焼いて焦げ目をつけて、好きな味付けでいただくというもの。
これがとてもおいしくて、軽鴨の君にも大層喜ばれて、また食べたいというリクエストを賜りました。
煮込んだ大根よりもさわやかな感じで、けれどこっくりとした野菜の甘味があります。これは確かに独特のおいしさです。飽きずにぱくぱくと食べてしまえそう。
作る時間もそんなにかからないので、また夕飯に作るといたしましょう。幸い、大根はらでぃっしゅぼーやからたくさん届きます。冬の味覚ですしね。
結実 ― 2010年01月09日
今日は色々な用事で一日外出でした。
地下鉄に乗ろうと階段を下りていると、壁に何かの映画の宣伝パネルがかかっていて、大きな文字で「かなわぬ恋云々」と書いてありました。
叶わぬ恋。つまり悲恋、そしてそれゆえに純粋で美しいということなのでしょう。
ふと素朴に疑問に思ったのだけど、「叶わぬ恋」ってどういうものなのでしょう。それもできれば、人々が美しく純粋であるとイメージするようなものって。
それはつまり裏返せば、何をもって「恋が叶う、成就する」と言えるのかということでもあります。
自分が誰かに恋をして、相手も自分に恋をしてくれて、それでお互いにその気持ちを確認できて、なおかつ周囲にオープンにすることができる。結婚する。
という状態が、普通イメージされる「恋の成就」になると思うのですが、となると叶わぬ恋とはそのどれかが欠けるということになります。
自分が誰かに恋をしたけど、相手は自分に恋をしてくれない。これはまぁ、完全な片恋で、そこでうっかり「相手は自分も好きなはず」という思い込みを強要するとストーカーになってしまったりします。
でも、自分の想いに全くプラスの応答がないことを完全に受け入れた上で、相手の幸せのために尽くし続けるということができたなら、それはそれで美しい純愛かも知れません。「容疑者Xの献身」みたいな? でも相手がそれを知ってて受け入れていたら、全体としてはかなり美しくない光景になりそうだな。
お互いに恋をしているのだけど、その気持ちが確認できない。というパターンになると、よくある意地っ張り同士の恋愛ラブコメとか全力ですれ違いまくる韓国ドラマという感じで、叶わぬ恋というイメージじゃないですね。単に過程という感じ。あくまで叶うことを前提にしたドタバタ劇。
お互いに恋をしているなら、基本的にそれは通じるはずであるというイメージがみんなにあるせいかも知れません。あまり悲恋ではないですね。ただ途中でどちらかが死んでしまったりしたら、「もう通じることはない」訳で、いきなり壮絶な話になりそうですが。
で。結局考えると「叶わぬ恋」というイメージの大半は、最後の条件「周囲にそれをオープンにできる」というやつをクリアしないこと、だと思うのです。
身分とか社会的条件が釣り合わないとか、どっちか(または双方)にすでに「オープンになっちゃってる相手がいる」ので気持ちがどうであれオープンできっこないとか。
つまり恋の成就の一番の難関は、気持ちを通じさせることよりも社会に公認されること、ということになるのでしょうか。
逆に言えば、社会に公認されたら「恋は叶う」のであり、成就する、つまり「終わる」。
そう考えると、「恋が叶う」というのはずいぶんと固定的な現象であるような気もします。
恋は叶うか潰えるかして終わる、期間限定物です。「叶わぬ恋」が悲痛なのは、期間限定であるはずの恋が、その終わりをひたすらに引き伸ばされているからなのでしょうか。
叶わず、潰えもしない、そしてその状態がどこまで続くのか見えない。一種のゾンビとか幽霊です。
けれど、恋の成就は固定的な条件をクリアしないといけないけれど、愛の成就というのはそれに比べて無限に近いバリエーションがあります。
そうだとすると、愛はゾンビにはならない訳で、そもそも死なないような気がするのですが、どうなんでしょうね。
まぁ、全部定義次第だと言われてしまえば、それまでの話なのですけれど。
地下鉄に乗ろうと階段を下りていると、壁に何かの映画の宣伝パネルがかかっていて、大きな文字で「かなわぬ恋云々」と書いてありました。
叶わぬ恋。つまり悲恋、そしてそれゆえに純粋で美しいということなのでしょう。
ふと素朴に疑問に思ったのだけど、「叶わぬ恋」ってどういうものなのでしょう。それもできれば、人々が美しく純粋であるとイメージするようなものって。
それはつまり裏返せば、何をもって「恋が叶う、成就する」と言えるのかということでもあります。
自分が誰かに恋をして、相手も自分に恋をしてくれて、それでお互いにその気持ちを確認できて、なおかつ周囲にオープンにすることができる。結婚する。
という状態が、普通イメージされる「恋の成就」になると思うのですが、となると叶わぬ恋とはそのどれかが欠けるということになります。
自分が誰かに恋をしたけど、相手は自分に恋をしてくれない。これはまぁ、完全な片恋で、そこでうっかり「相手は自分も好きなはず」という思い込みを強要するとストーカーになってしまったりします。
でも、自分の想いに全くプラスの応答がないことを完全に受け入れた上で、相手の幸せのために尽くし続けるということができたなら、それはそれで美しい純愛かも知れません。「容疑者Xの献身」みたいな? でも相手がそれを知ってて受け入れていたら、全体としてはかなり美しくない光景になりそうだな。
お互いに恋をしているのだけど、その気持ちが確認できない。というパターンになると、よくある意地っ張り同士の恋愛ラブコメとか全力ですれ違いまくる韓国ドラマという感じで、叶わぬ恋というイメージじゃないですね。単に過程という感じ。あくまで叶うことを前提にしたドタバタ劇。
お互いに恋をしているなら、基本的にそれは通じるはずであるというイメージがみんなにあるせいかも知れません。あまり悲恋ではないですね。ただ途中でどちらかが死んでしまったりしたら、「もう通じることはない」訳で、いきなり壮絶な話になりそうですが。
で。結局考えると「叶わぬ恋」というイメージの大半は、最後の条件「周囲にそれをオープンにできる」というやつをクリアしないこと、だと思うのです。
身分とか社会的条件が釣り合わないとか、どっちか(または双方)にすでに「オープンになっちゃってる相手がいる」ので気持ちがどうであれオープンできっこないとか。
つまり恋の成就の一番の難関は、気持ちを通じさせることよりも社会に公認されること、ということになるのでしょうか。
逆に言えば、社会に公認されたら「恋は叶う」のであり、成就する、つまり「終わる」。
そう考えると、「恋が叶う」というのはずいぶんと固定的な現象であるような気もします。
恋は叶うか潰えるかして終わる、期間限定物です。「叶わぬ恋」が悲痛なのは、期間限定であるはずの恋が、その終わりをひたすらに引き伸ばされているからなのでしょうか。
叶わず、潰えもしない、そしてその状態がどこまで続くのか見えない。一種のゾンビとか幽霊です。
けれど、恋の成就は固定的な条件をクリアしないといけないけれど、愛の成就というのはそれに比べて無限に近いバリエーションがあります。
そうだとすると、愛はゾンビにはならない訳で、そもそも死なないような気がするのですが、どうなんでしょうね。
まぁ、全部定義次第だと言われてしまえば、それまでの話なのですけれど。
悪夢、良夢 ― 2010年01月10日
私は妙にストーリーの細かい夢を見ることがあるのですが、そういう時、自分がその中にいるというより、夢の中のある人物の視点を借りる形で体験したり、夢の中で書物や演劇や映画のようなフィクションを鑑賞する「劇中劇」のような形で体験したりすることが多いです。
夢は自分の心の中の色々なあれこれを処理するものなので、その処理の過程で自分が直接的に関与するなまなましさに耐えられないための処置みたいで。
人によって、「悪夢」の定義は様々だと思いますが、私の場合は痛い目に遭うとか、怖いものが出てくるとかいうのが悪夢なのではなく、「悪い結果になるのが見えているのにそれを避けることができないのがわかる」という状態が最も辛い悪夢です。
自分の「望む状況」があって、そこに沿っていくようにしているのに、そこに物語をどうしても向かわせることができず、破綻していって目が覚めて時間切れ、になってしまうのが私の悪夢なので、怖さを説明するのが難しいことが多いです。
日常生活でストレスが溜まっていたり、考えていることがにっちもさっちもいかなくなったりして、ため息をつきながら丸くなって眠る時、たまに夢の中に決まった人々が現れます。いわば夢の準レギュラーというか。
その中でも、デウス・エクス・マキナといいますか、割と何でも力任せに解決してしまえる人がいて、その人が出ると基本的に夢見はよくなります。何しろあらゆる破綻を全て引き受けても、ものともせずに解決してしまうのです。
なので、疲れて眠る時には、よくその人が来てくれるといいなぁと、他力本願に思ったりもします。
夢は自分の心の中の色々なあれこれを処理するものなので、その処理の過程で自分が直接的に関与するなまなましさに耐えられないための処置みたいで。
人によって、「悪夢」の定義は様々だと思いますが、私の場合は痛い目に遭うとか、怖いものが出てくるとかいうのが悪夢なのではなく、「悪い結果になるのが見えているのにそれを避けることができないのがわかる」という状態が最も辛い悪夢です。
自分の「望む状況」があって、そこに沿っていくようにしているのに、そこに物語をどうしても向かわせることができず、破綻していって目が覚めて時間切れ、になってしまうのが私の悪夢なので、怖さを説明するのが難しいことが多いです。
日常生活でストレスが溜まっていたり、考えていることがにっちもさっちもいかなくなったりして、ため息をつきながら丸くなって眠る時、たまに夢の中に決まった人々が現れます。いわば夢の準レギュラーというか。
その中でも、デウス・エクス・マキナといいますか、割と何でも力任せに解決してしまえる人がいて、その人が出ると基本的に夢見はよくなります。何しろあらゆる破綻を全て引き受けても、ものともせずに解決してしまうのです。
なので、疲れて眠る時には、よくその人が来てくれるといいなぁと、他力本願に思ったりもします。
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