便利箱2009年10月05日

 萌えって、要するに「もののあはれ」とおんなじようなものなのかなぁ、と時々思うのです。何だか色々な人に色々と怒られそうな考えですけれど。

 そんなことを思ったのは、何かというと萌えが連呼されるネットの文章を見ていると、萌えというのは実に便利な、「何かこんな感じの気持ちのひとかたまり」を適当に放り込んで差し出して、受け取る方も適当に受容できる部分だけつまみ食いして、何となく共感したような感じになれる、そういう箱だなぁと思ったからです。
 そう言うと、いかにも、近頃の若者の貧しい言葉だの、そういった話になってしまいそうですけれど、思うに「もののあはれ」とか「あはれ」とかいう単語だって、そんな程度のものだったんじゃなかろうかと。

 最初からそうだったってことはないでしょうけれど、「あはれ」のような、言いがたいしみじみと胸に迫ってくる感覚、なんて定義は、表現を省いて適当に感情を突っ込んでやりとりするのに実に便利な代物で。
 あの源氏物語だって、いとあはれなり、が何回使われているのか知りませんが、紫式部とていつも100%で執筆ができたはずもなく、精査していくと結構な頻度で、そういう「めんどくさいからとりあえずあはれ」で済ましちゃった部分が出てくるような気がします。
 「あはれ」って、何かを表現しているようで実は何にも表現していない、という側面があると思いませんか。どうでしょ。

 私の中では、萌えと「あはれ」は(たぶんあまりよくない部分で)結構共通していて、だからたぶん、萌え系世界観も源氏物語も、あんまり惹かれるところがないのでしょう。
 じゃあ何で美形てんこもりのFFシリーズが好きなんですかと訊かれそうですが、まぁその話はまた別の時にでも。

法律的責任、存在的責任2009年10月08日

 今日は台風18号の影響で、お出かけの予定をキャンセルし、外の凄まじい風の音にちょっと怯えながら過ごしました。育てているルッコラの鉢を取り込んでおくのを忘れなくてよかった。


 ところで、Winnyの開発者が著作権法違反の幇助罪に問われていた裁判は、大阪高等裁判所が無罪判決を出しました。ネット上の言説では、おおむねこの無罪判決に好意的のようです。
 私はこの裁判およびWinnyについて、表層的なことすらよく知っているとは言いがたい人間なので、当然とも不当とも言えないなぁというのが、正直な感想なのですが。

 こういった責任を認めると、交通事故における乗用車メーカーや、戦争における兵器開発技術者や、通り魔殺人事件におけるナイフ製造メーカーの責任まで追及することになるから、無罪が妥当、というのが、無罪判決を支持する人々の理由のようです。
 製造者ではなく、使用者が責任を負う。それが当然であろう、という考えであり、それはそれでまっとうで、まあ「普通」の考え方でもあります。


 こういった出来事が起こると、私はアインシュタインが原爆を生み出した自らの研究についての苦悩、そしてアインシュタイン以後の様々な物理学者たちの同じような苦悩を思い出します。
 そして恐らく、同じような苦悩とひそやかな恐怖に怯えている科学者・技術者が、世界にたくさんいるのであろう、と思います。

 自らの、善かれと思って生み出した、あるいは後のことなんか何も考えずに自分の好奇心と功名心と創造欲のみで突き進んで生み出した、様々な技術やアイテムが、予想もつかない(あるいは予想通りの、もしくは予想をあえて見ないふりをした)恐ろしい悪しき使用法に用いられる。
 そこまでいかなくても、その場では善いことのように見えたことが、後々様々な悪い影響をまきちらしていたことを知る。
 そういったできごとは、実は科学に限らず、人間の営みにつきまとっていて、それらひとつひとつに、おおもとの人間が無限に責任を負っていくことは事実上不可能でしょう。
 だから、「法律」という極めて実際的な道具を用いた判定法においては、責任を追及できない、あるいはしない場面が、数限りなくあります。
 Winnyにまつわることごとも、恐らくはそういう、法律で取り扱うなら責任を求めることが難しいものであるのだろう、と思うのです。


 しかし、それならアインシュタインがあんなに悩んだのは何故なのか。ミハイル・カラシニコフが「子供に銃を持たせてはいけない」と日本の雑誌編集者を叱ったのは何故なのか。あるいは、Winnyの開発者が、著作権違反幇助罪で起訴されるに至ったのは何故なのか。

 たぶん、法律では問えないけれど、もっと広い視野で見た時の、法律上のものよりさらに大きくて深い「責任」とでも言うようなものが確かにあるのでしょう。
 それは意図がどうあれ、何かを「作り出して世に送った」「発表した」瞬間にその人に降りかかるのです。
 それに誠実に向き合うか、見ないふりをするか、視界の端に捉えつつもごまかすか、その場しのぎで先送りするか、その対処は人それぞれで、またその対処の結果も忠実にその人に還っていくように思います。他の人から見て、そうはっきりとわかるかどうかは別として。

 法律で罪として宣告される責任と、自分の運命として担わざるをえない「責任」は、言葉の上では同じでも中身はかなり違います。
 その、いわば存在的な責任は、英語のresponsibilityに近いもので、自分自身に対して、あるいは自分を越えた「なにか」に問われ続け、血の絡まった声で応え続けなければならないものです。それはもはや、その影響の当事者に対してですらない、もっと大きくて苦しい応答でもあります。


 時々、世の中には法律的な宣告を、真実や絶対的なものとして受け止める人があまりに多いのではないかと思うことがあります。
 法律は社会を円滑に回していくための便利なツールであって、正義や運命や神意を答えるデルフォイの巫女ではありません。
 法律で無罪になったからすべてから解放されて安楽になると思うのも、法律で有罪になったから償いがなされると思うのも、どちらもあまりに無邪気で無神経です。
 Winnyの開発技術者の責任は、法律で問うものではありません。それはもっと大きな得体の知れない社会というものが、あるいは彼自身が、問うて答えていくものでしょう。
 それに答えていくのは、裁判に勝つことなど児戯に等しいと思えるほどに、困難で厳しい道のりだと思います。そのことに、彼自身が気づいているかどうかは、私にはわからないし、知る筋合いのことでもない訳ですけれど。

化粧水2009年10月26日

 秋が深まり、そして私も童顔ながら歳をとり。肌が乾燥しているせいか、アトピーのようにかぶれた部分が出てきたのもあって、化粧水と保湿オイルとクリームを作りました。
 私はもともとあまり肌が乾燥しない方で、こっくりした保湿をそんなに必要としないみたいです。オリーブオイルやホホバオイルを使っても不都合は何もないのですが、ちょっと重い気がしないでもなく。
 今回は顔にできたシミもちょっと気になるので、美白効果を謳われるローズヒップオイルを試してみることにしました。
 化粧水はネロリ精油、保湿オイルはローズヒップオイルとフランキンセンス精油、クリームはシアバターとローズヒップオイルと、抗炎症の強い味方のジャーマン・カモマイル精油で。
 ずいぶん贅沢な材料を奮発できるのは手作りの特権です。

 前述の通り、私はもともと肌が丈夫なので、よくある市販の化粧品にかぶれたから安心できる手作りを、というパターンではなく、単純に作るのが好きだから作っている人です。
 好き、といっても、作る過程に凝るのが好きなのではなく、生活の要素を自分で作るという一種のサバイバルをしている感覚だと思います。
 今はオーガニックにきちんと配慮したよい市販の化粧品メーカーも増えていますので、手作りにこだわりすぎる必要もないのですが、買わなくても自分で何とかできるという安心感が好きなようです。
 まぁ市販の化粧水とかで、なかなか気に入ったものがないのも事実なのですけどね。

レモンオイル、なつめ酒、クコ酒2009年10月27日

 普段全然アルコールはいただかず、外食した時に料理にあわせて少しいただく程度ですが、時々果実酒を造りたくなります。
「作りたい」という欲求だけで、飲む方はお留守なので、なるべく作らないようにしているのですが、冬に向けて漢方的に補気をした方がいいかなぁという気分になり、気を補う薬酒を漬けることにしました。
 と言ってもまぁ、買ってきたなつめとクコを、それぞれレモンと一緒に焼酎に漬けるだけなのですけれど。ちゃんとできたらおいしくいただくようにしないといけません。

 レモンは国産の無農薬レモンが買えました。薬酒に使うのは実の部分だけで、皮と白いワタの部分は使わないので、最初に皮だけごりごりとセラミックのおろし器ですり下ろして、小さな瓶にいれてオリーブオイルを注いでみました。自家製レモンオイルです。
 パスタにかけたりするとよいみたいですが、これも使い道はおいおい考えることにいたします。
 1個だけだったのでレモンピールを作るにはちょっと量がありませんでした。まぁすり下ろすのは結構大変だったので、2個以上だと途中で音を上げそうな気もします。
 国産の無農薬レモンは、皮が緑色なので、すり下ろしてもとても綺麗な緑色のキラキラになり、やはりうっすら緑色のオリーブオイルを注いだところも、何かのオブジェになりそうな綺麗なできあがりになります。これで味もいいといいのですが。

葉とうがらしの佃煮2009年10月28日

 軽鴨の君が愛飲している飲むヨーグルトがなくなってしまったので、ぽてぽてと午前中に出かけて買い物に。
 そうしたら、いつもの自然食品店さんの見切り品コーナーに、葉とうがらしが置かれていました。
 葉とうがらし、ねぇ。そういえば食べたことないなぁ。
 見切り品ということで、このまま誰にも買われないと彼らは廃棄されてしまう訳で、そんなことを考えたらつい、1袋かごに入れてしまったのでした。

 さて帰宅。どうやって食べましょうこれ。
 いろいろ検索して、お友達に聞いてみて、あれこれ調べてのですが、まぁスタンダードに佃煮がよかろうということで。あと、野菜に巻いて漬物にするというのもあったので、それも試してみることに。
 とりあえず、大根を1.5cm角くらいの棒切りにして、葉とうがらしの大きめの葉っぱでくるくると巻いて、保存容器に段々に並べて。上からみりんと醤油を注いで、とうがらしのまだ青い実を何本か刻んで入れて、冷蔵庫へ。どれぐらいで漬かるのかわかりませんが……。
 残りの葉とうがらしは、さっと湯がいて、刻んで、ごま油でざくざく炒めます。だしをとった後に冷凍していた昆布とかつお節を一部解凍して、投入。ざくざく。なかなかいい香り。だしの香りとごまの香りが広がります。
 あとは醤油とみりんを入れて、汁気がなくなるまで煮含めつつ、刻んだとうがらしの実もぽいぽいと。
 葉とうがらしは、湯がいて刻むとちょっと粘りが出ます。つるむらさきっぽい感じです。佃煮になってしまえば、粘りも何もないのですけれどね。

 今日の夕飯はお雑炊だったので、少しのっけて食べてみました。うむ、結構辛い。ちゃんと辛い。辛いので大量にばくばくは食べられませんが、佃煮なのでちょうどいい感じ。

 買った葉とうがらしには、結構な量の実がついていて、今回使い切れずにまだ冷蔵庫にあります。普通の鷹の爪代わりに使おうかな。お酢に漬けて、自家製タバスコっぽいものを作る手もありますが、どうしようかなぁ。ううむ。

自家製陳皮2009年10月29日

 みかんをいただきまして、皮が余りましたので、ちょっと思い立って陳皮を作ってみることにしました。
 と言ってもまぁ、皮を小さくちぎって、干し網で干すだけなのですけど。
 干すとかさがものすごく減ります。こんなので香り成分は全部飛んだりしないのだろうか、と思うのですが、ちゃんと残るようで。すごいものです。
 最低でも1週間、本格的なものでは数ヶ月は干すそうです。そこまで干してたらもう訳がわからなくなりそう、と思ってしまった鳥頭の私。
 とりあえず、1週間バージョンで作ってみる予定です。何に使おうかなぁ。作るのが楽しくて、使い道を考えないのが、よくある私の手作りものパターンです……。

再会2009年10月30日

 久しぶりの友達と、九品仏の「ツチオーネ」でランチとお茶などしてきました。
 ずいぶん久しぶりだったのですが、全然久しぶりという気がせず、のんきに近況報告やお互いの家族の話、彼女の趣味のクロスステッチの話、私が化粧水や石鹸を手作りした話、そして片づけってなかなか大変だよねぇと苦笑している話、などをしていました。
 時間が経つのはあっという間で、気がつくともう帰る時間。また会おうね〜と手を振って、それぞれの帰途につきました。

 別れる時間はそんなに遅くもなかったのに、空から降ってくる太陽の光は蜂蜜色になっていて、もう夕方のようでした。
 もう晩秋、冬がちゃくちゃくと近づいて来ているのだなぁと思います。