専門性2008年02月05日

 昔からついて回る私のささやかな(でも現実には深刻なのかも知れない)悩みと言えば、自分にあまりにも専門性というか、極めるものがない、ということだろう。
 私ができるものは、全てそこそこ、それなり、普通の何も知らない人よりは少し上、という程度で、広く浅くを地でいく人間だ。分野を極めるーーとまでは言わなくても、それなりにアイデンティティの一部であると思えるほどの努力と気持ちを注ぐ対象が、まずない。何かが足りない。それこそ中島敦の「山月記」の李徴のような落とし穴に、はまっているのだという気がする。
 言い訳をするならば、私はこの世に存在する大半の学問が好きだし、学ぶこと自体が大好きだし、専門性のタコツボとは無縁に生きて来ることができた。私と話をする人は、私が色々なことを知っているように見えることに驚いたりする。色々な人と、ごく表層的な部分で、私は会話をすることができる。けれど、致命的に深さがなく、それは私の創造性の不全を表しているような気がしてならない。
 たぶん友人知人が私に抱いている同一性は、「放っておくと長々と文章を書いている人」だろうけれど、書くという行為は泉の底をさらう行為に似ていて、それだけではやがて泉は枯れ果ててしまう。それを満たすために何かをしなくてはならないと思いつつも、そこに深く切りこんでいくエネルギーのなさに、絶望して嘆息するのが私の毎日である。

 ある分野に関わる中で、自分ひとりが楽しむだけでなく、もっと普遍的な、他の人も楽しませる(あるいは役立つ)何かを継続的に生み出すことができるのが、専門性だと思う。
 アロマテラピーも占いも石けんを作ることも料理も家事も語学も読書も環境保護もフェアトレードもパソコンもゲームもありとあらゆるやっていて楽しいこと全てにおいて、私は自分自身を楽しませることも納得させることも結構上手にやってのけるけれど、他の人と共有できる普遍性を目指すというところに来るととたんにうまくできなくなる。自分で必死に考えて他のひとを喜ばそうとしたことさえも、あまり成功した覚えがない。みんな、私の「気持ち」を喜んでくれたけれど、「成果」を喜んだ人はいないのではないか、と思う。その壁をどうしたら越えられるのか、その糸口も、今のところ私には見えていない。
 私は有用性という点では惨めなほどに落第していて、ただ何かしらの不思議な魅力のようなもの(それは私が自分で努力して得たものではないという意味で全くアイデンティティとは関係のないものである)だけで、生存を許されているような気がする。

 とはいえ、何も努力しないと言う訳には、生きている以上不可能だから、私は不毛さと闘いつつも、何かはし続けるのだろう。書くという呼吸を続けることとは、また別に。

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