眼鏡使用後 ― 2008年02月01日
去年の12月に眼鏡を注文しまして、今日でちょうど2ヶ月ですね。使い始めてからは1ヶ月ちょっとでしょうか。もうすっかりなじみました。耳にものが当たるのだけがまだちょっとだけ気になります、けれど。
以前はFF11のログもちゃんと読めていたような気がしていたのですが、眼鏡を使うようになってから、ずいぶんあれもぼやけてたのを心眼で読んでたのだなぁと、今にして思います。今はとてもくっきりと読めるので、大層楽になりました。
ただ考えてみると、今はそれこそFF11のログをきっちり読みたいからこの眼鏡が大層役に立っていますが、それ以前はテレビもあまり見ていないし(今もそんなには見ていない)本やパソコンの画面を見るには今の視力でも十分なので、何だか本当にFF11のために眼鏡を買ったみたいな感じになっております。
毎日ヴァナにログインすると眼鏡をかけ、ログアウトすると眼鏡を外す……何をやっているんでしょう、まったく(笑)。
以前はFF11のログもちゃんと読めていたような気がしていたのですが、眼鏡を使うようになってから、ずいぶんあれもぼやけてたのを心眼で読んでたのだなぁと、今にして思います。今はとてもくっきりと読めるので、大層楽になりました。
ただ考えてみると、今はそれこそFF11のログをきっちり読みたいからこの眼鏡が大層役に立っていますが、それ以前はテレビもあまり見ていないし(今もそんなには見ていない)本やパソコンの画面を見るには今の視力でも十分なので、何だか本当にFF11のために眼鏡を買ったみたいな感じになっております。
毎日ヴァナにログインすると眼鏡をかけ、ログアウトすると眼鏡を外す……何をやっているんでしょう、まったく(笑)。
要求方向 ― 2008年02月02日
mixiで、フェアトレードのコミュニティに入っているんですけれど、
(フェアトレードが何かってのは、ここで説明すると長くなりすぎるので、まあネット検索でもしてくださいまし)
今日「買ったものが品質が悪かった」的な書き込みがあった訳です。で、そこから発展して何か色々と問題提起っぽいことを書いてたんですけど……
どこかのいい加減なフェアトレードかぶれの誰かのいい加減発言を鵜呑みにしているのか、あるいはイメージや思い込みだけでフェアトレード活動を知った気になっちゃってるのか、それとも活動報告を読まないか読めないのか、とにかくまぁ、困った発言だった訳です。
「フェアトレード活動が先進国企業=悪という構図を決めつけてる」とか、どこの短絡説明を鵜呑みにしたんだかもう、とうんざりしてきました。一生懸命反論や説明の書き込みをしたつもりでしたが、果たして意味があったのかなぁ。
ま。そんな愚痴が本題ではありません。
買ったものが品質が低かった。という怒りはまぁ、それなりに理解もできますし、それに対して何らかのアクションを行うこともいいでしょう。
でも、そのアクションが「ネット掲示板(匿名記名問わず)に書き込みをする」っていうのは、どれくらい効果があるんでしょうか。そのアクションを起こすべき直接の対象は、製品の販売店なりメーカーなりであって、ネット掲示板を読むであろう不特定多数の誰かではないのですから。
めぐりめぐって口コミやら人づてやらでこの「評判」がメーカーに届く頃には、問題を「提起」した(つもりになってた)本人がすっかり忘れてるなんてことがありそうです。
そう考えると、不満があるなら、それを「直接」相手に伝えるというのは非常に大切なことなのだなぁと思います。遠回しに遠回しに、自分の気持ちを誰かが理解してくれるのを待ったあげくに、結局理解してもらえなくて暴発する……というのは、私もたまにやりますが、考えればこれほど理不尽な話もありません。
けれど、不満を相手に建設的に伝えるというのは、結構しんどい作業で、それをするよりは、ネット掲示板に不満を書いてストレス発散して事足れりと片付けてしまうのが、ずっと簡単で手軽なのだと思います。
(フェアトレードが何かってのは、ここで説明すると長くなりすぎるので、まあネット検索でもしてくださいまし)
今日「買ったものが品質が悪かった」的な書き込みがあった訳です。で、そこから発展して何か色々と問題提起っぽいことを書いてたんですけど……
どこかのいい加減なフェアトレードかぶれの誰かのいい加減発言を鵜呑みにしているのか、あるいはイメージや思い込みだけでフェアトレード活動を知った気になっちゃってるのか、それとも活動報告を読まないか読めないのか、とにかくまぁ、困った発言だった訳です。
「フェアトレード活動が先進国企業=悪という構図を決めつけてる」とか、どこの短絡説明を鵜呑みにしたんだかもう、とうんざりしてきました。一生懸命反論や説明の書き込みをしたつもりでしたが、果たして意味があったのかなぁ。
ま。そんな愚痴が本題ではありません。
買ったものが品質が低かった。という怒りはまぁ、それなりに理解もできますし、それに対して何らかのアクションを行うこともいいでしょう。
でも、そのアクションが「ネット掲示板(匿名記名問わず)に書き込みをする」っていうのは、どれくらい効果があるんでしょうか。そのアクションを起こすべき直接の対象は、製品の販売店なりメーカーなりであって、ネット掲示板を読むであろう不特定多数の誰かではないのですから。
めぐりめぐって口コミやら人づてやらでこの「評判」がメーカーに届く頃には、問題を「提起」した(つもりになってた)本人がすっかり忘れてるなんてことがありそうです。
そう考えると、不満があるなら、それを「直接」相手に伝えるというのは非常に大切なことなのだなぁと思います。遠回しに遠回しに、自分の気持ちを誰かが理解してくれるのを待ったあげくに、結局理解してもらえなくて暴発する……というのは、私もたまにやりますが、考えればこれほど理不尽な話もありません。
けれど、不満を相手に建設的に伝えるというのは、結構しんどい作業で、それをするよりは、ネット掲示板に不満を書いてストレス発散して事足れりと片付けてしまうのが、ずっと簡単で手軽なのだと思います。
長時間睡眠 ― 2008年02月03日
また雪が降りましたね。しかも少し積もりそうです。明日の交通はどうなるのかしら。私は家から一歩も出ない生活だからいいけれど……。
昨日訳の分からない議論(苦笑)に巻き込まれたこともあって、夜半過ぎから何となく調子が悪くなりました。無理に起きようとすると具合が悪くなりそうな気がして、今朝は「5分前に起床」ルールを一時停止してひたすら寝ていました。ひたすら寝たというだけあって、はっと気づくと昼でした。あわててお昼ご飯を食べて、色々とどたばたと今日の用事を済ませていました。
それだけ寝たにも関わらず、夜になるとまたひどく眠くなって、今も油断すると目を閉じただけでMacに突っ伏して寝てしまいそうになります。
さて明日はちゃんと、時間通りに起きることができるでしょうか……。とりあえず、雪が積もってもいいから、あまり寒くならないことを祈るのみです。
昨日訳の分からない議論(苦笑)に巻き込まれたこともあって、夜半過ぎから何となく調子が悪くなりました。無理に起きようとすると具合が悪くなりそうな気がして、今朝は「5分前に起床」ルールを一時停止してひたすら寝ていました。ひたすら寝たというだけあって、はっと気づくと昼でした。あわててお昼ご飯を食べて、色々とどたばたと今日の用事を済ませていました。
それだけ寝たにも関わらず、夜になるとまたひどく眠くなって、今も油断すると目を閉じただけでMacに突っ伏して寝てしまいそうになります。
さて明日はちゃんと、時間通りに起きることができるでしょうか……。とりあえず、雪が積もってもいいから、あまり寒くならないことを祈るのみです。
静止画像的表現 ― 2008年02月04日
清水玲子の「秘密」というシリーズのコミックで、主人公が亡くなった父親が自分をどう思っていたかについて悩むくだりがあった。
この物語の詳細ははしょるけど、要するに主人公の職業が、犯罪捜査を行う過程で人の心の秘密を暴く特殊なもので、それに対する重要性は認知されているものの、社会の嫌悪感や偏見も根強いという設定なのである。
彼は生前の父親とは、成人男性らしく普通に疎遠で、あまり自分の職業についてどう考えているかを知る機会がなかった。そして周囲から、「お父さんはあなたの仕事を誇りに思っていた」「あまり快く思っていなかった」という相反する父親の生前の発言を聞く。
彼は父親が残したという日記を母から託されるのだが、そこに書いてある自分への評価を見ることに耐えられず、1冊を残して全て消却してしまい、残った1冊も読むことはできず「いつか将来読むことができる日が来るだろうか」と思う、というエピソードだ。
この苦悩は、恐らく、父親が主人公を「本当は」どう思っていたのか、ということが見極められない(あるいは見極める勇気を持てない)ところに由来する。
誇りに思うというのが外向きの発言で、本当はあまり快く思っていなかったのか。それともあれはよくないという発言こそが外向きの謙譲や言い訳で、本当は誇りに思い息子を応援していたのか。
もちろん前者であれば、それもまた悲しいことではあるけれど、少なくともひとつの割り切りーーというか覚悟はできるだろう。
*
けれど、この苦悩には根本的に抜け落ちている思考があって、それは「人が近しい人に抱く心は、矛盾したものが常に同時に共存し、全てが本当でありうる」ということだ。
人は自分がよく知らない問題ほど単純で断定的なことを言いたがるというけれど、同じように、自分がよく知らない遠い人ほど単純に断定的に評価することができる。
たとえば「憧れ」という感情は、まさにこの単純性に由来した純粋さを秘めたものであって、幻滅しやすいのは、もともと土台が対象に対する無知によって成立しているからという側面を持つ。
逆に、恋人や家族や伴侶に対して抱く感情は、好き/嫌い/愛しい/憎い/快い/鬱陶しい/かけがえがない/殺してしまいたい……ありとあらゆる心がごった煮になったような状態で、ある感情がクローズアップされるかと思うと別の感情が姿を現し、愛と憎悪が全く同じように(あるいは表裏一体に)存在するといった具合に、変転流転を繰り返し留まることがない。
家族や夫婦というものが、傍から見て想像するなりゆきと全く違う顛末をたどり不可思議な関係性を構築することがあるのも、恐らく互いに抱く気持ちがあまりに複雑すぎて、表現される感情とはほとんど別物になることがあるからだろう。
*
言葉というのは結構staticな、一枚絵のように止まったものである。もちろん静止した一枚の絵画が思いがけない躍動感を持つように、ニュアンスや表現の工夫で「動きを疑似表現する」ことは不可能ではないけれど、根本的に動画ではない。
逆に心は、常に動き移り変わり、しかも同時に白であり黒であるというような矛盾した状態を平気で見せたりする。
ダイナミックな心という代物を、静止画のような言葉という道具で表現するというのは、いわば留め絵を無数に並べてパラパラマンガを作っていくような試みに近い。別々のパーツの絵を引き抜いて並べたら、そこには似ても似つかない全く違う存在が描いてあるように見えるかも知れない。しかもそのどちらも真実であり、同時に正確な描写ではないという意味では真実ではない。父親は息子の仕事を嫌悪していた、誇りに思っていたというのはどちらも同じ重さで、しかも同時に在った感情、あるいは時系列で変化していった感情かも知れない。
そういう意味では、言葉というものを、文脈の中からひとかけらだけ切り出すことは、常に誤解と隣り合わせである。
*
「顔が見えないネットのやりとりは難しい」というけれど、それは恐らく言葉の宿命的な誤解の可能性を減らしてくれる文脈という存在が圧倒的に不足しているうえに、しかも文脈から切り離された言葉が、話し言葉の寿命とは比べ物にならないほど長く残るにも関わらず、内容の大半は「話し言葉」のレベルであることによる。
つまりツールの性質と、やりとりされる内容が、想像以上に乖離していて、パラパラマンガ以上の無理を重ねて成立しているからだろう。
人間の心や表現能力というのは偉大なもので、そういう無理無茶な環境の中でも、ちゃんと適応して養分を得て美しい花を咲かせていくものだ。
だから、「ネットのやりとりは本当のコミュニケーションじゃない」などといった否定論は無意味なものだけれど、表現の道具を使う時には、その道具の特性と限界を把握しておく必要はある。
ひとは自分の使っている道具にはあまりにも無頓着で、自分の一部のようにさえ思っている。そして自分を客観視するのは難しいのと同じく、自分が使っている道具を客観視するのもまた難しい。
ネットのやりとりに発生する誤解を減らして行くために、これから時間をかけて、使用する人が習熟し社会の中で合意が作られていくだろう。
そしてその過程は、渦中にいる私達には見ることも感じることさえもできないかも知れないけれど。
ただできることは、「言葉では表現できない」というありきたりなことを忘れないこと。日々のやりとりを積み重ねながら、言葉を大切にしつつもそれに振り回されないようにするという、平凡で陳腐ですらある繰り返しでしかないのだと思う。
この物語の詳細ははしょるけど、要するに主人公の職業が、犯罪捜査を行う過程で人の心の秘密を暴く特殊なもので、それに対する重要性は認知されているものの、社会の嫌悪感や偏見も根強いという設定なのである。
彼は生前の父親とは、成人男性らしく普通に疎遠で、あまり自分の職業についてどう考えているかを知る機会がなかった。そして周囲から、「お父さんはあなたの仕事を誇りに思っていた」「あまり快く思っていなかった」という相反する父親の生前の発言を聞く。
彼は父親が残したという日記を母から託されるのだが、そこに書いてある自分への評価を見ることに耐えられず、1冊を残して全て消却してしまい、残った1冊も読むことはできず「いつか将来読むことができる日が来るだろうか」と思う、というエピソードだ。
この苦悩は、恐らく、父親が主人公を「本当は」どう思っていたのか、ということが見極められない(あるいは見極める勇気を持てない)ところに由来する。
誇りに思うというのが外向きの発言で、本当はあまり快く思っていなかったのか。それともあれはよくないという発言こそが外向きの謙譲や言い訳で、本当は誇りに思い息子を応援していたのか。
もちろん前者であれば、それもまた悲しいことではあるけれど、少なくともひとつの割り切りーーというか覚悟はできるだろう。
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けれど、この苦悩には根本的に抜け落ちている思考があって、それは「人が近しい人に抱く心は、矛盾したものが常に同時に共存し、全てが本当でありうる」ということだ。
人は自分がよく知らない問題ほど単純で断定的なことを言いたがるというけれど、同じように、自分がよく知らない遠い人ほど単純に断定的に評価することができる。
たとえば「憧れ」という感情は、まさにこの単純性に由来した純粋さを秘めたものであって、幻滅しやすいのは、もともと土台が対象に対する無知によって成立しているからという側面を持つ。
逆に、恋人や家族や伴侶に対して抱く感情は、好き/嫌い/愛しい/憎い/快い/鬱陶しい/かけがえがない/殺してしまいたい……ありとあらゆる心がごった煮になったような状態で、ある感情がクローズアップされるかと思うと別の感情が姿を現し、愛と憎悪が全く同じように(あるいは表裏一体に)存在するといった具合に、変転流転を繰り返し留まることがない。
家族や夫婦というものが、傍から見て想像するなりゆきと全く違う顛末をたどり不可思議な関係性を構築することがあるのも、恐らく互いに抱く気持ちがあまりに複雑すぎて、表現される感情とはほとんど別物になることがあるからだろう。
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言葉というのは結構staticな、一枚絵のように止まったものである。もちろん静止した一枚の絵画が思いがけない躍動感を持つように、ニュアンスや表現の工夫で「動きを疑似表現する」ことは不可能ではないけれど、根本的に動画ではない。
逆に心は、常に動き移り変わり、しかも同時に白であり黒であるというような矛盾した状態を平気で見せたりする。
ダイナミックな心という代物を、静止画のような言葉という道具で表現するというのは、いわば留め絵を無数に並べてパラパラマンガを作っていくような試みに近い。別々のパーツの絵を引き抜いて並べたら、そこには似ても似つかない全く違う存在が描いてあるように見えるかも知れない。しかもそのどちらも真実であり、同時に正確な描写ではないという意味では真実ではない。父親は息子の仕事を嫌悪していた、誇りに思っていたというのはどちらも同じ重さで、しかも同時に在った感情、あるいは時系列で変化していった感情かも知れない。
そういう意味では、言葉というものを、文脈の中からひとかけらだけ切り出すことは、常に誤解と隣り合わせである。
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「顔が見えないネットのやりとりは難しい」というけれど、それは恐らく言葉の宿命的な誤解の可能性を減らしてくれる文脈という存在が圧倒的に不足しているうえに、しかも文脈から切り離された言葉が、話し言葉の寿命とは比べ物にならないほど長く残るにも関わらず、内容の大半は「話し言葉」のレベルであることによる。
つまりツールの性質と、やりとりされる内容が、想像以上に乖離していて、パラパラマンガ以上の無理を重ねて成立しているからだろう。
人間の心や表現能力というのは偉大なもので、そういう無理無茶な環境の中でも、ちゃんと適応して養分を得て美しい花を咲かせていくものだ。
だから、「ネットのやりとりは本当のコミュニケーションじゃない」などといった否定論は無意味なものだけれど、表現の道具を使う時には、その道具の特性と限界を把握しておく必要はある。
ひとは自分の使っている道具にはあまりにも無頓着で、自分の一部のようにさえ思っている。そして自分を客観視するのは難しいのと同じく、自分が使っている道具を客観視するのもまた難しい。
ネットのやりとりに発生する誤解を減らして行くために、これから時間をかけて、使用する人が習熟し社会の中で合意が作られていくだろう。
そしてその過程は、渦中にいる私達には見ることも感じることさえもできないかも知れないけれど。
ただできることは、「言葉では表現できない」というありきたりなことを忘れないこと。日々のやりとりを積み重ねながら、言葉を大切にしつつもそれに振り回されないようにするという、平凡で陳腐ですらある繰り返しでしかないのだと思う。
専門性 ― 2008年02月05日
昔からついて回る私のささやかな(でも現実には深刻なのかも知れない)悩みと言えば、自分にあまりにも専門性というか、極めるものがない、ということだろう。
私ができるものは、全てそこそこ、それなり、普通の何も知らない人よりは少し上、という程度で、広く浅くを地でいく人間だ。分野を極めるーーとまでは言わなくても、それなりにアイデンティティの一部であると思えるほどの努力と気持ちを注ぐ対象が、まずない。何かが足りない。それこそ中島敦の「山月記」の李徴のような落とし穴に、はまっているのだという気がする。
言い訳をするならば、私はこの世に存在する大半の学問が好きだし、学ぶこと自体が大好きだし、専門性のタコツボとは無縁に生きて来ることができた。私と話をする人は、私が色々なことを知っているように見えることに驚いたりする。色々な人と、ごく表層的な部分で、私は会話をすることができる。けれど、致命的に深さがなく、それは私の創造性の不全を表しているような気がしてならない。
たぶん友人知人が私に抱いている同一性は、「放っておくと長々と文章を書いている人」だろうけれど、書くという行為は泉の底をさらう行為に似ていて、それだけではやがて泉は枯れ果ててしまう。それを満たすために何かをしなくてはならないと思いつつも、そこに深く切りこんでいくエネルギーのなさに、絶望して嘆息するのが私の毎日である。
ある分野に関わる中で、自分ひとりが楽しむだけでなく、もっと普遍的な、他の人も楽しませる(あるいは役立つ)何かを継続的に生み出すことができるのが、専門性だと思う。
アロマテラピーも占いも石けんを作ることも料理も家事も語学も読書も環境保護もフェアトレードもパソコンもゲームもありとあらゆるやっていて楽しいこと全てにおいて、私は自分自身を楽しませることも納得させることも結構上手にやってのけるけれど、他の人と共有できる普遍性を目指すというところに来るととたんにうまくできなくなる。自分で必死に考えて他のひとを喜ばそうとしたことさえも、あまり成功した覚えがない。みんな、私の「気持ち」を喜んでくれたけれど、「成果」を喜んだ人はいないのではないか、と思う。その壁をどうしたら越えられるのか、その糸口も、今のところ私には見えていない。
私は有用性という点では惨めなほどに落第していて、ただ何かしらの不思議な魅力のようなもの(それは私が自分で努力して得たものではないという意味で全くアイデンティティとは関係のないものである)だけで、生存を許されているような気がする。
とはいえ、何も努力しないと言う訳には、生きている以上不可能だから、私は不毛さと闘いつつも、何かはし続けるのだろう。書くという呼吸を続けることとは、また別に。
私ができるものは、全てそこそこ、それなり、普通の何も知らない人よりは少し上、という程度で、広く浅くを地でいく人間だ。分野を極めるーーとまでは言わなくても、それなりにアイデンティティの一部であると思えるほどの努力と気持ちを注ぐ対象が、まずない。何かが足りない。それこそ中島敦の「山月記」の李徴のような落とし穴に、はまっているのだという気がする。
言い訳をするならば、私はこの世に存在する大半の学問が好きだし、学ぶこと自体が大好きだし、専門性のタコツボとは無縁に生きて来ることができた。私と話をする人は、私が色々なことを知っているように見えることに驚いたりする。色々な人と、ごく表層的な部分で、私は会話をすることができる。けれど、致命的に深さがなく、それは私の創造性の不全を表しているような気がしてならない。
たぶん友人知人が私に抱いている同一性は、「放っておくと長々と文章を書いている人」だろうけれど、書くという行為は泉の底をさらう行為に似ていて、それだけではやがて泉は枯れ果ててしまう。それを満たすために何かをしなくてはならないと思いつつも、そこに深く切りこんでいくエネルギーのなさに、絶望して嘆息するのが私の毎日である。
ある分野に関わる中で、自分ひとりが楽しむだけでなく、もっと普遍的な、他の人も楽しませる(あるいは役立つ)何かを継続的に生み出すことができるのが、専門性だと思う。
アロマテラピーも占いも石けんを作ることも料理も家事も語学も読書も環境保護もフェアトレードもパソコンもゲームもありとあらゆるやっていて楽しいこと全てにおいて、私は自分自身を楽しませることも納得させることも結構上手にやってのけるけれど、他の人と共有できる普遍性を目指すというところに来るととたんにうまくできなくなる。自分で必死に考えて他のひとを喜ばそうとしたことさえも、あまり成功した覚えがない。みんな、私の「気持ち」を喜んでくれたけれど、「成果」を喜んだ人はいないのではないか、と思う。その壁をどうしたら越えられるのか、その糸口も、今のところ私には見えていない。
私は有用性という点では惨めなほどに落第していて、ただ何かしらの不思議な魅力のようなもの(それは私が自分で努力して得たものではないという意味で全くアイデンティティとは関係のないものである)だけで、生存を許されているような気がする。
とはいえ、何も努力しないと言う訳には、生きている以上不可能だから、私は不毛さと闘いつつも、何かはし続けるのだろう。書くという呼吸を続けることとは、また別に。
電気湯沸器 ― 2008年02月06日
パソコンと電源系ゲームなしでは生きるのが困難な(苦笑)生活をしておりますゆえ、罪滅ぼしという訳ではないですが、トータルでいかに自分の生活の環境負荷を低くするかは、結構私の思考の中では優先順位が高いトピックです。
毎日お茶を淹れるためのお湯を沸かすので、そのためのエネルギー消費を少しでも減らすために、電気ケトルを購入して使ってみることにしました。一応理論値では、ガスよりも無駄なエネルギーが減るようなのですが、とはいえ電気は運搬される途中にかなりの無駄が発生するので、トータルで見るとどれくらい負荷が減るのか、あるいはひょっとして増えるのか、なかなか微妙で一概には言えない問題です。
で、この電気ケトル、ティファールのアプレシアというシリーズの0.8Lタイプなのですが、消費電力が1250Wとなかなか豪快でして、使用する時にはエアコンだの炬燵だの、色々と他の電化製品を使わないようにするという配慮が必要になります。おかげでカンタン便利、手軽にお湯が沸かせます♪という宣伝文句とはかなりかけ離れた状態になっているのですが、逆にこの配慮のためにこまめに無駄な電源を切ることができて、ひょっとしたら電力消費を減らすことに役立っている……のかも知れません(笑)。副効用といったところでしょうか。
ちなみに使い勝手は期待通りでした。お湯はすぐに沸きます。お茶の準備をしてる間にさくっと。他のことはできません(笑)。ただ沸騰を維持することはできないので、紅茶などを淹れる時にはちょっとコツがいる感じです。ダイニングのテーブルなどに置くことも可能なので、中国茶のように二煎目三煎目も熱湯で入れたいお茶などは、その都度沸かし直しができるかも知れません。電気は喰いますが。そんな感じです。
毎日お茶を淹れるためのお湯を沸かすので、そのためのエネルギー消費を少しでも減らすために、電気ケトルを購入して使ってみることにしました。一応理論値では、ガスよりも無駄なエネルギーが減るようなのですが、とはいえ電気は運搬される途中にかなりの無駄が発生するので、トータルで見るとどれくらい負荷が減るのか、あるいはひょっとして増えるのか、なかなか微妙で一概には言えない問題です。
で、この電気ケトル、ティファールのアプレシアというシリーズの0.8Lタイプなのですが、消費電力が1250Wとなかなか豪快でして、使用する時にはエアコンだの炬燵だの、色々と他の電化製品を使わないようにするという配慮が必要になります。おかげでカンタン便利、手軽にお湯が沸かせます♪という宣伝文句とはかなりかけ離れた状態になっているのですが、逆にこの配慮のためにこまめに無駄な電源を切ることができて、ひょっとしたら電力消費を減らすことに役立っている……のかも知れません(笑)。副効用といったところでしょうか。
ちなみに使い勝手は期待通りでした。お湯はすぐに沸きます。お茶の準備をしてる間にさくっと。他のことはできません(笑)。ただ沸騰を維持することはできないので、紅茶などを淹れる時にはちょっとコツがいる感じです。ダイニングのテーブルなどに置くことも可能なので、中国茶のように二煎目三煎目も熱湯で入れたいお茶などは、その都度沸かし直しができるかも知れません。電気は喰いますが。そんな感じです。
謹賀新年 ― 2008年02月07日
あけましておめでとうございます。
旧暦では今日が睦月朔日、新年元旦ですね。いつも新暦でおせちを作っているのですが、あまり気味だから、次回からは旧暦元旦におせちを作ろうかしら……。何はともあれ、今年もよろしくお願いします(笑)。
が、こんなめでたい日なのですが、ここ数日どうにもこうにも体調と気分が優れず、今日も目標の時間には起きませんでした。正確にはあんまり眠れなくて、起きるのは可能だったのだけど無理矢理寝た方がいいような気がして寝てた、という方が近いか。こういうストレスの波は、寒さに耐える小鳥のように、ふくふくと丸まってじっと引いていくのを待つしかないので、のんびりやろうと思います。
で、そんなこんなで年賀状の発送が遅れておりますゆえ、旧暦正月に少し遅れます。以上、お知らせでした。
旧暦では今日が睦月朔日、新年元旦ですね。いつも新暦でおせちを作っているのですが、あまり気味だから、次回からは旧暦元旦におせちを作ろうかしら……。何はともあれ、今年もよろしくお願いします(笑)。
が、こんなめでたい日なのですが、ここ数日どうにもこうにも体調と気分が優れず、今日も目標の時間には起きませんでした。正確にはあんまり眠れなくて、起きるのは可能だったのだけど無理矢理寝た方がいいような気がして寝てた、という方が近いか。こういうストレスの波は、寒さに耐える小鳥のように、ふくふくと丸まってじっと引いていくのを待つしかないので、のんびりやろうと思います。
で、そんなこんなで年賀状の発送が遅れておりますゆえ、旧暦正月に少し遅れます。以上、お知らせでした。
白73、ウルガラン、など ― 2008年02月08日
相変わらず体調心調はゆらゆらと行ったり来たりしていますが、ヴァナ・ディールでの色々な進展など。
・白が73になりました。カンパニエと、ナイズル島踏査指令で得た経験値だけで上がっちゃってるのはどうなのかという気もしますが(笑)。いっそこのまま白をさっさと75にしてしまおうかと、考えたりして。
・ちなみに赤は長らく28だったのですが、カンパニエopsだけでこつこつと経験値を貯めて29にしました。これでシアー装備が着られます。手が回れば赤のレベル上げもしたいですけど……はてさて。
・カンパニエバトルは、色々なところに行ってみてます。現時点で防衛方法がおおむね確立している、PCが多くて危険が低い、頻度が高いという意味で「効率的」なのはジャグナー森林〔S〕だとは思うのですが、それ以外のエリアのカンパニエもやってみると楽しいです。
今日はクロウラーの巣〔S〕カンパニエを初体験してみたのですが、人は全くおらず、大量のナット・クゥダフ・シャドウ、加えてタウルスやらアーリマンやらが押し寄せてきて、あれよあれよと倒れました。あまりの戦力差に、画面の前で大笑い。その後、拠点を殴る敵を1体ずつ引き抜く戦法によって、まあ何もできないというほどひどいものでもないことがわかりました。こういう風に、最初は手も足も出ない状況から少しずつ進んでいく過程は楽しいですね。
・クエスト「ウルガラン越え」にチャレンジ。奇跡的に成功して地図をもらいました。すでにクリア済みの人についてきてもらい、右往左往しながら山をのぼり、三龍のひとりヨルムンガンド様にびっくりし、最後の崖下りは訳がわからないままとにかく突起を目指せと言われて必死にやりました。FF7のスノーボードミニゲームを思い出したな……。
・何とゲーム開始5年目にして、ようやく!「暗黒騎士」を取得しました。ジョブチェンジ欄が1個空いていたのが気になっていましたが、これでようやくすっきりと。しかしこれからさらにデスブリンガー取得クエストがあるんですねぇ……。
・バレンタインイベントも挑戦。内容はほぼ去年と同じようですが、やったことがなかったので結構楽しかったです。しかし「【男】【ください】【はい、お願いします】【イベント】」とかいうshoutがこだまするのはなかなかすごい光景だ……。
・ナイズル島踏査指令、初めて20層に到達、そしてクリアしました!わーいわーい(またも踊っているタルタルを想像してください)。アスカルの足がドロップして、めでたしめでたしです。まだまだ私のプレイヤースキルは未熟で、しょっちゅう死んだり足を引っ張ったりしていますが、がんばります……。
・白が73になりました。カンパニエと、ナイズル島踏査指令で得た経験値だけで上がっちゃってるのはどうなのかという気もしますが(笑)。いっそこのまま白をさっさと75にしてしまおうかと、考えたりして。
・ちなみに赤は長らく28だったのですが、カンパニエopsだけでこつこつと経験値を貯めて29にしました。これでシアー装備が着られます。手が回れば赤のレベル上げもしたいですけど……はてさて。
・カンパニエバトルは、色々なところに行ってみてます。現時点で防衛方法がおおむね確立している、PCが多くて危険が低い、頻度が高いという意味で「効率的」なのはジャグナー森林〔S〕だとは思うのですが、それ以外のエリアのカンパニエもやってみると楽しいです。
今日はクロウラーの巣〔S〕カンパニエを初体験してみたのですが、人は全くおらず、大量のナット・クゥダフ・シャドウ、加えてタウルスやらアーリマンやらが押し寄せてきて、あれよあれよと倒れました。あまりの戦力差に、画面の前で大笑い。その後、拠点を殴る敵を1体ずつ引き抜く戦法によって、まあ何もできないというほどひどいものでもないことがわかりました。こういう風に、最初は手も足も出ない状況から少しずつ進んでいく過程は楽しいですね。
・クエスト「ウルガラン越え」にチャレンジ。奇跡的に成功して地図をもらいました。すでにクリア済みの人についてきてもらい、右往左往しながら山をのぼり、三龍のひとりヨルムンガンド様にびっくりし、最後の崖下りは訳がわからないままとにかく突起を目指せと言われて必死にやりました。FF7のスノーボードミニゲームを思い出したな……。
・何とゲーム開始5年目にして、ようやく!「暗黒騎士」を取得しました。ジョブチェンジ欄が1個空いていたのが気になっていましたが、これでようやくすっきりと。しかしこれからさらにデスブリンガー取得クエストがあるんですねぇ……。
・バレンタインイベントも挑戦。内容はほぼ去年と同じようですが、やったことがなかったので結構楽しかったです。しかし「【男】【ください】【はい、お願いします】【イベント】」とかいうshoutがこだまするのはなかなかすごい光景だ……。
・ナイズル島踏査指令、初めて20層に到達、そしてクリアしました!わーいわーい(またも踊っているタルタルを想像してください)。アスカルの足がドロップして、めでたしめでたしです。まだまだ私のプレイヤースキルは未熟で、しょっちゅう死んだり足を引っ張ったりしていますが、がんばります……。
不安性忘却 ― 2008年02月10日
昨日は昼から夜にかけて用事で外出していました。その用事については、特に問題なくつつがなく終わって、大変安心しました。ここ数日というもの、自分でもこれはオカシイだろ……と思うほど不安症というか動揺が激しくて、同じことをずーーーーっとぐずぐずぐずぐずと悩んでいる有様なのですが、そんな時でもちゃんと他人様が関わる用事はこなせたということに、安心した訳です。
が……今日になって、ブログの更新を完全に忘れていたことを思い出しました。という訳で昨日のエントリがありません。日時を操作すれば昨日のエントリを作ることは簡単なのですが、己の間抜けさ加減を肝に銘じるために残しておくとします……。
が……今日になって、ブログの更新を完全に忘れていたことを思い出しました。という訳で昨日のエントリがありません。日時を操作すれば昨日のエントリを作ることは簡単なのですが、己の間抜けさ加減を肝に銘じるために残しておくとします……。
対不確定性、生活雑貨、薔薇型 ― 2008年02月11日
一部方面に心配をかけつつ、相変わらずさとみんはぼんやりと生きております。精神状態は、少しましになってきているのですが、気が緩むとそこでまた恐ろしいことが起こるんじゃないかと潜在意識ぽいところで思っているらしく、なかなか楽になるのを許そうとしません。もともと不確定性に極めて弱い性質を持っていることもあって、0.01%の最悪を先回りして必死に抱え込んでいるという精神状態です。善かれ悪しかれ、未来なり結果なりが確定してしまうまで、時間が過ぎるのをじっと待つしかないという状態にとても弱い人間なのだなぁ、と他人事のように眺めております。
で、今日は軽鴨の君と、ぼんやりと外出して買い物などしておりました。味噌を仕込むのに必要な落とし蓋とか、緑色の飾りのついたヘアゴムとか、お鳥様の襲撃から食べ物を守るキッチンパラソルとか、そんなささやかなものを色々と。
すっかり忘れていたのですが、世間はバレンタイン商戦真っ盛りで、世にも愛らしい薔薇のお菓子型とかが売っていて、思わずふらふらと買いそうになりました。料理も製菓も下手なくせに、こういう型や道具を欲しがるという癖はなかなか直りません。
で、今日は軽鴨の君と、ぼんやりと外出して買い物などしておりました。味噌を仕込むのに必要な落とし蓋とか、緑色の飾りのついたヘアゴムとか、お鳥様の襲撃から食べ物を守るキッチンパラソルとか、そんなささやかなものを色々と。
すっかり忘れていたのですが、世間はバレンタイン商戦真っ盛りで、世にも愛らしい薔薇のお菓子型とかが売っていて、思わずふらふらと買いそうになりました。料理も製菓も下手なくせに、こういう型や道具を欲しがるという癖はなかなか直りません。
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