心毒浄化2007年04月02日

世の中は不快なことに充ち満ちている。

と、思う人は、当然不快な気持ちを抱きやすくなる訳で、その不快さをどこかに発散しなければ、なかなか生きにくくなる。
だからその不快さを、誰かに愚痴ったり、ネットのBlogに書きまくったり、よそのBlogにコメントをつけたりして、何とか発散して生きていく。
その行為そのものは、いわば排泄行為のようなもので、トイレを破壊すれば人が排泄しなくなる訳ではないように、禁止や非難をしたからとてなくなるものでもない。

とはいえ、その不快な、一種の心のゴミともいうべき存在は、たまたま目にした(あるいは巻き込まれた)人間をそれなりに不快な気持ちにさせることも多い。
巻き込まれた人は、当然不快な気持ちになるから、その不快な気持ちをどこかに発散させていかねばならない。
しかも、数値的な表現がこの場合ふさわしいのかはわからないが、10の不快さに5人の人が巻き込まれた時、分割されて2の不快さになるものでもなくて、それぞれよくても7くらいの不快さを味わう。となると総量は35になる訳で……要するにこういう形で伝播していけば不快さはねずみ算のごとく増えていくということだ。

だから世界はどんどん不快なものになっていく……ように思えてくる。

実際には「思えてくる」だけで、そう、それは物の見方の問題に過ぎない。
それに時々、掃きだめのようにさえ見える心のゴミの山を取り込み分解し浄化して、世にも美しい花を咲かせ甘い果実を実らせる人も現れる。

理想論を言えば、各々ひとりひとりがその気持ちを大切に、少々の心のゴミを出す一方で、可能な限り心のゴミを少なくするよう心がけ、同時に世に出た心のゴミを浄化し分解して善きものに生まれ変わらせることを心がければいい。
けれどあらゆる能力と同じく、心のゴミを浄化するという能力も、人によって得意不得意があり「生産性」(という言葉が適切かどうかはわからないが)に差が出てくる。
他人に自分の心の浄化をさせて、自分は何もしないフリーライダー(に見える人)もたくさん出てくる。
それは本当に、まるで環境問題にまつわるあれやこれやがデジャヴとして二重写しに見えてくるような光景だ。
ひとりひとりの力の積み重ねでしか解決できないところも、そして巨大な災厄の前にひとりひとりの力などまるで無力のように感じられるところも、似ている。


それでも、まあ、何とかなるだろうと私は楽観的に考えて、柚子のマーマレードでも煮ようと立ち上がるのだ。
結局のところ、そういう行為が、心のゴミを減らす一番の力になるのかも知れないと、思いつつ。