屋上登攀者 ― 2007年01月03日
屋上登攀者,藤木九三,1998.8.17.,緑156-1
新聞記者の激務を縫って、登山活動を続けた著者が、山にまつわるもろもろのことを書き綴った本。当然、登山愛好者であれば百倍楽しめるはずだが、私は登山経験がほとんどないので、あれこれ当て推量するよりほかない。
「ワタシ語り」の本になっても全くおかしくないテーマだが、著者はそういった自分のこだわりや感情を語ることを厳しく律している。冒頭に「私は登山においてはなるべく個性を殺そうとつとめており、その満たされない感懐を、書くことで表そうとしている」と書いてあるが、そうとは気づかないほどの潔さ、禁欲的姿勢である。
山岳の偉容を絵にとらえることの難しさと、その中でも特筆するに足る風景画家ウィーランドをとりあげた「取り残された『美』」や、地形図を丹念に見る楽しさを書いた「毛虫」などは、登山をしない人間にも伝わってくる、真正直な喜びが伝わってくる。だが山の魅力というのは、結局叙情的な感傷をはるかに飛び越えたところに、ぽつんと屹立しているのであろうことが、文章を通して伝わってくる一番の感慨である。
登山とは、危険がともなうスポーツでありレクリエーションである。だがその危険は、人が作り出す危険と違い、悪意や詐術が入りこんだものではない。
山が課す危険も、戦争やテロがもたらす危険も、今の日本語では「危険」と同じ言葉で表すよりほかない。しかしこの二つは全く異なるものであり、渦中の人に与えるものも全く異なる。どんなに危険であろうと、山は裏切らない。淡々とした文章の中に、山がなぜ神々しいのか、という理由が、ひっそりと述べられている。
新聞記者の激務を縫って、登山活動を続けた著者が、山にまつわるもろもろのことを書き綴った本。当然、登山愛好者であれば百倍楽しめるはずだが、私は登山経験がほとんどないので、あれこれ当て推量するよりほかない。
「ワタシ語り」の本になっても全くおかしくないテーマだが、著者はそういった自分のこだわりや感情を語ることを厳しく律している。冒頭に「私は登山においてはなるべく個性を殺そうとつとめており、その満たされない感懐を、書くことで表そうとしている」と書いてあるが、そうとは気づかないほどの潔さ、禁欲的姿勢である。
山岳の偉容を絵にとらえることの難しさと、その中でも特筆するに足る風景画家ウィーランドをとりあげた「取り残された『美』」や、地形図を丹念に見る楽しさを書いた「毛虫」などは、登山をしない人間にも伝わってくる、真正直な喜びが伝わってくる。だが山の魅力というのは、結局叙情的な感傷をはるかに飛び越えたところに、ぽつんと屹立しているのであろうことが、文章を通して伝わってくる一番の感慨である。
登山とは、危険がともなうスポーツでありレクリエーションである。だがその危険は、人が作り出す危険と違い、悪意や詐術が入りこんだものではない。
山が課す危険も、戦争やテロがもたらす危険も、今の日本語では「危険」と同じ言葉で表すよりほかない。しかしこの二つは全く異なるものであり、渦中の人に与えるものも全く異なる。どんなに危険であろうと、山は裏切らない。淡々とした文章の中に、山がなぜ神々しいのか、という理由が、ひっそりと述べられている。
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