ロビンソン・クルーソー2006年12月21日

ロビンソン・クルーソー(上),デフォー作,平井正穂訳,1967.10.16.(2003.4.4.第49刷),赤208-1
ロビンソン・クルーソー(下),デフォー作,平井正穂訳,1971.9.16.(2003.5.15.第40刷),赤208-2


かつて、魅力あふれる素敵な人と憧れていた人に再会したら、相手の嫌な面ばかりが目についてしまって、がっかり。
簡単に言えば、そういう感想になる。

子供の頃、少年少女向けに書かれた「ロビンソン・クルーソー」はとにかく魅力的だった。
不屈な精神や敬虔な心、創意工夫の頭脳はもちろんだけれど、それ以上に私は、ひとつの生活が作り上げられていくという過程が描かれていることに感動したのだと思う。
子供の私にとって、生きるということは当然のものとして与えられたものであって、食べるものや着るものや道具がどのように作られているのかということは想像の外だった。その身近なセンス・オブ・ワンダーを、自分の手でひとつずつ再構築していくのは、ほとんどファンタジーに近い感動だったのだ。

ところが、読み直してみた原作では、そういった生活の感動はぐっと後方へひいてしまい、むしろなぜこのような生活になってしまったのかという反省や、どんなところにも存在している神の恩寵といった要素にぐっとズームインしている。そして生きるということ自体の感動は二次的なものになっていく。

後半ではそれはさらにエスカレートしていく。孤島を脱したクルーソーは、老年に達して再びその孤島を訪れ、そこからアジアをめぐる大航海を行うのだが、その中で彼は繰り返しキリスト教の優位性をしきりに綴る。島に残してきた男達が、先住民の女性を捕虜にしたあげく、くじをひいてどの女を妻にするかということを、さも公平で賢明な方法であるかのように書き連ねる。そしてそれが正式なキリスト教の婚姻でないことばかりを恥じるのだ。
「私の島ではみなが違う宗教を信じており、信教の自由があった」と誇らしげに書く割に、別の地では土着の民が「邪悪で野蛮な、迷信深い化け物を崇めている」ので、夜中にその宗教施設を破壊した様子を得意になって語る。クルーソーの「信教の自由」は、せいぜいプロテスタントかカトリックかという話らしい。

もっとも、これは時代と土地の制約というべきものなのかも知れず、デフォーにそこまでの普遍性を求める方がお門違いなのだろう。どこまでもこの物語は「19世紀ヨーロッパ」の真空パックなのだ。
そして残念ながら、というべきなのか、子供向けに書き直された、「生きることこそ最高の冒険」というテーマの方がむしろ普遍的な魅力をもって迫ってくるのである。