更正指導訓練2006年04月01日

数日来、抑鬱が続いています。今日は友達が集まってお花見をやっていたのですが、とてもではないけれど楽しい顔を見せるなど難しいので、パスしました。
そんな私を見かねて、軽鴨の君がリハビリテーションのために映画に連れ出し、春の街をぽてぽてと歩いたりしていました。
桜は、触れたらぱちんとこちらを弾くような勢いのよさで、咲いていました。そこにあるのは魔性というよりも、まっすぐな成長の力、ただ純粋なそれだけ、という気がしました。
ポップコーンを頬ばる子供。キャラメルの匂い。数珠繋ぎになるクルマ。涼しいというにはまだ少し冷ややかな強い風。それに舞い上げられる埃と砂と花粉。空気に満ちる、淡い淡い桜色。
私の抑鬱は、軽くなるということは少なくとも今はなく、その原因もある程度見えてはいるもののどうしようもないもので。
時が動くか、物事が変わるか、私が勇気を振り絞って何かを捨てるか、それとも奇跡が起きるか、ともあれそう簡単には解決しそうもない、根の深いものではありますが、しかし、今こうして魂がざっくりとひび割れているような時であっても、そこにはある種の幸せがあるのだと思います。
在るべき状態というのとは、全く違う意味で、しかし私は幸せなのだと。
とはいえ、そういう確信というものは、なかなか伝えることは難しく、口に出してみると急にいかがわしいもののように見えてしまうものです。
蛍光灯の下で見る宝石が、どこかしら紛い物めいた光を放つのと、似たようなものかも知れません。

題材消費人生2006年04月02日

空に、月齢四日足らずの三日月がかかっていました。食べかけのメロンみたいな、ひょいとつまんでボタンの飾りにしたくなるような、絶妙の細さと形。
昔の人だったら、こういう光景を眺めて和歌のひとつも詠ったり俳句のひとつもひねったり漢詩のひとつも吟じたり、したのかも知れないなぁと思い、無粋な自分を恥じたのですが、でも考えてみるとそういうのが果たして粋で文化的なものなのかは、また別かも知れないですね。「あー……きれいな月だなぁ」と呆然と眺めているのこそが、本当はいちばん純粋なのかも。そういえば純粋は、純なる粋と書く訳ですし(ちょっと違うかな)。
綺麗な月を見上げたからとすぐ芸術を絞りだそうとするのは、おいしいごはんを口にしながら頭の中はこの料理を自分のBlogでどんな風に評論しようかということでいっぱいの人、みたいなものでしょうか。
私たちは、今や平安時代の貴族たちがどんな気分で美しい和歌を詠んだのかを知らないのですが、芸術以外なーんにもすることのなかった彼らの和歌は、案外今のBlogと同じような気分で、つまりネタ探しとネタ調理に明け暮れる日々といった調子でつづられたもので、それほど高尚なものでもなかったのかも知れませんね。
もちろん、高尚でなければ価値がないという訳ではありませんから、それでも全然問題はないのですが。

春風2006年04月03日

春の風、と書くと、桜色のたおやかな微風が、美人が着た和服の裾のごとき感触で頬を撫でる……みたいな妄想がありますが(私だけ?)実際に春が来て風が吹いてみると、そんなのは大間違いだと思い知ります。
春は強風の季節です。
今日もものすごい風、辺りかまわず抜けていく勢いに窓は鳴りっぱなし、幟や立て看板のたぐいはことごとく打ち倒されていました。漫画だったら頭の上に星がくるくる回っていそうな風情で。
私の知り合いには、春になると調子が悪くなる春嫌いさんも、桜が咲くと元気が出てくる春好むさんもいますが、どちらにせよ「別にどっちでもいいよ、春なんて」という態度を許さない押しの強さが、春にはあります。春は特別なんですね。
私のイメージする春の女神は、楚々とした美女ではなくて、ジャンヌ・ダルク風の鎧をまとった色白の美人です。鋭く容赦がなく勢いがあって美しい。
それなのに、春を待ち望んでいる間は、あるいは春が過ぎ去ってしまった後は、何だか穏やかでぬくぬくとした柔らかく甘く心地よいもののような錯覚を抱いてしまうのは何故なのでしょうか。
その理由はわからないけれど、人生のある時期を春にたとえる気持ちと、似たようなものなのでしょうね。

無趣味2006年04月04日

「趣味は何ですか?」と尋ねられると困るようになったのは、いつからだろう。
書くこと、読書、料理、ハーブやアロマテラピー、石けん作り、茶道楽、薫香、占い、ゲーム、それからそれから……
ごくごく平凡な人間である私は、同じ年頃の少女が好きになりそうなものを順番に、一通り楽しんでいった。ファッションや芸能人に興味を示さなかったのがイレギュラーという程度。好きになったものについては、本を揃え、知識を増やし、どれも人前でひとくさり演説ができるくらいには身につけた、と思う。
でも、「趣味」とは呼んでいない。
呼吸のような行為である書くこと、食事のような行為である読書は別として、その他の何もかもは、「趣味」と呼んでも差し支えないような位置にはあるのだけれど、趣味ではない。
趣味というのは、私にとっては重いもののようだ。

思うに、私が「趣味」と言った場合、そこには役割が含まれているのである。
あるグループなりコミュニティなり、人が集まる場には、何らかの共通性や縁が存在する。それは、血のつながりであったり、仕事であったり、信仰であったり、特定の行為を共有することであったり、共通の敵であったり、何でもいい。
私にとって、「趣味」という言葉は、その「場」との関係性を抜きにして語れないものなのだ。
場に所属する理由、あるいは、場において何かの意味を持つ属性。
たとえば、ファンクラブに所属する程度に好きな芸能人がもし私にいたとしたら、私はその人を「趣味」にできるだろう。パッチワークのサークルに入って、毎日それを楽しみにしていたら、パッチワークを「趣味」にできるだろう。
あるいは、私がどこかに勤めていて、その職場で一番お茶に詳しく、お茶が関わる場面では私が必ず呼ばれるという状態だったら、お茶を「趣味」にできるだろう。

「趣味は何ですか?」と尋ねられると困る、ということは、要するに私が場に属していない事実を意味している。属していないというのが言い過ぎなら、何かの役割を帯びてはいないと言い換えてもいい。
唯一私が属していると自他共に認められるのは、軽鴨の君と営んでいる家庭だけれど、これは二人しかいない小さな小さな場で、私も軽鴨の君も重層的に役割を分担する、特殊な例である。そこには個性や趣味の入る余裕がない。

という訳で、私は今日も無趣味である。
数独を遊んだり、FF12をプレイしたり、新しく本を5冊ほど買ってきたり、春に作る石けんを考えたり、冬に仕込んだ味噌の様子が気になったりもするけれど、それらは相変わらず趣味ではない。ただの、暮らしのひとかけらだ。

感動2006年04月19日

「セカチュー程度で感動する人間は底が浅いね」なんてしたり顔で言う知的スノビズムは、下流人間なんか比較にならないくらい人として浅薄で低俗だ、と思うのが私という人間です。
感動は、何に感動するかには個性の違い以外の意味はなく、モーツァルトに感動しようが北島三郎に感動しようがビートルズに感動しようがオレンジレンジに感動しようが、「感動する」という意味合いにおいては同じ重さ、同じ強さ、同じ高さでありましょう。
仮にそこに高低があるとしたら、それは感動した結果自分がどうなったかによって生まれるものだと思います。
昔、どこかのホームページで、ミンキーモモのアニメを見てから「夢を持つことの大切さ」に目覚めて、自分がどれだけ充実した豊かな人生を獲得することができたか、ということを切々と訴えた文章を読んで、こういうエネルギーを持っている人は(ちょっと迷惑な熱意を周りに振りまくかも知れないけど)きっと幸せなのだろうなぁと微笑んだことがあります。今あの人は、どうしているのかな。

どんな言葉であれ絵であれ詩であれ歌であれ句であれ彫刻であれ何であれ、上手下手センスの有無基礎の有無知識の有無それら一切関係なしに、
「世界の中にいる誰かひとりの心や魂や体を救うきっかけとなる力」
はあるかも知れない。
というのが、私の世界観のひとつです。
それは、職業的完成として研ぎ澄まされた質の高さを賞賛するのと、全く違うベクトルの、でも太さとしては同じくらいの矢印として存在します。

私がどんなに時間が経っても、場所を変えたり雲隠れしたり靄の中に沈みこんだりしながらも、こうして誰の役に立つ訳でもない文章をちくちくと書いては、ボトルに詰めた手紙を海に流すように放ち続けるのは、それが自分の生存に必要なことであるからであり、同時にもしかしたら世界のどこかにいる誰かが、これを読んだ時にほんの少しだけ、何か意味を感じる可能性がゼロではないからです。
「世界はまだ捨てたものじゃないかも知れない」と思うきっかけをつかむための前段階のひとかけらを見つける手がかり、くらいにはなるかも知れない。それができれば、充分私が生きている理由のひとつにはなるのだろうと思います。
何年かに一通か二通、まれに、私のことを全く知らない人からのフィードバックが返ってきて、自分がやってることはまぁ全くの無駄ではないということを知ることができるから、私はきっと幸福なのでしょう。

どんなに掲示板で荒れ果てた論議が展開されようと、詐欺や猥褻コンテンツが横行しようと、そういった「ちょっとしたひとかけら」の居場所として機能できる数少ない場である限り、私はネットというものを最後には肯定するのです。
もしもなくなったらどうしましょうかね。
「私の文を読んでください」と看板を立てた横にゴザを敷いて、コピーを綴じたものを積み上げて、その横に膝掛けにくるまって座るのでしょうか。それだけの勇気とエネルギーが、その時の私にあればいいのですが。

些末事2006年04月21日

ヨモギと緑茶の浸出液(ホワイトリカーで成分を溶かしだしたもの)に少しの蜂蜜、ジャスミンの精油を入れた化粧水を作る。
机を拭いて、それから床を軽く拭き掃除。
粉だし用に、昆布と鰹節をミルで細かくする。
お風呂を石けんで掃除。
茶香炉でローズマリーを焚いて、青っぽい少し尖った香りを吸いこむ。
ごはんを土鍋で炊く。
そういう小さなことを積み重ねて、すっかり落ちこんだ自分の日常性と心をちょっとずつ引き上げる。

周囲が楽しく盛り上がっていることに、自分が全然心動かない。
花が咲いて太陽が照っているけれど、外に出かけることができない。
細かいボランティア作業を続けるうちに、不意に疲労が行動力を上回る。
そんな風に、些末なことに少しずつ切り刻まれて心は滅びていきそうになるけれど、些細なことを縒り合わせていくことで、心を引き上げる命綱を編むことも、できないことではない。
そうやって、普通の人々は、毎日生きていく。

生きていてくれるだけで、褒められてしかるべきではあるまいか。この、生きることをやめる理由に事欠かない、世界の中で。