がんばれ2010年08月27日

 「がんばって」という言葉は残酷だ、一種のハラスメントだ、という考えが広がり、それについて、今度は揺り戻しというか反発もよく聞きます。
 どうもこの言葉への反応というか、抱く印象というか、感覚はかなり個人差があるようです。いえ個人差というよりも、状況差とでも言うべきでしょうか。

 一番よく聞く「"がんばって"が不愉快な時」は、「早くいい人見つけなさいよ、結婚しなさいよ」という発言とセットになっているとか、病人の看病(あるいは当人の闘病)の時とか、でしょうか。
 以前、確か「所さんの目がテン!」だったと思いますが、高所恐怖症の人にバンジージャンプに挑戦させる時に、応援団をつけて「がんばって!」と応援させるのと「かっこいい!」と応援させるのと、どちらが早く決心が固まって飛び降りられるかということを試していたのが、なかなか興味深かったです。結果は「かっこいい!」の方が効果が高くて、被験者の感想は「がんばって、と言われるとイライラする」といったものでした。

 私自身、「がんばって」という言葉には、一定の違和感を覚えるのは事実で、それをわかりやすく言語化すると、
「努力という本人にしかわからないことに対して、他人が口を出している奇妙さ」
なのだと思います。

 こうして考えてみると、「"がんばって"が不愉快な時」は、言われる人と言う人の距離感というか、立場の違いが大きく影響しているような気がします。
 厳密には違いますが、「同情されるのが嫌い、不快」「可哀想と言うのは見下してる言い方でイヤ」みたいな感覚に、近い何かがあるのではないでしょうか。

 そもそも「頑張る」の語源は「我を張る」なので、「頑張れ」というのは「自分を主張しろ」ということになり、他人が口を出す筋合いではないことに口を出している、違和感バリバリの言葉だという考え方もあるでしょう。今では意味が変化して、語源の語感はほとんど失われているはずですが。
 けれども「がんばれ」という言葉には、そもそもどこか、自他一体化の響き、あるいは自他一体化失調の響きがあります。

「がんばれが不愉快になる時」という時を、強引にまとめて表現すれば、
「努力のみで解決不可能な問題を抱えている人に対して、問題を抱えていない安全な立場にある人が、『言葉をかけるだけ』という最低限の費用負担で状況好転を期待する時」
とでもなるでしょうか。
 努力のみで解決不可能な問題、というのは、努力と結果が必ずしも正比例しない状況だけでなく、そもそも努力の方向性さえ定めにくい時も含まれるかも知れません。

 つまり、言われる方と言う方の間には、そもそも同一化が非常に困難な違いがあるのです。試練に挑戦する人と傍観者、病人と非病人、芽が出ない人と成功者、未婚者と既婚者等々。
 そういった時に、その差異を許容もしくは無視をして、自他一体化をしてしまえる(あるいはしたことにしてその場を取り繕う)ことができれば、「がんばって」という言葉には意味と力が備わります。
 高度成長時代の前畑選手に「がんばれ」と言ってよかったのは、前畑選手に多くの人が勝手に自他同一化できた(同時に前畑選手がそれを明確に否定しなかった)からです。
 "アンチがんばれ"に対する反論としてよく聞く、「そんな深読みしないで素直に善意だけ受け取ればいいじゃないか」という発言も、要は自他同一化を取りあえず受け流せ、ということでしょう。

 逆に、「がんばれ」という言葉が負担になる、有害にすらなる時というのは、自他同一化がどうやっても不可能な状態であり、しかもその状況下で発言者が負うコストが、あまり大きなものではない(ように見える)ケースではないでしょうか。
 同一化が不可能にも関わらず、安易に同一化を前提にした発言をする、いわば「同一化の押し付け」に対して、右から左へ受け流せる何かの余裕があれば大事には至らないのかも知れませんが、そうでない場合には、傷口に無頓着に触れるようなことになりかねません。

「同情されるのはイヤ」「可哀想と言われるのはイヤ」というのは、見下されるような、上から目線を感じるから不愉快だという感覚ですが、これは自他同一化の失調というよりも、自他の区別を、優位劣位に転換されている、しかもその転換を善意というオブラートで包んでいる偽善性がある、という不快感でしょう。
 そういう意味では、がんばれに対する不快感とは異なる訳ですが、自他の差異というものに対する敏感さという意味では、共通するものがありそうです。


 がんばれ、という言葉を発する時、人は大抵の場合、善意で言うものです。その善意の量は様々ですが。
 けれど善意が受け容れられない場合は人生には多々ある訳で、この世界に起こる失恋という出来事と同じくらいの数は、無意味な「がんばれ」があるのだという考えは、たまには思い出してみるのもよいような気がします。
 そして失恋というものもあるように、この善意の供物が嘉納されないこともあるのだと、思うことは、発する「がんばれ」という言葉に、単なる善意以上の深い気持ちをこめることになると思うのです。

微妙2007年05月26日

「これどう?」「……ビミョー」
というこの微妙は、たぶんあのNOVAうさぎのCMから出てきた表現だと思うのだが、どうなのだろう。
それはともかく、どうも世間的にはこの「微妙」は悪い意味で、「あからさまに悪いとは言えない時に言葉を濁す便利な表現」とイメージされているらしい。
だが私にとっては、NOVAうさぎのCMがファースト・コンタクトだったせいだろうか、「微妙」は必ずしもそういう意味ではないのである。もちろん、そういう時に使うこともあるのだけれど。

この「微妙」は、「一言では言えない」というニュアンスがある。
あるものがあり、それに対する評価を求められた時、文句なくよければ「いい」だし、また自分にとって好きではない場合は「私の好みじゃない」と言えばいい。
私がそこで「微妙」という場合、それは、そこに展開されているものの長所を自分では把握できないのだが、しかし無視できない何かを感じていることが多い。逆に言えば、あとひと息でそこに感動なり喜びなりが生まれそうなのに、何かがひっかかって邪魔をしている状態。
「惜しい」という表現を使わないのは、相手側に問題があるのではなく、自分の側にその表現に対する感性が不足しているような気がするからだ。
あのNOVAうさぎが踊っている姿を「どう?」と尋ねる姿は、イケてるとはとても言い難いのだけれど、しかし何か妙なエネルギーがある。しかも、そのエネルギーを理解できないこちらが何か不足しているのではないかと思わされるような問答無用さというか、根拠のない自信がみなぎっている。

要するに、「微妙……」という言葉には、いわば「圧倒されている、気圧されている」雰囲気があって、どちらかというと混乱に近い感嘆表現なのかも知れない。
それが「あからさまに悪いとは言えない時に使う表現」に転用されるのは、結局のところ人間関係で圧倒されている人が多いということなのだろうか。それはそれで、納得はできないが妙に説得力があって、思わず「その説、微妙……」とつぶやきたくなるのである。