体験知識2011年12月14日

「文句言うならお前がやれよ!」という定番の台詞があります。
 たとえば「最近の邦画はみんな駄目だ、もっと監督が高い意識で……」みたいなことをしたり顔で言う映画ファンの鬱陶しい語りにぶつけられる卵みたいなものです。
 これに対して「医者じゃなきゃ医療問題に文句言っちゃいけないのか、素人や部外者だからこそ見えるものは重要だろう」みたいな反論も定番で、あとは大乱闘、というのがお決まりな訳ですが。

「じゃあお前がやれよ!」というのは、まぁ普通は、それを言っちゃあおしめえよと寅さんが見栄を切りそうな、コンフリクトを内包した言葉であって、あまり言わない方がいい、少なくとも議論としてはうまいやり方ではないのは確かです。
 しかし最近、この言葉には、もう少し深い意味というか、単なる喧嘩の売り言葉と流さない方がお互い幸せになる何かが隠れているような気がしてきたのです。

 能力の高低とはまた別に、人生においては、「やってみないとわからないこと」「当事者になってみないとわからないこと」がたくさんあります。
 心情的な部分というのはその最たるもので、「犯罪被害者の苦しみは体験した者にしかわからない」といった話が繰り返し語られることを思い出すまでもなく、どんなに想像力が豊かな人であっても、「なってみないとわからない」状況というのは結構あります。
 しかしそういう感情や心の部分だけでなく、もっとフィジカルなものやあるいは知識や知恵のような部分でも、結構「一度やってみないとしっくりこない」要素はあるものです。
 脳内シミュレーションというのはどんなに緻密であっても、現実の行動や状況とは、かなりの落差が生じます。スポーツや自己啓発の分野では、イメージトレーニングや視覚化というのはもはや常識となっていますが、あれはきっちり行うと本当にすごい力を発揮する反面、「イメトレっぽいもの」「視覚化のつもりのもの」程度では全然効果をあらわさないものでもあります。逆に言えば、脳内シミュレーションというのは、言うほど簡単ではない、それこそ「やってみないとうまくできない」代物である訳です。

 自分の頭の中やひらめきの段階では、綺羅星のごとく輝いていた物語や詩が、文字にしてみたら絶望的な有り様になるという体験は、少々多感な青春を過ごした文学少年少女なら必ず経験するはずのものですが、そこから己の才能のなさへの嘆きは導き出せても、もっと重要な経験を導き出せる人は多くありません。
 それは、思っていたのと実際にやってみることの落差、やってみて始めてわかる困難というものがあり、その困難をやらずに理解するのは並大抵の脳内シミュレーションでは足りないということです。
 私のような自意識過剰の文学少女などは、つい自分の才能のなさに真っ暗な気分になって、その先の大切なことをスルーしてしまいがちですが、そこで踏みとどまって才能云々ではなく、「やってみて理解した困難」存在の意味を理解したなら、他人を批評したり忠告をしたりする時に、全く違った言動が生まれてくるかも知れません。


 恐らく、「じゃあお前がやれよ!」という言葉が出てくるということは、単なる否定や耳の痛い言葉という類いの苦痛ではなく、「無理解」という溝を示しています。
 本質を突いた有益な批評というものは、痛くとも、言われた側に「腑に落ちた感覚」を抱かせるものですが、かゆくもないところを掻かれる批評というのは、それ自身が正しいものであったとしても、残念ながら意味がないうえに不愉快極まりません。その、「わかりもしないのに言っている」という不快感が、「お前がやれ」という言葉になるのではないでしょうか。
 だから、「じゃあお前がやれよ!」と言われてしまった時、そういう言葉が出てしまった時には、何かこの議論の場にいる人々が理解していない障害が存在するのだ、ということを意識した方がよいのでしょう。そしてそれは「やってみる」と、案外あっさりと共有できるものなのかも知れません。
 そしてその体験の共有は、かけがえのない意味を持つのかも、知れません。


 と言うわけで、「お前がやれよ!」と言われたら、昔の「やってできなかった」トラウマで脊髄反射的に罵り返すのではなく、素直にその通りやってみるのも手かも知れませんよ、どうしてもやれない都合があることならせめて自分の側に何か見落としていることがないか厳しめに自己点検するのがいいですよ。という、結論としてはあまり面白くもない退屈な話でした。