機種変更2011年12月08日

 寒いうえに気分が全然上向かなくて、日記を書こうにも「今日は憂鬱だった」としかならない日が続いて、すっかり間が空いてしまいました。書いた方が気分が変わるのはわかっているのですが、そこにたどりつく気力がないような錯覚に陥るという、悪循環です。

 iPhoneは12月に無事4Sに機種変更できました。カメラの性能が上がって写真が綺麗、ディスプレイ性能も上がって表示が綺麗、文字入力やアプリ操作もさくさく。人間快適なものには一瞬で慣れるもので、すでに3GSだった頃が思い出せません……。
 3GSにはセキセイインコのシールを貼っていたのですが、今度の4Sにはまだ何も装飾を入れてません。ケースも3GS時代の、布製のものを流用。木製のケースとか憧れるのですけど、2年くらいで機種変更していくことを考えると、ケースの寿命が長すぎて、踏み切れません。
 まぁ、最近MacBook Airを新しくしたこともあって、あと1年くらいは厳しい緊縮財政なので、新しいケースとか買うお金ないんですけどね! どれくらい緊縮財政かというと、支出管理アプリで定期支出を計算して今月の自由な予算をはじき出すと、硬貨しか出てこないとかそんなレベル(笑)。
 とりあえず、部屋の片づけをして、しばらくおとなしく生きていこうと思います……。なかなか進まないのですけど、部屋の片づけも。

現実化2011年12月12日

 相変わらずの寒さです。起きられない日々が続いています。夢もどんどん盛り上がってきて目覚めを妨げます。寒くて全然動けないので、とうとう観念して起床時にエアコンをオンにすることにしました。それでも全然動けない訳ですが……。

 全く関係ない話ですが、iPhoneアプリなどで、習慣形成補助というジャンルがあります。小難しい表現ですが、要はダイエットとか規則正しい生活とか勉強とかを習慣にするために、今日はこれくらいやりましたよ、とか、最近やってないですよ、とか、そういうことを記録して可視化することで、習慣にしやすくするというものです。
 カレンダーにチェックを入れたり、そのチェックで埋まったカレンダーを眺めたりするのも最初は楽しいのですが、だんだん飽きてくるというか、それでは物足りなくなってくるのが、この手のアプリの弱点です。

 ふと、これってソーシャルゲームと組み合わせたら結構効果あるのかなぁなどと思いました。
 ソーシャルゲームでは、○○さんが××アイテムをゲットしました!みたいなものの繰り返しなのですが、たとえばダイエットで○日甘いものを我慢するとレアアイテムがもらえるとか、一週間連続で早起きできたらポイントがゲットとか。
 ゲームの実績やトロフィーやアチーブメントなんてものも、何の実質的なメリットもなくても、「達成しました!」ときらきら光るアイコンで表示されるとついついそれに向かってがんばってしまうものです。
 であればソーシャルゲームのアイテムが、いいことしたらもらえるとかいうのは結構アリなんじゃない?

 おおこれはひょっとしてビックビジネスなナイスアイデアなんではないかと一瞬舞い上がったのですが、一瞬後には「それで運営する人はどうやって儲けるんだよ」という冷静なセルフツッコミで我に返りました。
 習慣形成補助ソーシャルゲームのために、毎月300円とか500円とか払う人……世の中に何人いますかねぇ……?

 まぁ、いつも思うのですが、アイデアなんてものは誰だって思いつくもので、それを具体的な形にして、障害に打ち勝って、現実化して、続けていくことこそが最も大変なところなのだということですね。
 よく素人が「素人でも考えつくこんなことを何でプロのアイツはやれないんだろ?」とまさに素人考えで思う訳ですが、そういう時は大抵、素人が思いついてない、もしくは乗り越えられない何かがそこに立ちはだかっていると考える方がよさそうです。

「無能で説明できることに悪意を持ち出す必要はない」というのはウォッカムの剃刀をもじって「ハンロンの剃刀」と呼ばれる警句ですが、実際には「自分の無能で説明できることに、相手の無能と悪意を持ち出す必要はない」という場面の方が圧倒的多数なのだろうなぁと思います。

二度目は茶番2011年12月13日

 相も変わらず調子は悪いですが、元気にやっております。(なんだこの矛盾表現)


 私自身がmixiを活発に利用しなくなってから1年以上は経ちます。と言っても、実際には1日に2回はログインしている訳で、ログインした時にやっていることが管理人を務めているコミュニティの確認だけだとしても(マイミクさんの日記やつぶやきは、全部を追い切れていません)、普通に考えればじゅうぶん、「mixiヘビーユーザー」なのだとは思うのですが。

 mixiから距離を置いて以後、Twitterにはアカウントを作りました。
 が、私にはTwitterが不得意です。色々な理由がありますが、その話はここでは置きます。
 今のところ、Twitterでしか読めない、貴重な一定数の書き込みを読むためと、Twitterがメインの連絡手段になっている友人のために、Twitterアカウントを維持していますが、単純に量だけではかれば、私にとってはTwitterは、残念ながらベネフィットより、大幅にコストが上回っています。
 もっとも、たとえ圧倒的にコスト超過であっても、ベネフィットの性質次第では維持しなければならないコミュニケーションチャンネルというものはあります。たとえば私は大変な電話恐怖症ですが、だからといって自分の都合だけで電話回線を切断し携帯電話を叩き壊す訳にはいきません。私にとってはTwitterは今のところ、そういうたぐいのチャンネルです。

 では、最近盛り上がってきた、FacebookやGoogle+はどうか。頼めば招待状をくれるであろうアカウント持ちの人はいますが、私は頼んでいません。
 FacebookやGoogle+の、実名主義やらユーザーインターフェースの極悪さやら、そういうことが理由ではないと思います。
 おそらく単純に、私は、SNSというものからたくさんの果実を得られる段階を、すでに過ぎてしまったのです。

 mixi初期の、あの特有の「何かすごいことが起こっている」熱気は、確かに本物であったと思います。
 私はmixi内部の社会に対して、それほど警戒感を持たずに接することができましたし、色々な人と出会いました。文字通り、「顔を合わせ友達づきあいをする」までに至った人々です。コミュニティの情報は質量ともに満足いくもの(あるいはそれ以上の密度)でしたし、自分の日記も他の人の日記も、頻繁に更新されていきました。
 それはもちろん、半分は初期のヘビーユーザーたちの努力の賜物ですし、残りの半分はmixi運営本部の功績として讃えられてよいものです。
 それまでのOrkutのようなSNSと違い、日本語が安定的に使用できる環境や「日記」というコンテンツ、それなりにわかりやすいユーザーインターフェースなど、適度な安定感と適度な解放感を持つ場を形成し得たのは、紛れもなくmixi運営本部の努力のおかげであり、同時に色々な環境的幸運の結果でもありました。

 mixiはその後、会員数と扱う資本金の増大とともに、徐々にその空気を変化させ、様々な波を引き起こし、結果として初期の熱気を失いました。
 が、これはそれこそ初期の頃から、賢明な人にはある程度覚悟されていたことであり(「mixiの人数がどんどん増えていけば、”外の世界”と変わらなくなる」という言葉を、すでに2005年から私は何度か耳にしていました)、運営局に様々な失敗と問題点があることを踏まえてもなお、あるいは避けえないものであったかも知れないと、私は今では思います。
 そしてもしかしたら、SNSというものの宿命というよりも……もう少し個人的な、いや個人的というには少々大きい単位の、集団的な、段階の帰結のような、気がします。

 mixiに限らず、SNSは、IT技術に敏感な、特定のセグメントがまずコアユーザーとなって盛り上げ、徐々にそれ以外の集団に浸透していくというマーケット分析が一般的のようです。私はそれを否定する材料を持っていません。
 しかし、mixiでコアなユーザーだったその同じ人がTwitter、Facebook、Google+のコアユーザーとはなっていないような気がします。
 むしろ逆に、mixiは使っていたけどしっくりこなかった人や、mixiに入った時にはすでにあの最も活気に満ちた季節は過去のものとなっていた人、などが、TwitterやFacebookで大いに花開いているように思えます。セグメントとしては同じ、あるいはよく似ているのかも知れません。しかし、同じ人ではありません。
 その理由は、もしかしたら結構単純で、「一つの時代を生き切ったものは次の時代に入って生きるのが難しくなる」*ということなのではないでしょうか。つまり、mixi初期の時代を最も深くよく享受した人々は、他のSNS(それには「変化してしまったmixi」さえも含まれる!)で同じ果実を享受することはできないのです。
 二度目は茶番、という言葉がありますが、まさにその通りで、彼らに必要なのはもう少し成熟した場、あるいは狭い場であり、実際彼らはTwitterやFacebookを、そういうものとして扱っているように見えます。そこには「何かが生まれつつある」熱気はありませんが、同窓会の二次会のような、安定性はあります。

 また、今思い起こしてみると、mixiの初期コアユーザーたちの中で目覚ましい光を放っていたのは、mixi以前の「パソコン通信」「fj」といった様々なネットコミュニティの英雄たちではなかったような気がするのです。
 彼らはもちろん、コアユーザーとして基盤を黙々とつくっていましたが、mixiを「かつての会議室のメンバーの同窓会ツール」として扱っていたように思います。彼らのmixiは「昔のメンバーに再会する場」であり、「新しいメンバーを迎え入れる」場ではなかったのではないでしょうか。あるいは、「パソコン通信時代のあれを再現したい」と思った人々は、紆余曲折のすえ、結局は挫折したのではないでしょうか。
(「Macintosh」コミュニティのことが脳裏をよぎります)
 2ちゃんなどではTwitterを「バカ発見器」と呼んで嘲笑う傾向があるというのも、この流れによる現象でしょう。さかんに「Twitterは○○だからダメ、2ちゃんはその点××だから優れてる」と説明する書き込みもあるのですが、私にはそれは、Twitterと2ちゃんの違いから来るのではなく、単に2ちゃんに適応しきった人にとってTwitterは「生ききった後に来てしまった時代」であるから乗れないだけであることを認めず、何とか別の理由をつけようとあがいている姿に見えます。

 パソコン通信やブログや2ちゃんやmixiという過去の場に入れなかった人、入っても活動できなかった人が、変わっていった後のmixiやTwitterやFacebookやGoogle+で花開き、そして果実を得て、ゆっくりとそれらの場は沈静していくでしょう。そしてまた新しい場が。



 ……そんな思考は、もちろん、私の極めて狭小な経験と観察と印象から組み立てたものに過ぎないので、正しいという自信と根拠はありませんし、「そんなことはないよ」という反論や経験談はいくらでも出てくるだろうと思います。
 むしろこの文章は、私自身が、mixiという場にかつてよく適合していて、今他のSNSにがんばって参加しようと思わないのは何故なのかを、大仰な言葉を用いて確認しているだけのものに過ぎない、と言うべきでしょう。


*「一つの時代を生き切ったものは次の時代に入って生きるのが難しくなる」とは、H.S.サリヴァンの言葉

体験知識2011年12月14日

「文句言うならお前がやれよ!」という定番の台詞があります。
 たとえば「最近の邦画はみんな駄目だ、もっと監督が高い意識で……」みたいなことをしたり顔で言う映画ファンの鬱陶しい語りにぶつけられる卵みたいなものです。
 これに対して「医者じゃなきゃ医療問題に文句言っちゃいけないのか、素人や部外者だからこそ見えるものは重要だろう」みたいな反論も定番で、あとは大乱闘、というのがお決まりな訳ですが。

「じゃあお前がやれよ!」というのは、まぁ普通は、それを言っちゃあおしめえよと寅さんが見栄を切りそうな、コンフリクトを内包した言葉であって、あまり言わない方がいい、少なくとも議論としてはうまいやり方ではないのは確かです。
 しかし最近、この言葉には、もう少し深い意味というか、単なる喧嘩の売り言葉と流さない方がお互い幸せになる何かが隠れているような気がしてきたのです。

 能力の高低とはまた別に、人生においては、「やってみないとわからないこと」「当事者になってみないとわからないこと」がたくさんあります。
 心情的な部分というのはその最たるもので、「犯罪被害者の苦しみは体験した者にしかわからない」といった話が繰り返し語られることを思い出すまでもなく、どんなに想像力が豊かな人であっても、「なってみないとわからない」状況というのは結構あります。
 しかしそういう感情や心の部分だけでなく、もっとフィジカルなものやあるいは知識や知恵のような部分でも、結構「一度やってみないとしっくりこない」要素はあるものです。
 脳内シミュレーションというのはどんなに緻密であっても、現実の行動や状況とは、かなりの落差が生じます。スポーツや自己啓発の分野では、イメージトレーニングや視覚化というのはもはや常識となっていますが、あれはきっちり行うと本当にすごい力を発揮する反面、「イメトレっぽいもの」「視覚化のつもりのもの」程度では全然効果をあらわさないものでもあります。逆に言えば、脳内シミュレーションというのは、言うほど簡単ではない、それこそ「やってみないとうまくできない」代物である訳です。

 自分の頭の中やひらめきの段階では、綺羅星のごとく輝いていた物語や詩が、文字にしてみたら絶望的な有り様になるという体験は、少々多感な青春を過ごした文学少年少女なら必ず経験するはずのものですが、そこから己の才能のなさへの嘆きは導き出せても、もっと重要な経験を導き出せる人は多くありません。
 それは、思っていたのと実際にやってみることの落差、やってみて始めてわかる困難というものがあり、その困難をやらずに理解するのは並大抵の脳内シミュレーションでは足りないということです。
 私のような自意識過剰の文学少女などは、つい自分の才能のなさに真っ暗な気分になって、その先の大切なことをスルーしてしまいがちですが、そこで踏みとどまって才能云々ではなく、「やってみて理解した困難」存在の意味を理解したなら、他人を批評したり忠告をしたりする時に、全く違った言動が生まれてくるかも知れません。


 恐らく、「じゃあお前がやれよ!」という言葉が出てくるということは、単なる否定や耳の痛い言葉という類いの苦痛ではなく、「無理解」という溝を示しています。
 本質を突いた有益な批評というものは、痛くとも、言われた側に「腑に落ちた感覚」を抱かせるものですが、かゆくもないところを掻かれる批評というのは、それ自身が正しいものであったとしても、残念ながら意味がないうえに不愉快極まりません。その、「わかりもしないのに言っている」という不快感が、「お前がやれ」という言葉になるのではないでしょうか。
 だから、「じゃあお前がやれよ!」と言われてしまった時、そういう言葉が出てしまった時には、何かこの議論の場にいる人々が理解していない障害が存在するのだ、ということを意識した方がよいのでしょう。そしてそれは「やってみる」と、案外あっさりと共有できるものなのかも知れません。
 そしてその体験の共有は、かけがえのない意味を持つのかも、知れません。


 と言うわけで、「お前がやれよ!」と言われたら、昔の「やってできなかった」トラウマで脊髄反射的に罵り返すのではなく、素直にその通りやってみるのも手かも知れませんよ、どうしてもやれない都合があることならせめて自分の側に何か見落としていることがないか厳しめに自己点検するのがいいですよ。という、結論としてはあまり面白くもない退屈な話でした。

大晦日2011年12月31日

おせちの引き取りに向かいつつ、この日記を書いております。
今年は色々な理由で(主に私が間抜けだったり手抜きしたりしたせい)おせちの種類も少なく、年々年の瀬感がなくなっている年末の中でも最も年の瀬感のない年末です。大掃除は旧暦の年末にやることにしよう。そうしよう。

さて、今年は東日本大震災もあり、スティーブ・ジョブズも亡くなって、自分の周囲が激流に流されていったような一年でした。
私自身はあまり変化なしで、この激動の年に何も変わってないという辺り、何か問題があるような気も、しないでもない訳ですが、まぁありがたいことであります。
私自身は変化なしでしたが、使っているデバイスは、iPad2になり、MacBook Airの最新型になり、iPhone4Sになり、まさに現状望み得る最高の環境になったのではないでしょうか。これであと一年くらいはお水と胡麻かけごはんで生活しないといけないとしても、悔いはないというものです。

ゲームは、万全の体制で迎え撃ったFF13-2がアレでソレだったというあんなこともありましたが(笑)FF11も14も楽しんでますし、零式もなかなかの出来でした(まだクリアしてないけど)。
本は、中井久夫氏の著作集がちくま文庫から出たのはありがたいです。スキャンするなの文章がちくま文庫に載るようになったのはがっかりだけどね。

まあ今年最大の収穫は、部屋が多少片付いたことでしょうか。特に洋服関連。ばっさりいけました。
来年は思い出関連をばっさりやって、さらなるすっきりを目指したいと思います。あとは台所だ……。

とりあえず、来年のことを言うと鬼に笑われてしまうので、来年の抱負とかは来年考えます。
今年もお世話になりました。良いお年を。iPhoneよ、良い落としって変換したがるのは何でだ。私は芸人か。