化石思想保持者 ― 2011年11月02日
微熱が出ていたのですが、おとなしく寝ていたせいか平熱に戻りました。もっとも発熱というのは、免疫活動が活性化している状態らしいので、喉の痛みがおさまってないことを考えると、本当はもっとどかーんと高めの熱が出てくれた方がいいのかも知れませんが。エネルギー不足なんじゃないかと不安におびえつつ、スパイスティーを飲んでおります。
ところで全然関係ない話ですが、私は常々、オタクと呼ばれる人々は、自分が欲望を注ぐ対象に向けるエネルギーの量のみが実は特別なのであって、それ以外のところは全く普通の人だと思っています。そう、普通。よくも、悪くも。なので私は、彼ら彼女らが自分でそう思うほど、あるいは願うほど、特別で変わった存在だとは感じないのです。
それは私が、彼らと同じようなメンタリティを持っているゆえに「変わってると感じない」のではなく、彼らの自分の専門分野以外のものに対する視線や姿勢が驚くほど平凡で「オタクじゃない人と同じ」、という感想になるからに他なりません。
ところが……最近、ネットにあふれるオタクと自称(他称)する人々の言動を目の当たりにした時、私は間違っていたのではないかと思わされることがありました。
オタクとは、欲望の対象に向けるエネルギー量のみが特別で、それ以外が普通の人なのではなく。
むしろ、「一時代遅れたメンタリティ」を保ち続けている人なのではないかと。
そう感じたのは、アニメ声優のファンの一部が、自分がアイドルと崇める女性声優の男性関係が暴露されたとかで、アイドルが男と関係するとは許せないと、ネットに憤懣やる方ない怒りをぶちまけているとかいう話を目の当たりにした時でした。
そこに出てくるのは、処女とか、ビッチとか、他にも思い出したくないので早々に忘れた、今どきそんな単語を持ち出す人がいたの?と唖然とするような時代遅れの概念で。21世紀のこの時代に、女性を処女かどうかでランクづけする、内心でそう思うのはともかく、それを大声で当然の真理ののように叫ぶような人種がまだ先進国にいるなんて! というのが、私の正直かつ率直な感想でした。ここにいるのは生きた化石か? シーラカンスか?
まさかこの概念が、オタク全てを覆うものではないとは思うけれど、その時ふと、もしかしたらオタクというのは、「取り残された人々」なのではないかと……思ったのです。
男尊女卑、女性は処女か母親か娼婦しか認められない、女性は外見と男性から見ての利用価値で序列をつけられる、女性に人格や尊厳があるなんて考えたこともない、よい大学に通ってよい会社に就職して高給をとって美人の「嫁」(妻を「嫁」という、息子の妻を指す表現で呼ぶ意味が私は今一つわからないのだけれど)をもらって子供を育てるのが「リア充」。
これらは、ずいぶん昔におかしな話だよね、と言われて「社会の真実」から「個人の願望」に取り下げられた思考の数々ではなかったか。
こんなことを今更まるで大声で叫ぶオタクという存在は、先祖返りというか、過去の亡霊のようにすでに否定された思想にしがみつく人々なのでしょうか。いや、まさか、本当に?
リビドーというのは決して素直に身体的欲望だけで形成されるのではなく、社会的思想的に影響されて形成されるものです。幼少時の社会状況、そして自分の上の世代の無意識の言動が影響して形成されるのですから、それはリアルタイムに社会にみなぎっている思想だけでなく、少し前の時代に支配的だった思想がひっそりと、影響します。しかも一度形成されるとなかなか変えにくいものです。
つまり多くの人にとってリビドーの形は、「時遅れ」のものと言えます。
特にアニメやマンガ、アイドルを対象にしたオタクというのは、リビドーを前面に押し出す表現形態を選択しがちなので、そういった「時遅れ」の要素が濃縮されて表れるのかも知れません。
……などとつらつらと考え、そして色々書きましたが、実は私は今でも、やっぱりオタクというのは基本的に普通の人だという考えを変えていません。
実際には、一時代前の男尊女卑概念にしがみついているのがオタクの定義でもないでしょう。それを過去の亡霊とも思わずに表出する、自己の価値観への疑いのなさには少々あきれますが、そんな部分もまた平凡の証明だとも一方では思います。
結局のところ、やはりオタクとそうでない人を分けるのは対象への欲望(ただしそれは性的欲望とは限らない)の強さであって、オタクの中にも「自分を振り返ることができる人」や「広い価値観や視野を持てる人」がいる一方で、「自分を全く客観視しない人」や「自分の欲望をあられもなく出してその害悪性に全く無頓着な人」もいる、というだけの話なのでしょう。
もっとも、広い価値観や視野を持てるというのは、すでに平凡ではないようにも思えます。もしかしたら本当は、「オタク」と「オタクでない人」と、「それら二者を越えた人」がいる――というのが正しい表現なのかも知れません。
ところで全然関係ない話ですが、私は常々、オタクと呼ばれる人々は、自分が欲望を注ぐ対象に向けるエネルギーの量のみが実は特別なのであって、それ以外のところは全く普通の人だと思っています。そう、普通。よくも、悪くも。なので私は、彼ら彼女らが自分でそう思うほど、あるいは願うほど、特別で変わった存在だとは感じないのです。
それは私が、彼らと同じようなメンタリティを持っているゆえに「変わってると感じない」のではなく、彼らの自分の専門分野以外のものに対する視線や姿勢が驚くほど平凡で「オタクじゃない人と同じ」、という感想になるからに他なりません。
ところが……最近、ネットにあふれるオタクと自称(他称)する人々の言動を目の当たりにした時、私は間違っていたのではないかと思わされることがありました。
オタクとは、欲望の対象に向けるエネルギー量のみが特別で、それ以外が普通の人なのではなく。
むしろ、「一時代遅れたメンタリティ」を保ち続けている人なのではないかと。
そう感じたのは、アニメ声優のファンの一部が、自分がアイドルと崇める女性声優の男性関係が暴露されたとかで、アイドルが男と関係するとは許せないと、ネットに憤懣やる方ない怒りをぶちまけているとかいう話を目の当たりにした時でした。
そこに出てくるのは、処女とか、ビッチとか、他にも思い出したくないので早々に忘れた、今どきそんな単語を持ち出す人がいたの?と唖然とするような時代遅れの概念で。21世紀のこの時代に、女性を処女かどうかでランクづけする、内心でそう思うのはともかく、それを大声で当然の真理ののように叫ぶような人種がまだ先進国にいるなんて! というのが、私の正直かつ率直な感想でした。ここにいるのは生きた化石か? シーラカンスか?
まさかこの概念が、オタク全てを覆うものではないとは思うけれど、その時ふと、もしかしたらオタクというのは、「取り残された人々」なのではないかと……思ったのです。
男尊女卑、女性は処女か母親か娼婦しか認められない、女性は外見と男性から見ての利用価値で序列をつけられる、女性に人格や尊厳があるなんて考えたこともない、よい大学に通ってよい会社に就職して高給をとって美人の「嫁」(妻を「嫁」という、息子の妻を指す表現で呼ぶ意味が私は今一つわからないのだけれど)をもらって子供を育てるのが「リア充」。
これらは、ずいぶん昔におかしな話だよね、と言われて「社会の真実」から「個人の願望」に取り下げられた思考の数々ではなかったか。
こんなことを今更まるで大声で叫ぶオタクという存在は、先祖返りというか、過去の亡霊のようにすでに否定された思想にしがみつく人々なのでしょうか。いや、まさか、本当に?
リビドーというのは決して素直に身体的欲望だけで形成されるのではなく、社会的思想的に影響されて形成されるものです。幼少時の社会状況、そして自分の上の世代の無意識の言動が影響して形成されるのですから、それはリアルタイムに社会にみなぎっている思想だけでなく、少し前の時代に支配的だった思想がひっそりと、影響します。しかも一度形成されるとなかなか変えにくいものです。
つまり多くの人にとってリビドーの形は、「時遅れ」のものと言えます。
特にアニメやマンガ、アイドルを対象にしたオタクというのは、リビドーを前面に押し出す表現形態を選択しがちなので、そういった「時遅れ」の要素が濃縮されて表れるのかも知れません。
……などとつらつらと考え、そして色々書きましたが、実は私は今でも、やっぱりオタクというのは基本的に普通の人だという考えを変えていません。
実際には、一時代前の男尊女卑概念にしがみついているのがオタクの定義でもないでしょう。それを過去の亡霊とも思わずに表出する、自己の価値観への疑いのなさには少々あきれますが、そんな部分もまた平凡の証明だとも一方では思います。
結局のところ、やはりオタクとそうでない人を分けるのは対象への欲望(ただしそれは性的欲望とは限らない)の強さであって、オタクの中にも「自分を振り返ることができる人」や「広い価値観や視野を持てる人」がいる一方で、「自分を全く客観視しない人」や「自分の欲望をあられもなく出してその害悪性に全く無頓着な人」もいる、というだけの話なのでしょう。
もっとも、広い価値観や視野を持てるというのは、すでに平凡ではないようにも思えます。もしかしたら本当は、「オタク」と「オタクでない人」と、「それら二者を越えた人」がいる――というのが正しい表現なのかも知れません。
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