日本製 ― 2011年10月05日
先日来野菜ジュースを作って飲んでいる訳ですが、古いジューサーが電気ナマズが踊ってるかと思うほど震動する上に、ジュースの中にフィルターの金属やプラスチック部分のかけらがまじるようになってきたので、お蔵入りにしてしばらくブレンダーを使っていました。
ブレンダーは、なめらかなジュースが作れるのですが、さらしで搾って濾す手間が結構つらく、ブレンダーの容器部分がガラス製で重いというのもあって、掃除も大変になってきたなぁ……などと思ってしまい。
そんな時に、何だかくだらないことが重なってイライラしてしまい……してしまい……些細なことからついカッとなって……新しいジューサーを買ってしまいました(笑)。
今回はパナソニック製の、そこそこの値段のするもの。前に使っていた安いものと比べて部品の数が格段に多くて驚きです。日本の厳しい消費者が満足できるジュースを搾るためには、こんなに複雑な機構が必要になるんだ……と間抜けな感想を抱いてしまうほどです。しかも、バナナが搾れないのは予想していたのですが、キウイもイチゴもだめ、りんごも搾る時にはいくつか注意事項が、等々厳しい掟があるという。
おかげで洗うのは結構大変なのですが、しかしさすがに、震動が少なく、部品のかけらが混じるなんてこともなく(笑)おいしいジュースができあがります。
日本製の品物って、でも、こんなに品質を高くするために、何かが犠牲になっているのかなぁ……などと関係のないことを考えたりもしてしまいました。
ありがとう、ジョブス ― 2011年10月06日
最近いつにも増して寝坊気味で、寝ぼけ眼のまま、ぼんやりMacBook AirでTwitterをチェックしていたら、突然タイムラインにとびこんできたニュース。
元アップルCEO、という肩書きに、無限の意味を与えるほどの存在であったあのひと。スティーブ・ジョブスが亡くなったという知らせ。
iPhone4Sの発表の次の日。ほんの1ヶ月少々前には、アップルのCEOを退任していて。偶然なのか、意図的なのか、今は全然わからないけれど、まるで全て見通していたかのように、余命すら知っていて全て準備していたかのようなタイミングで。
「あまりパーフェクトゲームをされると、残された者は参るよ」という言葉は、中井久夫氏が自身の母親を亡くされた時に思ったことだそうだけど、そんな言葉がふとよぎって。
それからTwitterのタイムラインには、たちまち呆然とした、哀悼を示すツイートがあふれて、あっという間にover capasityのクジラが現れて。
私がMacに出会ったのは、大学生の時でした。使いやすいとか直感的とか、そういうことはもちろんだったけれど、とにかく文字の表示がとても綺麗で、本を読んでいるのと同じくらいで、私は初めて、パソコン上で長い文章を書こうという気になりました。
私の人生で、今でも自分の一部だと思える文章はいくつかあるけれど、そのほとんど全てがMacintosh上で作られたものです。特にヒラギノフォントの美しさと言ったら!
そして私を、書籍という、美しくも悩ましい存在の呪縛から解き放ってくれたデバイスも、Appleから生まれました。iPadの上でめくる本のページは快適で、それまで自分が紙の本で結構ストレスに思っていた(けれど気づいていなかった)ことを綺麗に解決してくれました。
今、私はかなりの数の書籍をためらいもなく電子化していますが、それはiPadあってのことです。
今の私自身、今の私の暮らしに、これほど影響を与えた他人はいないかも知れません。彼がいなかったら、私の人生は、ずいぶん違ったものになっていたでしょう。
ジョブスは、癇癪持ちでカッコつけで負けず嫌いで、もしも友達や上司だったら結構苦労を味わいそうな人ですけれど、それでも世界は彼を必要としていたし、彼の作ったものは空気のように、世界に広がり世界を満たしていたと思います。
天の上の神様も、きっとiPadやiPhoneやMacを使いたくなったのかも知れません。
私が橋を渡って彼岸に行く時、きっと彼岸にもiPadがあって、神様がそれを片手に持っているんじゃないかなあ、などと私は想像するのです。
元アップルCEO、という肩書きに、無限の意味を与えるほどの存在であったあのひと。スティーブ・ジョブスが亡くなったという知らせ。
iPhone4Sの発表の次の日。ほんの1ヶ月少々前には、アップルのCEOを退任していて。偶然なのか、意図的なのか、今は全然わからないけれど、まるで全て見通していたかのように、余命すら知っていて全て準備していたかのようなタイミングで。
「あまりパーフェクトゲームをされると、残された者は参るよ」という言葉は、中井久夫氏が自身の母親を亡くされた時に思ったことだそうだけど、そんな言葉がふとよぎって。
それからTwitterのタイムラインには、たちまち呆然とした、哀悼を示すツイートがあふれて、あっという間にover capasityのクジラが現れて。
私がMacに出会ったのは、大学生の時でした。使いやすいとか直感的とか、そういうことはもちろんだったけれど、とにかく文字の表示がとても綺麗で、本を読んでいるのと同じくらいで、私は初めて、パソコン上で長い文章を書こうという気になりました。
私の人生で、今でも自分の一部だと思える文章はいくつかあるけれど、そのほとんど全てがMacintosh上で作られたものです。特にヒラギノフォントの美しさと言ったら!
そして私を、書籍という、美しくも悩ましい存在の呪縛から解き放ってくれたデバイスも、Appleから生まれました。iPadの上でめくる本のページは快適で、それまで自分が紙の本で結構ストレスに思っていた(けれど気づいていなかった)ことを綺麗に解決してくれました。
今、私はかなりの数の書籍をためらいもなく電子化していますが、それはiPadあってのことです。
今の私自身、今の私の暮らしに、これほど影響を与えた他人はいないかも知れません。彼がいなかったら、私の人生は、ずいぶん違ったものになっていたでしょう。
ジョブスは、癇癪持ちでカッコつけで負けず嫌いで、もしも友達や上司だったら結構苦労を味わいそうな人ですけれど、それでも世界は彼を必要としていたし、彼の作ったものは空気のように、世界に広がり世界を満たしていたと思います。
天の上の神様も、きっとiPadやiPhoneやMacを使いたくなったのかも知れません。
私が橋を渡って彼岸に行く時、きっと彼岸にもiPadがあって、神様がそれを片手に持っているんじゃないかなあ、などと私は想像するのです。
大々的処分 ― 2011年10月18日
久しぶりにまた、大整理をしたい!というビッグウェーブが来て、このところ大々的に片づけをしています。
今回は、特に残すものを厳選しているので、この調子がうまく続いて最後まで継続できれば、今までにない成果があげられるんじゃないか……と期待大です。まぁ最後までやってみないとわかりませんが。
今のところは洋服、鞄、靴、スカーフと風呂敷、本と来ていて、やがて書類からCDからDVDからゲームから文房具から、と容赦なく選別していく予定です。
しかし、しつこい茶渋のごとく、減らない体脂肪のごとく、落ちない黒ずみのごとく、かなりしぶとく残っていたモノたちを、今回は思い切ってばっさばっさと処分しているので、久しぶりに棚に余裕ができるとか、モノが棚からはみ出さずきちんと収まっているとかの、「本来社会人としてあるべき状態」が出現しはじめているので、とてもうれしい。というか、今までは片づけてもそういう状態にならなかったのかと怒られそうですが。
特に本が、「本棚に収まる量」になっているのが大きいです。
私は本を食べて生きてきたような活字中毒人種なので、本との腐れ縁は長いのですが、こうやって本棚に収まるだけの量を選んでみると、自分がいかに、「本をたくさん持ってる状態を自己価値の向上にすり替えて疑似安心感を得てきたか」というのを実感します。
要するに、本を大事にしてるから捨てられないのではなく、本を所有することで自分の能力が保証されるような錯覚によってプライドを保っていたからに過ぎないのです。
まぁ、かなりの量の本を、捨てるのではなく電子化するからこそ、踏み切れた部分も多いのですけどね。スキャン代行サービスがなければ、私はかなりの本を売ることにしたはずなので、スキャン代行サービスは本当に、出版業界にとってはむしろ福音のはずだよ……と思います。
本という存在の、数々の欠点を踏まえてなお、まだ本に付き合おうと思えるのは、本の電子化がぐっと簡単になったおかげです。でなければ、私はとっくの昔に、本を買うことをやめてしまったでしょう。
私も、人生で自分の思うがままに使える時間というのが、そうたくさんは残っていないと思うので、手持ちのモノの分量が減っていくのは、単純に気持ちが軽くなっていいものです。
時間が残ってない、というのは、別にあきらめているとか何か病気をしたとかいう次元の話ではなく、単純に、今の自分が未来永劫続く訳ではない以上、無駄に時間を遣うのはもったいないなぁというくらいの気持ちです。心配されるといけないので、念のため。
ふと小さい頃のこととかを思い起こしてみると、私が家や部屋の掃除は昔から大嫌いだったのですが、学校の掃除は好きではないにせよまぁやれなくもないというものでした。
それは、学校という空間が、必要最小限のモノで構成されていて、掃除がしやすかったからではないかと思います。
なので、今住んでいる家も、もしかしたらモノがうんと減ったら、掃除がしやすいという気持ちになって、掃除が好きではないにせよ大嫌いというほどでもないよ、というくらいになれるかも知れません。
そんな状態を夢見つつ、明日は書類を大々的に整理したいと思います。
今回は、特に残すものを厳選しているので、この調子がうまく続いて最後まで継続できれば、今までにない成果があげられるんじゃないか……と期待大です。まぁ最後までやってみないとわかりませんが。
今のところは洋服、鞄、靴、スカーフと風呂敷、本と来ていて、やがて書類からCDからDVDからゲームから文房具から、と容赦なく選別していく予定です。
しかし、しつこい茶渋のごとく、減らない体脂肪のごとく、落ちない黒ずみのごとく、かなりしぶとく残っていたモノたちを、今回は思い切ってばっさばっさと処分しているので、久しぶりに棚に余裕ができるとか、モノが棚からはみ出さずきちんと収まっているとかの、「本来社会人としてあるべき状態」が出現しはじめているので、とてもうれしい。というか、今までは片づけてもそういう状態にならなかったのかと怒られそうですが。
特に本が、「本棚に収まる量」になっているのが大きいです。
私は本を食べて生きてきたような活字中毒人種なので、本との腐れ縁は長いのですが、こうやって本棚に収まるだけの量を選んでみると、自分がいかに、「本をたくさん持ってる状態を自己価値の向上にすり替えて疑似安心感を得てきたか」というのを実感します。
要するに、本を大事にしてるから捨てられないのではなく、本を所有することで自分の能力が保証されるような錯覚によってプライドを保っていたからに過ぎないのです。
まぁ、かなりの量の本を、捨てるのではなく電子化するからこそ、踏み切れた部分も多いのですけどね。スキャン代行サービスがなければ、私はかなりの本を売ることにしたはずなので、スキャン代行サービスは本当に、出版業界にとってはむしろ福音のはずだよ……と思います。
本という存在の、数々の欠点を踏まえてなお、まだ本に付き合おうと思えるのは、本の電子化がぐっと簡単になったおかげです。でなければ、私はとっくの昔に、本を買うことをやめてしまったでしょう。
私も、人生で自分の思うがままに使える時間というのが、そうたくさんは残っていないと思うので、手持ちのモノの分量が減っていくのは、単純に気持ちが軽くなっていいものです。
時間が残ってない、というのは、別にあきらめているとか何か病気をしたとかいう次元の話ではなく、単純に、今の自分が未来永劫続く訳ではない以上、無駄に時間を遣うのはもったいないなぁというくらいの気持ちです。心配されるといけないので、念のため。
ふと小さい頃のこととかを思い起こしてみると、私が家や部屋の掃除は昔から大嫌いだったのですが、学校の掃除は好きではないにせよまぁやれなくもないというものでした。
それは、学校という空間が、必要最小限のモノで構成されていて、掃除がしやすかったからではないかと思います。
なので、今住んでいる家も、もしかしたらモノがうんと減ったら、掃除がしやすいという気持ちになって、掃除が好きではないにせよ大嫌いというほどでもないよ、というくらいになれるかも知れません。
そんな状態を夢見つつ、明日は書類を大々的に整理したいと思います。
片づけ進行中 ― 2011年10月25日
何度目かの、私の人生にやってきた片づけのビッグウェーブを、今回は何とかものにしたくて、先週に引き続きひたすら「今の自分が必要としているもの」だけを残して後は手放す作業をしています。片づけの聖域たる本をばっさりと整理したおかげで、だいぶ踏ん切りがつき、他の趣味のものもかなり処分できてきました。
まだ本丸とも言うべき、キッチン用品や様々な記録類や思い出の品は遠くの山脈のごとくそびえていますが、遠からぬうちに、彼らもあるべき場所へ配置できるような気がしています。
こんな風に、片づけに「めどがつきそう」という感じを味わえるのは、ほとんど生まれて初めてで、これは快感です。今までの片づけは、めどはつかないけど、体力や気力の限界で終わるというのがほとんどでしたから。
今持っている衣類や、アクセサリーや、本や、未読のものが、自分が完全に把握できる視界の中で一覧できると、よくしたもので、飢餓感がすっと薄れていきます。
もちろん新しいものや素敵なものへの物欲は、なくなる訳ではないのですが、けれどあの「服はいっぱいあるのに着る服がない!」みたいな、飢餓感としか言いようのないおかしな不全感はなくなります。
自分でハンドリングできる範囲ってこれくらいなんだなぁと、思い知る年齢になってきたようです。
私が、今の自分の思考や価値観や状態を保っている残り時間は、たぶんあと8000日くらいだと思うのですが(そこで死ぬ、という意味ではなくて、それを過ぎたら今とは考え方やライフスタイルが色々と変わるんじゃないかなぁという予想です)それを濃くするために、がんばって片づけたいと思います。
まだ本丸とも言うべき、キッチン用品や様々な記録類や思い出の品は遠くの山脈のごとくそびえていますが、遠からぬうちに、彼らもあるべき場所へ配置できるような気がしています。
こんな風に、片づけに「めどがつきそう」という感じを味わえるのは、ほとんど生まれて初めてで、これは快感です。今までの片づけは、めどはつかないけど、体力や気力の限界で終わるというのがほとんどでしたから。
今持っている衣類や、アクセサリーや、本や、未読のものが、自分が完全に把握できる視界の中で一覧できると、よくしたもので、飢餓感がすっと薄れていきます。
もちろん新しいものや素敵なものへの物欲は、なくなる訳ではないのですが、けれどあの「服はいっぱいあるのに着る服がない!」みたいな、飢餓感としか言いようのないおかしな不全感はなくなります。
自分でハンドリングできる範囲ってこれくらいなんだなぁと、思い知る年齢になってきたようです。
私が、今の自分の思考や価値観や状態を保っている残り時間は、たぶんあと8000日くらいだと思うのですが(そこで死ぬ、という意味ではなくて、それを過ぎたら今とは考え方やライフスタイルが色々と変わるんじゃないかなぁという予想です)それを濃くするために、がんばって片づけたいと思います。
鑑賞力 ― 2011年10月31日
先日、軽鴨の君の実家で、ご家族とお会いする機会がありました。
軽鴨の君の弟さんは、多趣味な方で、そのたくさんの趣味のひとつがワイン鑑賞です。で、その日たまたま、「あんまりおいしくないワインがあるんだけど、これはどういうものなのか」という疑問とともに、その場にとある赤ワインが出されました。
それは弟さんによると、あまり長い熟成には向かないタイプの赤ワインで、飲み頃はもうだいぶ過ぎてしまったということでした。確かに口に入れてみると、ちょっと気が抜けた飲み物のような、とりとめのない中に茫洋と酸味が浮かんでいるような味わいで、決して素晴らしいとは言えません。
ところが、そのワインはただ飲み頃を過ぎたのではなく、たまたま一定の熟成をしていて、香りは味から想像もつかないほど深いものでした。よく熟れた果物のような、あるいは太陽をいっぱいに浴びたドライフルーツのような、バルサミコ酢のような、甘く複雑な香りが何重にも織り合わされた、ちょっとなかなか出会えないような芳香をかもしだしていたのです。
冷蔵庫から出されたばかりだったワインが、少し温度が上がって酸味がまろやかになっていくと、これはこれでなかなかおいしい、味わいのあるものになってきて、決してよい状態ではないそのワインを、みんなで楽しくいただいたのでした。
弟さんが言うには、日本酒を好むような人はワインの酸味や渋味を嫌う人が多く、そういう人がおいしくないワインと言うものは大抵、酸味が強く出ているそうです。
ワインのおいしさというのも、ある程度は学習というか、その世界のおいしさの形を自分で理解する力が大切で、それが身に付いてくると、今回飲んだような決して良いとは言えないワインでも、その個性や良さが見えてきて、それぞれに楽しめるようになってくるのだとか。
振り返って思うのですが、「高い鑑賞力」という能力は、悪いものを除いていく、批判していくというよりも、そういう「良さを積極的に構築していく力」から成り立っているような気がします。
読んだ時に心を打たれる、すぐれた批評というのは、往々にして好意的な批評であることが多いのも、そのためなのでしょう。自分にとってつまらない、文句を飛ばしたくなる作品が、時々そういうすぐれた批評で全然違う見方を提示されているのを見ると、私はつまらないのはその作品だったのではなく、見る力のなかった自分であったのだと痛感させられます。
もちろん、そういった能力を意識的に構築していくために、やはり、問答無用にすぐれた存在に一定数以上触れていくというのは必要なのでしょうが、それはあまり神経質に選びわけていくというよりも、数の力でたくさん触れていくうちに、何とでもなるような気がします。自分に学ぼう、能力を伸ばしていこうという意志さえあれば。
結局のところ、心を開いていいところを見つけていくという、言い古された心の姿勢には、やはり偉大な効能があるということなのでしょう。
軽鴨の君の弟さんは、多趣味な方で、そのたくさんの趣味のひとつがワイン鑑賞です。で、その日たまたま、「あんまりおいしくないワインがあるんだけど、これはどういうものなのか」という疑問とともに、その場にとある赤ワインが出されました。
それは弟さんによると、あまり長い熟成には向かないタイプの赤ワインで、飲み頃はもうだいぶ過ぎてしまったということでした。確かに口に入れてみると、ちょっと気が抜けた飲み物のような、とりとめのない中に茫洋と酸味が浮かんでいるような味わいで、決して素晴らしいとは言えません。
ところが、そのワインはただ飲み頃を過ぎたのではなく、たまたま一定の熟成をしていて、香りは味から想像もつかないほど深いものでした。よく熟れた果物のような、あるいは太陽をいっぱいに浴びたドライフルーツのような、バルサミコ酢のような、甘く複雑な香りが何重にも織り合わされた、ちょっとなかなか出会えないような芳香をかもしだしていたのです。
冷蔵庫から出されたばかりだったワインが、少し温度が上がって酸味がまろやかになっていくと、これはこれでなかなかおいしい、味わいのあるものになってきて、決してよい状態ではないそのワインを、みんなで楽しくいただいたのでした。
弟さんが言うには、日本酒を好むような人はワインの酸味や渋味を嫌う人が多く、そういう人がおいしくないワインと言うものは大抵、酸味が強く出ているそうです。
ワインのおいしさというのも、ある程度は学習というか、その世界のおいしさの形を自分で理解する力が大切で、それが身に付いてくると、今回飲んだような決して良いとは言えないワインでも、その個性や良さが見えてきて、それぞれに楽しめるようになってくるのだとか。
振り返って思うのですが、「高い鑑賞力」という能力は、悪いものを除いていく、批判していくというよりも、そういう「良さを積極的に構築していく力」から成り立っているような気がします。
読んだ時に心を打たれる、すぐれた批評というのは、往々にして好意的な批評であることが多いのも、そのためなのでしょう。自分にとってつまらない、文句を飛ばしたくなる作品が、時々そういうすぐれた批評で全然違う見方を提示されているのを見ると、私はつまらないのはその作品だったのではなく、見る力のなかった自分であったのだと痛感させられます。
もちろん、そういった能力を意識的に構築していくために、やはり、問答無用にすぐれた存在に一定数以上触れていくというのは必要なのでしょうが、それはあまり神経質に選びわけていくというよりも、数の力でたくさん触れていくうちに、何とでもなるような気がします。自分に学ぼう、能力を伸ばしていこうという意志さえあれば。
結局のところ、心を開いていいところを見つけていくという、言い古された心の姿勢には、やはり偉大な効能があるということなのでしょう。
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