麻婆ソース2011年09月01日

 何だかやけに眠たい一日でした。夕方に40分ほど仮眠をしたのですが、重だるい感じです。風があまりなくて空気が貼り付いてくるような感じだからでしょうか。
 昼ご飯に、カノウユミコさんのレシピのズッキーニのマーボー丼の、マーボーソースを作りました。丼にするほどごはんの量は多くないので、煮物という感じに。
 ねぎや生姜、しいたけやクルミがたっぷり入っているので、食べ応えがあって、しっかり食べたいなぁという気分にちょうどいいおかずです。ついでに野菜ジュースの搾りかすも入れて。
 ……そうしたら、思ったよりも量が増えて、一食では食べ切れないくらいになってしまいました。もし私がお酒を飲む方だったら、これをおつまみに晩酌くらいできそうです。
 ここ数日で食べる量は減っているのに、作る量は減らないので、どうもこういうことが繰り返されている気がします。何かいい方法はないものでしょうか……。

雨女2011年09月02日

 何故か、ぼんやりしていたせいか、思ったよりお昼ご飯の量が多くて空腹感がなかったのか、夕飯を食べずに過ごしてしまいました。軽鴨の君が今日は仕事で遅く、自宅でごはんを食べなかったせいもあります。
 あとは、何故か非常にだるくて、昼にずっと横になっていたせいもあったのでしょう。

 明日から平泉に一泊で出かけてくるのですが、ご存知の通りの台風襲来で、どうなることやら不安です。私は実は、そこそこな雨女で、洗濯物を干した途端に雨が降り出すなんていうコントのような出来事に頻繁に遭遇する人間なので、今更驚きはしないのですが……。
 ちなみに入学式・卒業式・入試・運動会・遠足・合宿・旅行全てにおいて、雨天順延・雨天中止・積雪の経験アリです……。

 まぁ悩んでも台風がいなくなる訳ではないので、淡々と準備をして、淡々と過ごしていました。
 何事もなく台風が通過しますように。

れんこんと青大豆のハンバーグっぽいもの2011年09月07日

 平泉・遠野をめぐる一泊旅行が終わって、太って帰ってきました。まぁ体重はすぐに旅行前の水準に戻ってくれましたが、このアップダウンの激しさは我ながら心配です。
 雨女威力が炸裂したらどうしようと思ったものの、同行の方の念力のおかげで天候に恵まれ、暑過ぎず寒過ぎずで助かりました。
 しかし、意外と疲れていたようで、帰宅してから本調子に戻るまで結構時間がかかってしまいました。

 今日はお昼にちょっと手をかけたものを作りたくなって、れんこんと茹でた青大豆と、野菜ジュースの搾りかすをフードプロセッサーで細かくして、ハンバーグのようにまとめてごま油で焼いたおかずを作りました。味噌と練りごまを入れたので、味付けはそれだけ。野菜ジュースが青菜系のものだったので、緑色のハンバーグになりました。
 れんこんと青大豆だけで、つなぎのものを入れていなかったので、焼くのがちょっと大変でしたが、薄味のほっこりしたおかずになって、なかなかいいものでした。まぁ、肉のハンバーグに慣れた人には、全然ハンバーグじゃない食べ物でしょうけれど。今度は刻んだ玉ねぎでも入れようかな。

百個2011年09月11日

 先日、ワールドビジネスサテライトで、「夫婦で持ち物を100個と決めて生活している」というライフスタイルが紹介されたそうです。
 観た人のお話だと、2人で皿2枚、コップ2個、服20枚といった感じだったそうです。
 うーん、すごい。私だと、本だけで100個は余裕で越えてしまう訳で。

 モノに囲まれた片付けられない生活をしている私ですが、何故か定期的に「ミニマムサイズの生活」をしたくなる時があって、私が旅行をする理由の1/3くらいはそこにあります。自分の生活をなるべく変えずに、いかに少ない道具立てでやっていけるかを考え、わずかながらも実践するのが、好きなようです。
 で、せっかくこういう話題を耳にしたので、100個……は無理でも、100種類というか、100項目でやれるかなぁと思考実験をしてみたのですが、かなりざっくり甘く項目分けをしてみても駄目でした。
 自分がいかに大量のモノに囲まれているかを実感した思いです。これでも一年前くらいに発作があってずいぶんモノを処分したのですけれど。まだまだですね。

 何とか、もっと減らせないかなぁという気分が、また高まってきました。また色々と捨てようかな……。

解毒2011年09月19日

 たまたま何かの調べもので、あるブログのエントリーを目にし、なかなか面白そうだったので他のエントリーにも目を通してみた。
 そうしたら、割と最新の方のエントリーで、人間関係で陥りがちな罠について、実例を含めて説明してほしいという読者の要望から書き下ろされていたものが出てきたのだが、それが何ともはや、ものすごい毒々しさだったのである。それは、彼女と母親との葛藤についての彼女の視点の説明で、彼女がいかに、母親に巧みに支配され、洗脳され、利用され、人格と尊厳を踏みにじられてきたか、そういった種類の人間がいかに周囲の人間に害となるのか、を述べたものだった。
 他のエントリーも、他者・社会への攻撃や反論がつらねられた、決しておとなしい優しい内容ではないのだけれど、その関連エントリーは際立っていた。何といえばいいのだろう。それは毒、しかも「残酷な内容を扱っているから毒である」というものではなく、「その存在自体が毒」としか言いようのないものに、私の目には映った。

 家族という関係には無限の形があるから、実際には癒しどころか、修羅場そのものの代物になることはある。そしてまた、そういった修羅場で殺し合う家族関係が、では憎しみと災厄のみで繋がれているのかと言えばそうとも言えず、憎悪に塗りつぶされているように見える中にひっそりと優しさや愛がひそんでいることもない訳ではない。だから単純に言葉通りに受け取るのは間違いなのだろう。
 あるいは、そのブログを書いていた彼女の心象風景は、まさに、子供を道具のごとく利用する悪魔のような存在から艱難辛苦の末にようやくサバイブしたというものであって、彼女の説明が偏っているとか間違っているとかいう訳でもないということも十分あると思う。

 だが、やはりそのエントリーは、ない方がよかったのではないかと思わずにはいられなかった。読み手にとっても、そして書いた彼女自身にとっても。


「解毒」されていない体験を、たとえ自己セラピーの意味があったとしても、ブログという場に紡ぎ出すのは、果たしてよいことなのだろうか。

 人間は多かれ少なかれ、生きていく過程で毒(という言い方が悪ければ異物)との接触を通り抜けなければならない。
 それに対する耐性も、反応も、人それぞれでそうそう簡単に一律にくくる訳にはいかない。だがある程度の健康性を保って日常を営んでいくためには、人生の中で接触に抱えざるを得なかった「毒」を、自分の中で「解毒」することが不可欠である。
 解毒は、毒を解すと書く。消毒・殺菌ではない。そのやり方もまたそれぞれではあるが、「解毒」されているかどうかを判断することは簡単にできる。表出された時に、ひとに、十分以上の余裕を持った状態での対応をさせることができるもの、それは「解毒」されている。「ひと」というのは、「思い出した時の自分自身」も含まれる。
 かつての自分の過去の愚行悪行を振り返った時、冷静な気分でいられずいたたまれなくなることはないだろうか。逆に、振り返った時に、むしろ微笑ましさを覚えたり、そこまではいかなくとも「そんな時代もあったねと」いう気分になる愚行もある。同じような状態を、他人の言動に接触した時にも、誰しもが経験したことがあるのではなかろうか。
 この解毒がうまくできなくて(解毒と消毒滅菌を間違えて)、あるいは解毒の過程として(結末や目標ではない)、他人を一方的に悪者に仕立て上げたり、体験自体を捏造変容させたり、精神疾患やそれに近い状態になったりすることも、誰にでも起こり得ることだ。


 私自身は、書くことが呼吸のような人間だと常々言っているし、また「書く」こと自体が解毒作業であり、非常に有用なセラピーツールになることも実感している。
 書くということは、思考の無数の渦というか、霧というか、空気やオーラのようにただよっている不可視の何かを、減圧し扱いやすいように固定し可視化してくれる。それが、毒の忌まわしさや目鼻のない扱いにくさを、「意味あるもの」に転換してくれる。書いているうちに自分の思考がまとまり、なすべきことがはっきりするというのは非常に基本的な体験だ。作家は「書いているうちに勝手に話が出来てくる」と言い、私もそれはよく経験する。同時に、夢のようなきらきらした体験や感情やアイデアが、文章化したために「人間技」程度に「落ち着いてしまう」ことも、しょっちゅう経験することだけれども――。

 だが全ての面において善なるものは存在しないように、「書く」ということにも、陥穽は存在する。
 ひとは書くことによって、自分の内面を扱える状態に飼いならすことができるが、今度は逆にその書いたものによって影響される。

 毒の中には、ただ体内を通過していくだけで、吸収などされないものもたくさんある。ひとの感情はフラッシュのようなもので、それ自体は散発的で一過性の代物だ。
 臥薪嘗胆などという言葉もあるけれど、何かに猛烈に腹が立っても、三日経てばけろりと忘れ、一ヶ月もすれば怒ったこと自体を忘れるのは、ごく当たり前の健康的な状態である。薪の上に寝て苦い肝を舐め続けなければ、屈辱を「解毒せず」に精神に保てないのが、人間というものなのだ。
 だが書くという行為が、火打石から飛び出した感情の火花に火床を与えてしまうこともある。書いたものは、ただ物理的に残るというだけでなく、書くこと自体によって記憶と精神の中に整理された状態でバックアップされてしまう。薪や肝の役割を、「書くこと」が果たしてしまう訳だ。

 もちろん、先に述べたように、書くことが解毒になる過程においては、そういう「毒」を毒のままで、目鼻をつけるために、嘔吐するようにさらけだす行為が必要になることもある。カウンセリングや精神疾患の治療は、だからこそ専門的な訓練を必要とする場なのだ。
 そしてもっとカジュアルに、深刻ではない状態で、友達に愚痴をこぼすという「書かないけど言語化する」やり方や、日記(コンテンツジャンルとしての日記ではなく、本来的な意味での日記)や走り書きや「人に見せない」文章として「書く」というやり方もあって、これはものすごく長い長い歴史を持っている。
 この中で、実は一番害が少ないのは、「友達に愚痴をこぼす」というやつではなかろうか。しかも、愚痴を聞く相手にとっても。
 実は、面と向かって一対一で会話しながら愚痴を聞くというのは、同じ人間が書く、「対象を限定しない表現としての愚痴」を読むよりも、はるかに精神衛生上はラクである。もちろん頻度と時間の長さと質と、相手との関係性によるが。

 恐らく、一対一の時は、相手と自分の関係性があり、また自分が聞くことの意味があることもわかるからだろう。愚痴を言う相手というのは、実は誰でもいいという訳ではない。その相手として選ばれることが、常に幸福だとは言わないが、常に不幸という訳でもないのである。むしろそこに意味を感じることによって、愚痴を上手に扱うことも可能になる。
 いざとなれば、会話であれば自分から話すこともできるし、プロのカウンセラーでない限りは「その場限りのこと」で済む、という側面もある。話す方も、聞いた方も、その言葉を後生大事に抱える必要はなく、場が消えるのと同じタイミングで風化させてしまって構わないのだ。

 強調しておくが、常に全ての「目の前の相手に愚痴を言う行為」が無害であるという訳ではない。人を確実に害する愚痴、解毒どころか毒を拡大再生産するケースは確実に存在する。だがそれは、多くの人が恐れるほどは、割合としては多くはないと思う。

 本来の、本当の意味での、つまり他人に見せることを全く考慮しない文章としての「日記」においては、「文章化することで、毒を解毒されてない状態で固定してしまう」という危険性は残るが、「人に見せない文章」というものは精神の中では「人に言わないこと」と同義であるから、自分が気をつけてコントロールすることができれば、その毒の固定化から逃れることも可能になる。
 恐らく、「自分以外は見ていない、書かれた言葉」というのは、客体化された「他人としての自分」に転化することが容易な存在だからだろう。

 ひるがえって、ネットのような場での、対象を決めていない愚痴は、非常に嫌な表現を使うが、とにかく汚物がそこにあって、掃除がされていないような印象を与える。それこそ「毒」が、そのままの状態で、置いてあるようなものなのだ。関係性を失った、汚物でしかない、毒。
 そしてその毒は、発言者に対するイメージとして固定してしまう。その場限りの感情の昂ぶりではなく、もっと確実で強固な「発言者の一部」として定着してしまう。発言者は、人に見せずに葬り去ったつもりの一時的な汚物との間に、むしろ自らの手でしっかりと鎖を繋いでしまう。
 これは、「愚痴を人に聞かせるのは悪いから……」という優しい気遣いでTwitterやブログを愚痴の吐き出し場所にしている人には結構意外な、そしてショックなことかも知れないが、一対一で会話している時に愚痴を聞くよりも、ネットで愚痴を見る方が、受け手の精神衛生には悪いことは多い。少なくとも私はそうだ。ネットの愚痴を見ると時々、私に電話するか、せめてメールでもくれる方が楽なのに、と思うことさえある。

 なぜ対象の決まってない「ネット上の愚痴」は厄介なのか。
 それは「表現」だからだ。一時的な感情の発散ではなく、恒久的なものとして、自己の確実な一部として、自分が責任を持つ(望むと望まざるとに関わらず)存在だからだ。
 解毒できていない、「毒」の状態を、そのまま、「自己表現」として出してしまうこと。それは、毒を毒のまま自分の永遠の一部として持ち続けてしまう行為にほかならない。


 それの何が悪い? 毒は私の一部、毒こそ私だ、私は毒と汚物の中でのたうちまわっていくのだ。そう宣言する人ももちろんいるだろう。
 解毒されていない「毒」のままの表現は、毒だけあってインパクトに充ち満ちていて衝撃的で、余裕のない反応を導きだす。それはほとんど、生理的な反応だ。だからこそ、それを好んで多用する「表現者」も(プロアマ問わず)多数いる。
 だが実際にはやはり、解毒された状態で紡ぎ出された表現の方が、色々な意味で寿命が長く、必要な人のところへ必要なものを届けるようだ。
 毒のまま表現を浴びせ、「解毒作業」を受け手がいちいちやり、そのカタルシスによって支持される作品もあるが、それはどこか、嗜癖的な雰囲気を帯びている。愛ではなく、依存でその表現にしがみつく受け手を生産する作品、とでも言うような。


 他人に見せることが決定づけられている場は、やはり、「解毒されているもの」を扱う方が長い目で見て互いのためになるのではないか。
 どんなに自分が訴えたいことにとって重要で根幹を成すテーマであっても、いやそうであるからこそ、解毒できていないものを「他人への言葉として書かないで持ち堪える」力は、非常に重要な要素なのだ。本当に伝えたいのなら。傷を舐めあう共依存ではない関係を、受け手との間に築きたいなら。

 というよりも、解毒されたもの、人に余裕のある状態で様々な感情や思考や感覚を呼び起こさせるもの、余裕のある状態にも関わらず強く感動できるものこそが、「素晴らしい表現」であるのだろう。
 読む人を不毛な解毒合戦に巻き込まないためにも、そして表現者自身の心の産毛のようなものを擦り切れさせないためにも、毒のなまなましさに頼らなければ表現できないと思ってしまうことは、まだ表現するべき段階には達していないと認めるべきなのだ。そう認めることは、結構、難しいことなのだけれど。