権謀術策2011年07月10日

 九州電力が、玄海原発の運営再開の理解を求めるテレビ番組にやらせを仕組んでいた事件を見ると、何と言うか、権謀術策というものを甘く見ている人が多いのかなぁと思わずにはいられません。

 イベントごとや説明会などやることになれば、ああいうサクラや演出などは割と普通にあるものなので、たぶん九州電力としてもその一環で、あまり深く考えもせずに当たり前のようにやったような気がします。まぁ、みんなやる、普通のことだよね、みたいな。
 問題は、それが明らかになった時に部外者にどんな印象を与えるかをまるで考えていなかったらしいこと、そしてそれが決して明らかにならないための配慮をまるでしていなかったように見えること、です。

 たまに悪事が発覚した時に、
「こんなのみんなやってる当たり前のことじゃないか。どうして自分だけが責められる」
というような弁明が漏れたりしますけれど、そんな発言が出てしまうこと自体、その人が「そのことをやってはいけなかった」証明なのだと思います。
 人間の社会には、あってはならないけれどなくてはならない、という「否認すれど捨てられず」な要素は必ずあるものです。しかしそれは、捨てられることはないとしても、決して日の当たるところで拍手喝采で認められることはありません。
 そういった要素は、もし日の下に出てしまうようなことがあれば、一瞬にして全てを否定されます。
 それがみんながやる、普通のことのように見えるものであっても。その危うい境界をぎりぎりで切り抜けていく能力と覚悟が、そういった領域に住まう人間の求められるものなのでしょう。

 そしてあの九州電力のやらせ行為も、権謀術策としては実に幼稚なものだけれど、ひとつの権謀術策という「日の当たらないもの」である以上、その宿命からは逃れられないのです。

 日の下に明るみになってしまった、ばれてしまった権謀術策ほど惨めで有害なものはありません。
 ばれたらおしまいだからこそ権謀術策は大変難しく、意味を持つのです。それは安易に効能だけを見て振り回すものではありません。明るみになった時に「みんなやってる」という言い訳をしたくなる人には、もともと扱えない武器なのです。


 手品のトリックだって一山いくらで売られ、ワイドショーが政治家の裏の意図を取り沙汰し、「業界裏話」を普通の人が雑学知識として得々と話す社会に、私たちはいます。
 そういう社会の中にいると、ふと「表舞台にはあらわれないもの」というものに対して、それがスポットライトを浴びたってどうってことはないような、そんな錯覚を抱くのかも知れません。
 けれどおそらく、本当にそういうものを扱う人というのは、それが錯覚以外の何物でもなく、「決して表にはあらわれてはいけないもの、表れた時は死と破滅を意味するもの」があるということを骨の髄まで知っているのではないかと思います。

 かつて中井久夫氏は、精神科医の自己規定として「外人傭兵」と「売春婦」を取り上げ、さらにフロイトの「きみは二階の陽光をたのしみたまえ、ぼくは地下室で仕事をする」という名言を引いていました。

 おそらく、権謀術策は、それが明るみになってしまうような人が扱ってはいけないものなのでしょう。それは「ばれなきゃやってもいい」というような安易な結果論、運に道を委ねることとは、全く異なるのです。
 もしその苦痛を引き受ける覚悟、言わずにおく力、決して認められないことに耐え続ける力がないのなら、そういった「表に出ることのない」ものに手を出すことなく、どこどこまでも「まっとうな」もので勝負していく方が、結局は最善なのだと思います。

 悪魔との取引は、魂を捧げなければならないのです。けれど、魂を捧げるということに対して、覚悟はおろか、そもそも知ってすらいないのに、悪魔と取引したがる人は、意外に多いのかも、知れません。