一万時間 ― 2011年03月20日
先日読んだ本で、「誰でも、どんなことでも、やり続けた時間が一万時間を超えた時、悟りのようなものが訪れ、その道の達人になれる」というようなことが書いてありました。
後で軽鴨の君に話したら、どうやらオリンピック選手などについてもたまに言われるようで、意外と知られている話なのかも知れません。
一万時間、というと、何となく手が届く短い時間のようにも思えますけれど、実際には一年365日、土日も祝日もなく毎日欠かさず1時間何かをしたとするならば、27年と少しかかる計算です。毎日2時間ならば14年弱。
もし5年でその境地に達しようとするならば、毎日休みなく6時間近くを捧げなくてはならないことになります。
楽器演奏などが、「小さい頃から始めなければ圧倒的に不利」と言われるのは、こういう側面があるのでしょうか。
その域に達するまでに、14年とか27年とか言われると、もう遅過ぎるというか先がないというか、私のような若くない年齢に達した人間からすると、希望など何もないような気分になってしまいますけれど、それは「達した先」の時間を期待するからかも知れません。あるいはもっとわかりやすく、それで一発当てようとか、名をあげようとか、そういう目的から逆算するから、かも。
けれど、「悟る」ことを目的そのものに置いてしまえば、そんなことを気に病まなくなるような気がします。
一万時間を、ただひたすら何かの手段として耐えて通過するものと思わないで、旅の道中のようなそれ自体こそが大切なものだと思えるなら、一万時間を過ぎた時に若くなかろうと、定年過ぎであろうと、死の間際であろうと、あるいは生きている間にその一万時間を超えなかったとしても、かまわないと思えるのではないかと。
私が「書く」ということを意識的に始めたのは中学生の頃ですが、一定のブランク(書かなかった訳ではないのですが自分の中で空白になっている時期)があるので、まだ一万時間には達してないと思います。
もしかしたら、一万時間に達する前に、私の生涯の終わりが(思いもしない形であっけなく)来ることもあるのかも知れませんが、それでも一万時間を目指して、淡々と、書いていくしかないのだろうと思います。たぶん、占いとか、他の色々なアーティスティックな行為についても。
後で軽鴨の君に話したら、どうやらオリンピック選手などについてもたまに言われるようで、意外と知られている話なのかも知れません。
一万時間、というと、何となく手が届く短い時間のようにも思えますけれど、実際には一年365日、土日も祝日もなく毎日欠かさず1時間何かをしたとするならば、27年と少しかかる計算です。毎日2時間ならば14年弱。
もし5年でその境地に達しようとするならば、毎日休みなく6時間近くを捧げなくてはならないことになります。
楽器演奏などが、「小さい頃から始めなければ圧倒的に不利」と言われるのは、こういう側面があるのでしょうか。
その域に達するまでに、14年とか27年とか言われると、もう遅過ぎるというか先がないというか、私のような若くない年齢に達した人間からすると、希望など何もないような気分になってしまいますけれど、それは「達した先」の時間を期待するからかも知れません。あるいはもっとわかりやすく、それで一発当てようとか、名をあげようとか、そういう目的から逆算するから、かも。
けれど、「悟る」ことを目的そのものに置いてしまえば、そんなことを気に病まなくなるような気がします。
一万時間を、ただひたすら何かの手段として耐えて通過するものと思わないで、旅の道中のようなそれ自体こそが大切なものだと思えるなら、一万時間を過ぎた時に若くなかろうと、定年過ぎであろうと、死の間際であろうと、あるいは生きている間にその一万時間を超えなかったとしても、かまわないと思えるのではないかと。
私が「書く」ということを意識的に始めたのは中学生の頃ですが、一定のブランク(書かなかった訳ではないのですが自分の中で空白になっている時期)があるので、まだ一万時間には達してないと思います。
もしかしたら、一万時間に達する前に、私の生涯の終わりが(思いもしない形であっけなく)来ることもあるのかも知れませんが、それでも一万時間を目指して、淡々と、書いていくしかないのだろうと思います。たぶん、占いとか、他の色々なアーティスティックな行為についても。
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