新聞の腐敗、ネットの傲慢 ― 2011年03月04日
ネットの世界では、大手マスコミに対する批判や非難がしょっちゅうあふれかえっていて、時々ITリテラシーが高い(ということになっている)著名人とかが「もうテレビ新聞は終わった、これからはネットの時代だ」と息巻いているのですが。
長く続いていくものには、一定の型の腐敗と退廃は避けられないので、テレビや新聞といったものがそういうものに侵食されているのは間違いないでしょう。
しかし、私自身については、しばらく新聞から遠ざかって、ネットメディア(SNSやTwitterやブログ含む)を主な情報源にしてみましたが、あまりよい情報が得られる訳ではありませんでした。
新聞は間違いが一定数あるというけれど、ネットメディアの多くの部分もまた、間違いで成立していて、その点は実はそんなに変わりはないなぁと思います。むしろ、偏向的で独善的な意見というのは、ネットの方が多いくらいです。
恐らく、大手であろうとなかろうと、全ての情報を扱う存在というものには、全能感の落とし穴というものがあるのだと思うのです。
真理を知っている。知識を握っている。世界に正しいことを発信できる。世界を変えられる。
そんなことを、錯覚させる力が、情報というものにはあります。
世界という圧倒的な存在の前で、ひとがささやかながらも立つためには、一定の自負と誇りがなければなりませんから、それを持つ助けになる情報をいうものを、人が求めるのはごく自然なことだと思います。人が権限や能力を、ごく自然に求めるのと同じように。
けれどそれは、たやすく傲りにつながります。
情報を扱う存在には、万能幻想への傾斜という罠との、不断の闘いが要求されます。そこに傾斜していけば、変容(それも悪い方への変容)は避けられないからです。
しかし、これを個人でやり通せる人は極めて稀有でもあります。
ネットメディアにあふれる情報の、もっとも大きい陥穽は、この独善性・万能感の幻想を抑制するものが、あまり働いていないことなのだと思います。
大手のマスコミこそが、そういう幻想に呑み込まれていると思う人も多いのでしょうけれど、意外とそうでもないのではないでしょうか。彼らには、内外に、様々な抑制装置が用意されています。編集チェック、社内調整、様々な法律、視聴率や部数といった数字。
それが果たして、期待通りの抑止力として働いているのかという疑問は、当然あります。しかし、そもそもそれすら存在しないのが、大半のインターネットにあふれる情報です。
何となく、私には、大手マスコミとネットメディアの対立というのは、近代西洋医学と土着のシャーマン呪医との対立と、だぶって見えます。
近代医学の腐敗と矛盾に憤り疲れた人が、素朴な土着文化治療師に癒されることがあるように、新聞に傷つけられた人がネットメディアに大きな期待を寄せるのは、よく理解できる気持ちではあります。
けれど大きな期待があるからこそ、それだけに、傲りに至る危険は高く、また腐敗にも近くなります。実際に一定の力を及ぼすことができるだけに成長した今こそ、その虞は強くなっています。
土着文化治療師の中には、一時期は確かな治療実績をあげるものの、万能治療者幻想の傲りにからめとられ、変質し転落していく人が、決して少なくありません。それが結果的に、土着治療文化、ひいては代替医療全体への蔑視を招いています。
同じように、ネットメディアが、自己抑制を身に付けることができず、この傲りにからめとられることとなったら、その基盤が掘り崩されることとなるでしょう。もしそうなってしまえば、数百年という歴史の間、様々な抑止力を抱え込んでともかくも耐えてきた新聞といった既存のマスメディアに対して、もはやカウンターカルチャーとしての存在意義しか主張しえなくなってしまうでしょう。
私個人は、ネットメディアを頼る比率は、だんだんと低くなってきました。
新聞やテレビは、欠点や問題点がある程度わかっていて割り引いて考えられるようになった分、むしろつきあいやすい相手です。不快になった時にブロックするのもたやすくできます。
何となく、この感覚は、古くて手口のわかっている悪党と、知り合って日が浅くてどう信用すれば計りかねている新顔と、どちらが信頼できるか、みたいなものに、似ています。
長く続いていくものには、一定の型の腐敗と退廃は避けられないので、テレビや新聞といったものがそういうものに侵食されているのは間違いないでしょう。
しかし、私自身については、しばらく新聞から遠ざかって、ネットメディア(SNSやTwitterやブログ含む)を主な情報源にしてみましたが、あまりよい情報が得られる訳ではありませんでした。
新聞は間違いが一定数あるというけれど、ネットメディアの多くの部分もまた、間違いで成立していて、その点は実はそんなに変わりはないなぁと思います。むしろ、偏向的で独善的な意見というのは、ネットの方が多いくらいです。
恐らく、大手であろうとなかろうと、全ての情報を扱う存在というものには、全能感の落とし穴というものがあるのだと思うのです。
真理を知っている。知識を握っている。世界に正しいことを発信できる。世界を変えられる。
そんなことを、錯覚させる力が、情報というものにはあります。
世界という圧倒的な存在の前で、ひとがささやかながらも立つためには、一定の自負と誇りがなければなりませんから、それを持つ助けになる情報をいうものを、人が求めるのはごく自然なことだと思います。人が権限や能力を、ごく自然に求めるのと同じように。
けれどそれは、たやすく傲りにつながります。
情報を扱う存在には、万能幻想への傾斜という罠との、不断の闘いが要求されます。そこに傾斜していけば、変容(それも悪い方への変容)は避けられないからです。
しかし、これを個人でやり通せる人は極めて稀有でもあります。
ネットメディアにあふれる情報の、もっとも大きい陥穽は、この独善性・万能感の幻想を抑制するものが、あまり働いていないことなのだと思います。
大手のマスコミこそが、そういう幻想に呑み込まれていると思う人も多いのでしょうけれど、意外とそうでもないのではないでしょうか。彼らには、内外に、様々な抑制装置が用意されています。編集チェック、社内調整、様々な法律、視聴率や部数といった数字。
それが果たして、期待通りの抑止力として働いているのかという疑問は、当然あります。しかし、そもそもそれすら存在しないのが、大半のインターネットにあふれる情報です。
何となく、私には、大手マスコミとネットメディアの対立というのは、近代西洋医学と土着のシャーマン呪医との対立と、だぶって見えます。
近代医学の腐敗と矛盾に憤り疲れた人が、素朴な土着文化治療師に癒されることがあるように、新聞に傷つけられた人がネットメディアに大きな期待を寄せるのは、よく理解できる気持ちではあります。
けれど大きな期待があるからこそ、それだけに、傲りに至る危険は高く、また腐敗にも近くなります。実際に一定の力を及ぼすことができるだけに成長した今こそ、その虞は強くなっています。
土着文化治療師の中には、一時期は確かな治療実績をあげるものの、万能治療者幻想の傲りにからめとられ、変質し転落していく人が、決して少なくありません。それが結果的に、土着治療文化、ひいては代替医療全体への蔑視を招いています。
同じように、ネットメディアが、自己抑制を身に付けることができず、この傲りにからめとられることとなったら、その基盤が掘り崩されることとなるでしょう。もしそうなってしまえば、数百年という歴史の間、様々な抑止力を抱え込んでともかくも耐えてきた新聞といった既存のマスメディアに対して、もはやカウンターカルチャーとしての存在意義しか主張しえなくなってしまうでしょう。
私個人は、ネットメディアを頼る比率は、だんだんと低くなってきました。
新聞やテレビは、欠点や問題点がある程度わかっていて割り引いて考えられるようになった分、むしろつきあいやすい相手です。不快になった時にブロックするのもたやすくできます。
何となく、この感覚は、古くて手口のわかっている悪党と、知り合って日が浅くてどう信用すれば計りかねている新顔と、どちらが信頼できるか、みたいなものに、似ています。
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