再会2011年02月22日

 ここのところ、もう何年もご無沙汰だった「読書欲」が出てきて、結構なペースで本を読んでいます。あと新聞も。
 私はどう考えても活字依存症で、もともと本を砦のように自分の周囲に巡らす種類の人間なのですが、ここ数年は、憑き物が落ちたように本への偏愛がなくなり、本の山を見ると段々とうんざりしてくるようになってきました。
 なので、かなりの量の本を処分し、電子化し、家の中の本に割くスペースは大分少なくなりました。それでもまだまだ、収まり切れないのが困ったところではあるのですが。本を買う量もかなり減って、料理の本のような実用書が多くなってきていました。
 新聞については、私はもともとニュースやマスメディアというものへの耐性がとても低くて、追いかけていると非常に疲れて抑鬱的になるので、こちらもここ数年、読む頻度が落ちていたのです。

 ところが、このところ、自分の活字中毒自体は全く改善されていないことを実感してしまいまして。
 読書が減った分、私の活字中毒は無意識に活字を摂取するという状態になっていたようで、有り体に言えばそれはネットサーフィンやWikipediaの閲覧やTwitter・mixiの利用で代用されていたのだと思うのです。
 私は去年あたりから、とても扱いづらい、難しい精神状態になっていて、たぶんそれは再来年くらいまで続くと予想しているのですが、恐らくはその流れで、最近インターネットコンテンツの利用が極めてしんどくなってきているのです。そういう状態になったせいで、自分がかなり無意識に惰性で、ネットという活字を摂取していたことを、実感するようになってきました。
 何だかもう、そろそろやめよう……少なくともこのしんどい流れが変わるまでは、何とか対策を打たないといけない。そう思って、私は意識的に、インターネットの利用を減らし始めました。今ではTwitterやmixiにアクセスする回数が激減しています。
 で、今はどうやら、インターネットのコンテンツを相手にするよりは、新聞を相手にする方がまだ心理的処理をしやすいらしく、また本を減らしたせいで「自分にとって必要な本」が絞られたこともあり、本を読むという行為から得られる実りが、以前よりも増えてきました。最近は、ブクログに登録したりもしてますが、あまりレビューをしたりせずに、本を読んだ後ただそれを自分の中で熟成させるに任せるということが、またできるようになってきました。
 こうして私はまた、昔の友達に久しぶりに会うように、読書を再開しています。

 もしかしたらこの流れのせいで、私はずいぶんとコミュニケーションの取りにくい人になってしまうのかも知れません。
 なぜなら、もともと私は、あまり誘われたり呼ばれたりする人ではなくて、自分からせっせと他人の近況をうかがったり、声をかけて集まりを主催したり、誰かに他の誰かの近況を伝えたりすることで、ようやく多少なりとも世間と繋がっていたのですが、自分から外にアクセスするという努力を、少なくとも相当の部分放棄してしまったのですから。それでも、私を呼ぶ人の声を聴けば、現れる用意はいつでもしてはあるのですが。
 考えてみると、私の人生は、この「社会との接点を広げて外に懸命に手を延ばす」時と、「自分の意味のなさを噛みしめて丸くなる」時の繰り返しなのだと思います。それは螺旋のごとく、少しずつ位相を変えつつも季節のように巡ってきます。私は今、私という存在の直接の意味や意義を、何も思いつかず、ただ時折私を「相手」として必要とする、もっと意義深い存在にとってのみ多少の意味があるのだろうとしか思いませんが、十年前に味わったこの実感は、もはや懐かしいとか馴染み深いとさえ呼べそうです。たぶん、形を変えつつ、一生残る感覚なのでしょう。私の人生があと何年残っているのか、わかりませんけれど。