実名、匿名 ― 2011年01月22日
昨日の夜に、個人的に苦しいことがありました。
その瞬間は、大したことないかなと思ったのですが、苦痛はじわじわと後から広がり、やがてかすみ網に絡めとられた鳥のように、引き倒されて身動きができない状態になりました。どうも、私の精神は、その瞬間よりも後から遅れて苦痛がやってくる性質を持っているようです。
人生の苦痛には、人に話して理解してもらえる可能性の高いものと、毒のようにひっそりとしていて理解してもらいにくいものとがあります。もっとも、理解してもらえる可能性の高いものが、苦痛として与しやすいとも限りませんけれど。
***
ところで全然関係ない話ですが。
Facebookがメディアで取り上げられるようになってきて、報道を見ている限りだと「実名主義」というのが重要視されているみたいです。
Twitterなどでは、実名vs匿名という議論が定期的に沸き上がっては、実りも特になく終わっているように見えます。
何となく、私には、これはビジネスメールで敬語が正しく使えるか、営業先にスーツをきちんと着て行くか、名刺をちゃんと持っていくか、みたいな話に感じられます。
実名を重んずる人の多くは、信頼性と発言の責任を重要視します。
匿名を重んずる人の多くは、「別の名前」によるキャラクター性や、属性に由来する偏見や誤解の回避を重要視します。
それって何だか、
「仕事先にだらしない服装で来る人間はどうせ仕事もできない、信用できん」
「服装で人格や能力を判断するなんて、形式主義的でどうせ本当の人材を見る目を持ってないに違いない」
という言い争いに似ているのです。
人は外見で判断してはいけません、と言われるくらいに、外見に左右されます。
実名で発言をする人には、それだけで一定の信頼性がイメージされるという事実は、確かにあるだろうと思います。少なくとも、スーツを着ることが仕事として重要視される職場の割合と同じくらいには、そういう人がいるであろうな、と。
それに対して、
「オレは服装なんかで判断されたくないぜ!スーツを着てもダメなやつはいっぱいいる。オレはTシャツ短パンでトップ営業マンになれる!」
と息巻くのは、高い目標ですごいなぁとは思うけれど、どことなく滑稽な光景にも感じられます。
匿名性の高い種類の掲示板に人格を疑いたくなるような発言が書き込まれていたり、匿名アカウントで卑劣な個人攻撃をしてすぐにアカウントごと姿をくらましたり、といった現象が目立つのは事実としてあり、それを理由に
「実名ならばきちんと議論ができて責任ある状態が維持されるはずだ」
と謳うのも、理想主義的というか、反論が次々出てくるのはもっともだろうなぁと思います。
けれど、実際には実名であるか匿名であるかという属性は、判断材料のひとつとなることは間違いなく、その判断についてあれこれ反論をしてみたところで、栓無いことではないでしょうか。
礼儀を重んずる人に対して、作法をわきまえない人間が話を聞いてもらおうとしたら、「作法をわきまえない」というハードルを乗り越えるほどに、圧倒的に意味ある素晴らしい内容とプレゼンテーションをしなければならないでしょう。
堅苦しいことが嫌いな人に対して、何の意味があるのかわからない儀礼的な物事に参加してもらおうとするならば、儀式性のもたらす苦痛を帳消しにできるほどのプラスの価値を提供しなければならないでしょう。
それは確かに圧倒的なハンデを強いられる戦いではありますが、だからといって「そんなハンデは不公平だ」と叫ぶのは、もっと無意味な気がします。なぜなら、人はそういった属性に対する判断の積み重ねによって、日々生活し選択をしているのですから。
Tシャツ短パン姿の営業マンが売りに来る高級宝飾品を買いたがる人が、恐らくいないように。敬語が正しくないといちいち正さずにはいられないような大人に、悩みを打ち明ける問題児が恐らくいないように。
そして、あらゆる場面でそういった属性が絶対なものかと言えばそうではなく、そんな属性を越える成果を叩き出すひとも場面も、時には生まれます。
大切なのは、「どういった判断がなされうるのか」を認識した上で、選択することなのだと思います。それは同時に、選択に伴うメリットもハンデも、引き受けることにつながります。
匿名を選べば実名を重視する人から軽視されることはどうしようもありません(もちろんその逆も)。それについて、相手の判断やイメージをあれこれ非難したところで意味はありません。できるのは、自分の選択のメリットを最大限に生かし、かつハンデを克服するだけの成果を出すための努力を淡々と続けていくことだけなのだろうと思います。
けれど、これは実名と匿名の選択のような、場面によって「服のように着替えられる」選択についてのみに言えることではあります。
性差別や人種差別、宗教差別といったものが、何故許されるべきではないかと言えば、それは「服のように着替えられる」ものではないからです。
ひとは、自分の意志や意思で、たくさんの可能性の中から比較検討して自分の属性を選択できるとは限りません。それでも、属性には付与されるイメージがあり偏見があり、プラスもマイナスも存在します。
だからこそ、「自分の意志で選択し、比較的簡単に取り換えることができる属性の選択」を、さも人生の一大事のように重要視して議論するのは、どこかピントがずれている行為のように思えて、ならないのです。
その瞬間は、大したことないかなと思ったのですが、苦痛はじわじわと後から広がり、やがてかすみ網に絡めとられた鳥のように、引き倒されて身動きができない状態になりました。どうも、私の精神は、その瞬間よりも後から遅れて苦痛がやってくる性質を持っているようです。
人生の苦痛には、人に話して理解してもらえる可能性の高いものと、毒のようにひっそりとしていて理解してもらいにくいものとがあります。もっとも、理解してもらえる可能性の高いものが、苦痛として与しやすいとも限りませんけれど。
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ところで全然関係ない話ですが。
Facebookがメディアで取り上げられるようになってきて、報道を見ている限りだと「実名主義」というのが重要視されているみたいです。
Twitterなどでは、実名vs匿名という議論が定期的に沸き上がっては、実りも特になく終わっているように見えます。
何となく、私には、これはビジネスメールで敬語が正しく使えるか、営業先にスーツをきちんと着て行くか、名刺をちゃんと持っていくか、みたいな話に感じられます。
実名を重んずる人の多くは、信頼性と発言の責任を重要視します。
匿名を重んずる人の多くは、「別の名前」によるキャラクター性や、属性に由来する偏見や誤解の回避を重要視します。
それって何だか、
「仕事先にだらしない服装で来る人間はどうせ仕事もできない、信用できん」
「服装で人格や能力を判断するなんて、形式主義的でどうせ本当の人材を見る目を持ってないに違いない」
という言い争いに似ているのです。
人は外見で判断してはいけません、と言われるくらいに、外見に左右されます。
実名で発言をする人には、それだけで一定の信頼性がイメージされるという事実は、確かにあるだろうと思います。少なくとも、スーツを着ることが仕事として重要視される職場の割合と同じくらいには、そういう人がいるであろうな、と。
それに対して、
「オレは服装なんかで判断されたくないぜ!スーツを着てもダメなやつはいっぱいいる。オレはTシャツ短パンでトップ営業マンになれる!」
と息巻くのは、高い目標ですごいなぁとは思うけれど、どことなく滑稽な光景にも感じられます。
匿名性の高い種類の掲示板に人格を疑いたくなるような発言が書き込まれていたり、匿名アカウントで卑劣な個人攻撃をしてすぐにアカウントごと姿をくらましたり、といった現象が目立つのは事実としてあり、それを理由に
「実名ならばきちんと議論ができて責任ある状態が維持されるはずだ」
と謳うのも、理想主義的というか、反論が次々出てくるのはもっともだろうなぁと思います。
けれど、実際には実名であるか匿名であるかという属性は、判断材料のひとつとなることは間違いなく、その判断についてあれこれ反論をしてみたところで、栓無いことではないでしょうか。
礼儀を重んずる人に対して、作法をわきまえない人間が話を聞いてもらおうとしたら、「作法をわきまえない」というハードルを乗り越えるほどに、圧倒的に意味ある素晴らしい内容とプレゼンテーションをしなければならないでしょう。
堅苦しいことが嫌いな人に対して、何の意味があるのかわからない儀礼的な物事に参加してもらおうとするならば、儀式性のもたらす苦痛を帳消しにできるほどのプラスの価値を提供しなければならないでしょう。
それは確かに圧倒的なハンデを強いられる戦いではありますが、だからといって「そんなハンデは不公平だ」と叫ぶのは、もっと無意味な気がします。なぜなら、人はそういった属性に対する判断の積み重ねによって、日々生活し選択をしているのですから。
Tシャツ短パン姿の営業マンが売りに来る高級宝飾品を買いたがる人が、恐らくいないように。敬語が正しくないといちいち正さずにはいられないような大人に、悩みを打ち明ける問題児が恐らくいないように。
そして、あらゆる場面でそういった属性が絶対なものかと言えばそうではなく、そんな属性を越える成果を叩き出すひとも場面も、時には生まれます。
大切なのは、「どういった判断がなされうるのか」を認識した上で、選択することなのだと思います。それは同時に、選択に伴うメリットもハンデも、引き受けることにつながります。
匿名を選べば実名を重視する人から軽視されることはどうしようもありません(もちろんその逆も)。それについて、相手の判断やイメージをあれこれ非難したところで意味はありません。できるのは、自分の選択のメリットを最大限に生かし、かつハンデを克服するだけの成果を出すための努力を淡々と続けていくことだけなのだろうと思います。
けれど、これは実名と匿名の選択のような、場面によって「服のように着替えられる」選択についてのみに言えることではあります。
性差別や人種差別、宗教差別といったものが、何故許されるべきではないかと言えば、それは「服のように着替えられる」ものではないからです。
ひとは、自分の意志や意思で、たくさんの可能性の中から比較検討して自分の属性を選択できるとは限りません。それでも、属性には付与されるイメージがあり偏見があり、プラスもマイナスも存在します。
だからこそ、「自分の意志で選択し、比較的簡単に取り換えることができる属性の選択」を、さも人生の一大事のように重要視して議論するのは、どこかピントがずれている行為のように思えて、ならないのです。
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