傷 ― 2010年06月07日
お鳥様が天に帰ってから、四十九日も過ぎ、誰も羽ばたいて肩に留まって来たりはしない生活というのに、だいぶ慣れましたけれど、やはり何のわだかまりもなく笑っていられる暮らしには、なかなか戻れないものです。
何かふとしたはずみで、事故の瞬間やその後の長く重い時間が思い出されて、身じろぎもできずにいることがあります。
今でも、やはり手当てが遅過ぎたのではないかとか、私がしっかりしていれば防げたのではないかと、思考は行きつ戻りつします。
どうしようもなかった、私は精いっぱいのことをした、天の司りたまうところで私の力の及ぶことではないと、わかってはいても、悔やむ心は繰り返し現れ。
目を閉じることさえしなくても、事故が起こった刹那と、その後の数分の映像は、コントラストを極限まできつくした鋭角的な風合いでありありと、時に動画で時に静止画で眼前に浮かび、これがフラッシュバックというものなのだろうと、他人事のように思います。
昔、結構手酷い失恋をし、毎日くらくらとめまいのような時間をやり過ごしていた頃。
その痛手が日が経っても全く癒える兆しがなく、おかげで私は非常に扱いづらい迷惑な生き物となっていたのですが、その時に私は、
「心の傷は、革につく傷みたいなもので、目立たなくなったり味わいになったりすることはあっても、体の傷のように"直ってなくなる"ことはないんだな」
と思いました。
この考えが、誤解されると、あるいは誇張されると、人の心の回復力や自然治癒力をも否定した「全ては取り返しがつかない」という発想になってしまうのでしょうけれど。そうは思わないのですけれど。
それはもう少し柔らかな表現をするなら、「なかった振りはしてはいけない」という感じかも知れません。
そういった過去の心の傷が、時間をかけて、自分の一部になってきたことを思うと、この記憶もまた、消えることはなく"直ってなくなる"ことはなく、けれどいつか振り返った時に、痛みだけではない何かになるのではないかと思います。
そう思った、そうわかっているからといって、楽になる訳ではないのですけれど。思考の糸は、行きつ戻りつを繰り返します。
何かふとしたはずみで、事故の瞬間やその後の長く重い時間が思い出されて、身じろぎもできずにいることがあります。
今でも、やはり手当てが遅過ぎたのではないかとか、私がしっかりしていれば防げたのではないかと、思考は行きつ戻りつします。
どうしようもなかった、私は精いっぱいのことをした、天の司りたまうところで私の力の及ぶことではないと、わかってはいても、悔やむ心は繰り返し現れ。
目を閉じることさえしなくても、事故が起こった刹那と、その後の数分の映像は、コントラストを極限まできつくした鋭角的な風合いでありありと、時に動画で時に静止画で眼前に浮かび、これがフラッシュバックというものなのだろうと、他人事のように思います。
昔、結構手酷い失恋をし、毎日くらくらとめまいのような時間をやり過ごしていた頃。
その痛手が日が経っても全く癒える兆しがなく、おかげで私は非常に扱いづらい迷惑な生き物となっていたのですが、その時に私は、
「心の傷は、革につく傷みたいなもので、目立たなくなったり味わいになったりすることはあっても、体の傷のように"直ってなくなる"ことはないんだな」
と思いました。
この考えが、誤解されると、あるいは誇張されると、人の心の回復力や自然治癒力をも否定した「全ては取り返しがつかない」という発想になってしまうのでしょうけれど。そうは思わないのですけれど。
それはもう少し柔らかな表現をするなら、「なかった振りはしてはいけない」という感じかも知れません。
そういった過去の心の傷が、時間をかけて、自分の一部になってきたことを思うと、この記憶もまた、消えることはなく"直ってなくなる"ことはなく、けれどいつか振り返った時に、痛みだけではない何かになるのではないかと思います。
そう思った、そうわかっているからといって、楽になる訳ではないのですけれど。思考の糸は、行きつ戻りつを繰り返します。
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