内的子供2010年06月02日

 私はわがままな人間ですから、定期的に、誰かに話を聞いてもらいたいな、という欲求にかられます。
 私はこんなことを考えたんだけど。こんな風に思うのだけど。褒めて褒めて。
 自分の中にあるたくさんの思考の糸と、それをざくざくと織った世界観の布を、お店のごとく広げて、すごいねぇ偉い偉いと頭を撫でてもらう。そんな子供のような欲求です。
 たまにそれが暴発すると、ひたすらえんえん話し続けている困った人になってしまい、非常に後悔してお風呂のお湯に頭を突っ込みたくなる訳ですが。

 けれどそんな欲求の一方で、私の中には、私がお店のごとく広げる糸や布など、誰一人興味はないし売り物になどならないのだ、という厳粛で動かしがたい認識があります。
 それが真実であるかどうかはさておき、その認識があるために、現実には私が表出する言葉は、ほとんど全て、「素直な私の心」ではなくなっています。
 理性が働いている間は、「他人が受け入れやすいさとみん」を形作る習慣を長く続けていて、その状態に慣れてしまっているので、誰かに向かって話すほどに、読む人を意識して書くほどに、たくさんの洋服を着込んで化粧を塗っていくようになっていきます。
 そうすると、まるで窒息したように、私の中の子供がつまらないと泣き叫びそうになります。話すほどに書くほどに遠ざかっていく、奇妙な状態です。

 私が本当に書きたいと思う、あるいは書いていて安らぎを覚えることを、素直に書くのは、誰かに読ませるためではないものを書いている時で、結局は誰かが偉い偉いと頭を撫でて褒めてくれる訳ではありません。
 書くという、私にとって呼吸のような行為が、滑らかに進まない時というのは、この矛盾した状態を持て余している時で、それは自己と他者との関係性に根本的なクエストを抱えている私の、宿命的な悩みであるように思えます。
 そんな時に、私は自分の中の小さな子供を抱え上げて、すごいねぇ、綺麗だねぇ、とつぶやくのです。