日記2010年06月01日

 日記というものをつけるようになったのは小学生の頃で、確か母親が「誕生日までにきちんと日記をつけたら、日記帳を買ってあげる」と言い出したからだと思う。
 何故そんなことを母が言い出したのかはよくわからない。たぶん訊いても、母自身覚えてない気がする。もしかしたら私が勝手にそう記憶しているだけで、私が日記帳をねだった(そしてその事実は都合よく忘れた)とか、そういう事情があったのかも知れない。

 高校生くらいまではかなり毎日まめにつけていたと思う。
 大学1年生か2年生くらいの頃に、私的な人間関係がかなりゴタゴタした時期があり、その頃に、いわゆる日記帳に日記をつける習慣は途切れた。
 その代わり色々なノートや、友達に借りた超小型ワープロ・オアシスポケットに、ひたすら走り書きをした時期が続いた。

 そこからさらに、大学2年の時に、授業の課題でホームページを作ることになり、そこにいわゆる日記も掲載していた。それは、私の現実感のない思考と、相変わらずごたごたしていた人間関係を反映したものだったと思う。

 結婚してからも、まぁそれなりに、善いことも悪いこともありつつ、色々なところに日記らしきものを書き散らしている。
 結構散逸しているけれど、意図的に処分したことはないから、探せば出てくるはずだ。電子的なものについては、機械的な理由で事実上の消失になっている可能性はあるけれど。

 先日雑貨屋さんで、いわゆる十年日記のようなものを見かけて、美しい物だったのでつい買いそうになってしまったのだけど、このうえ日記を増やすのはどうなのかと棚に戻した。
 でも、何となく、人に見せないための日記を書きたい気分になる時期というのはあるもので、どうやら今はそういう時期らしい。

内的子供2010年06月02日

 私はわがままな人間ですから、定期的に、誰かに話を聞いてもらいたいな、という欲求にかられます。
 私はこんなことを考えたんだけど。こんな風に思うのだけど。褒めて褒めて。
 自分の中にあるたくさんの思考の糸と、それをざくざくと織った世界観の布を、お店のごとく広げて、すごいねぇ偉い偉いと頭を撫でてもらう。そんな子供のような欲求です。
 たまにそれが暴発すると、ひたすらえんえん話し続けている困った人になってしまい、非常に後悔してお風呂のお湯に頭を突っ込みたくなる訳ですが。

 けれどそんな欲求の一方で、私の中には、私がお店のごとく広げる糸や布など、誰一人興味はないし売り物になどならないのだ、という厳粛で動かしがたい認識があります。
 それが真実であるかどうかはさておき、その認識があるために、現実には私が表出する言葉は、ほとんど全て、「素直な私の心」ではなくなっています。
 理性が働いている間は、「他人が受け入れやすいさとみん」を形作る習慣を長く続けていて、その状態に慣れてしまっているので、誰かに向かって話すほどに、読む人を意識して書くほどに、たくさんの洋服を着込んで化粧を塗っていくようになっていきます。
 そうすると、まるで窒息したように、私の中の子供がつまらないと泣き叫びそうになります。話すほどに書くほどに遠ざかっていく、奇妙な状態です。

 私が本当に書きたいと思う、あるいは書いていて安らぎを覚えることを、素直に書くのは、誰かに読ませるためではないものを書いている時で、結局は誰かが偉い偉いと頭を撫でて褒めてくれる訳ではありません。
 書くという、私にとって呼吸のような行為が、滑らかに進まない時というのは、この矛盾した状態を持て余している時で、それは自己と他者との関係性に根本的なクエストを抱えている私の、宿命的な悩みであるように思えます。
 そんな時に、私は自分の中の小さな子供を抱え上げて、すごいねぇ、綺麗だねぇ、とつぶやくのです。

善悪2010年06月03日

 昔話のパターンでは、よいおじいさんと悪いおじいさんが出てきます。
 よいおじいさんは、犬や雀や地蔵やらを慈しみ、親切にし、大事にします。そのお礼に素晴らしいものをもらいます。それを見ていた悪いおじいさん(おばあさんの時もあるけれど)は、同じことをしてお礼をもらおうとたくらむ訳ですが、うまくいかなくて罰が当たったり、貧乏になったり、する訳です。
 その「悪いおじいさん」の、何が「悪」であったのかと、ふと思いました。まぁ、昔話では、悪いおじいさんは「心がけが悪い人でした」という初期設定で、後はもう動かしがたい訳ですが、具体的には何が「悪」なのかと考えると、大抵は「欲」なのですね。
 金銀ほしさに犬を連れてきてみたり、大きいつづら目当てに宿に押しかけてみたり、……ああ、笠地蔵には悪いおじいさんは出ませんでしたっけ。まぁとにかく、欲目当てで何かして、失敗するだけでなくひどい目に遭うと。
 でも考えると、金銀が欲しいというのは自然な話ですよねぇ。隣の人がうまい話で儲かったなら、同じことをしてみたいと思うのは、欲というより悪というより、普通の人情というものじゃないですか。まぁだからって八つ当たりで犬を殺しちゃうから駄目なんでしょうけど。
 欲の否定というのは、行き過ぎると人間の自然な心の否定になってしまいますから、あまりよろしくありません。日本の昔話は仏教要素が多いので、欲=執着を捨てるのがよいということになるけれど、でもよいおじいさんだって金銀をありがたくいただく訳で、欲望がゼロという訳でもなさそうです。

 それならよいおじいさんは、何故「よい」おじいさんなのか。彼らの何が、具体的によいことなのか。
 人の三倍生産性があったとか、頭がよくて村人を救ったとか、信心深くて毎日念仏を唱えたとか、そういう訳ではありません。
 大抵は、犬くんとか雀さんとか地蔵さんとか、無償の愛情なり親切なりを注いでいる相手がいて、その相手が気持ちに報いて金銀財宝をくれるのです。おじいさんの「善行」とは、「何の見返りも求めずに温かい心を向ける」という行為だったことになります。
 それを無欲という言葉で表現してもいい訳ですけれど、漢字通りの「欲がない」というのとは、少しニュアンスが違うような気がします。

 思うに、「悪いおじいさん」の「悪」とは、お金を儲けたいという欲自体ではなくて、その欲のために他者を利用したということなのです。
 あるものを、その存在自体を尊ぶのではなく、別の目的のための「通路」として扱うこと。それが彼らの共通の「悪」ではないかと。
 見返りを求めないからこそ見返りがあるのであり、また逆に見返りを求めるからこそ見返りが得られない。
 いいおじいさんと悪いおじいさんを見ていると、そういう言葉にすると不思議な矛盾にも見える、人生の機微というのがあるような気がします。
 悪いおじいさんの行動は、ある視点で見れば「財産獲得のための努力」であるのだけど、それが努力とみなされないのは、期待する見返りが、対象に正当に帰属するものではなくて、本当は「おまけ」であるからです。おまけの霊力に目がくらんで、犬くん本体を「財宝探知の霊力の通路」に使ったから、よろしくないのです。

 そういうことって、人生ではよくあるなぁ、と思うのです。
 誰でもいいから結婚しよう、という人と結婚したがる人はあまりいません。それは、自分が「結婚」への通路にされていると思うからで、ひとはやはり、自分を通路扱いする相手には(悪意がないとわかっていても)見返りを与えようとはしないものです。

 リスペクトがあるかないか、というのは、案外あっさりと、善と悪を分けるものなのかも知れません。

帳面2010年06月04日

 今日は買物へ行っていました。近所の本屋さんやら、東京ecuteやら、池袋ロフトやら、色々と。かなり散財してしまったような気がします。
 普段、がりがりと書き散らかすノートは、新聞古紙を再生したA5判のノートを使っているのですが、
http://item.rakuten.co.jp/uzumasa/397394/
とある目的で、もうちょっとしっかりした表紙のノートが欲しくなって、うろうろ探してきた次第です。
 候補として、
丸川商店さんの百人帳と、
http://www.marukawashoooten.com/hyakunincho.html
ミドリさんのMDノートと、
http://www.midori-japan.co.jp/md/notebook/
この二つでうんうん悩んだ末、結局両方買ってみました。

 小学生中学生高校生の頃から、かりかりちまちまとおはなしを書いていた人間なので、ノートというものにはなじみが深いはずなのですが、私は意外とこだわりというものがありません。
 中高生の頃は、遠距離通学者だったので、帰りのターミナル駅の駅ビルにこっそり寄って、丸善のステーショナリーコーナーで美しいノートやら万年筆やらを見つめて、いつかこういうのが好きに買えるといいなぁと憧れたものなのですが、どうやら憧れでエネルギーを使い果たしたらしく、大人になったらあまりそういうものに固執しなくなりました。なので、私はモレスキンもロディアも使わない人間です。
 私が人生で最も深い関係を結んだノートは、通っていた中高一貫校が売店で販売していた、学校オリジナルのノートで、それは表紙がとてもしっかりしたボール紙に加えて、ロゴマークと装飾が美しい金箔銀箔で箔押しされていた、とても美しいリングノートでした。
 なぜあんなに豪華なノートを販売していたのか、今でもわかりませんが、私はそれをせっせと買っては、学校の勉強などに全く使わず、ひたすら文章を紡いでいました。
 中高時代は、私にとって、哲学的な思考と悩みの場でもあり、決してただ美しく朗らかな時代という訳ではなかったのですけれど、やはり人生で最も濃密で大切な、善き時代であったことも確かで、そのノートの視覚的記憶は、そんな時代の印象と結びついています。

風呂敷ハンド、お弁当ハンド2010年06月05日

 今日は、私と軽鴨の君の共通の友人が遊びに来て、のんびり雑談をしたり、食事をしたりしていました。人が遊びに来る時は、片付けたり掃除をしたりして、束の間部屋が綺麗になります。これを維持できればいいんでしょうけど。
 という訳で、友達が帰宅した後には、不用品や古い下着を処分したり、どたばたと。一番ひどい時期に比べれば、少しずつ部屋もまともになっているのですけれど、なかなかすっきり片付いたという気分にはならないものです。

 先日、東京ecuteの雑貨屋さんで「風呂敷ハンド」というものを見つけて購入してみました。
https://u-oak.dreama.jp/blog/45.html
 風呂敷を、端を結わえて鞄のように使うことが多いのですが、これは風呂敷の両端を持ち手に通して鞄のように使えるというものです。
 大きいバージョンと、小風呂敷用の「お弁当ハンド(バンド、だったかも)」というのがあって、小風呂敷を小さい鞄にできるものも。この小風呂敷用のがなかなか便利です。ちょっとした、iPhoneと鍵とお財布だけ持って軽く出かけたい時などに、小さくて可愛い鞄にできるのが楽しいな、と。

 私は何故か昔から、スカーフとか風呂敷とか、布一枚で色々な形にできるものに弱くて、見つけると箍が外れたように買ってしまうことが多いのですね。
 という訳で、このお弁当ハンドも、楽しく使う予定です。あ、洗ったままアイロンかけてない風呂敷のアイロンかけなくちゃ……。

さらしのふきん2010年06月06日

 もともと色々な文章をあちこち書き散らす、ペーパーレスには程遠い生き物なので、その分なるべく紙を使わずに済ませようと思っています。
 キッチンペーパーも、もともとあまり使わないようにしているのですがさらに減らせないかなぁと、さらしの布巾を使い始めてみました。私はあまり潔癖なタイプではないので、新品でなくても、洗ったふきんであれば、食品を包んだり蒸し器の底に敷いたりしても、気にしないので。
 と言っても、さらしを買おう!と思っても、案外売ってるところを思いつかないものですね。
 抗菌仕様とかそういうややこしい仕組みのものよりも、ごくごく単純の、木綿のさらしにしようと思っていたのですけど、なかなか見つからなくて、結局通販で購入と相成りました。今はさらしって、お寿司屋さんとかでしか使わないのかしら。
 ちなみに私が購入したのは、PRISTINEさんのオーガニックコットンの「さらしくん」です。
http://www.pristine.jp/products/detail.php?product_id=230
 普通は、呉服屋さんとか、生地屋さんとか、赤ちゃん用品屋さん(布おむつとして使うそうで)とかで買えるとか。

 昨日の日記に書いた風呂敷もそうですが、このさらしも、布一枚が展開していくというところが、好みなのだと思います。さてこれから先、ゴミも紙の使用量もトータルでちゃんと減っていけばいいのですが。がんばります。

2010年06月07日

 お鳥様が天に帰ってから、四十九日も過ぎ、誰も羽ばたいて肩に留まって来たりはしない生活というのに、だいぶ慣れましたけれど、やはり何のわだかまりもなく笑っていられる暮らしには、なかなか戻れないものです。

 何かふとしたはずみで、事故の瞬間やその後の長く重い時間が思い出されて、身じろぎもできずにいることがあります。
 今でも、やはり手当てが遅過ぎたのではないかとか、私がしっかりしていれば防げたのではないかと、思考は行きつ戻りつします。
 どうしようもなかった、私は精いっぱいのことをした、天の司りたまうところで私の力の及ぶことではないと、わかってはいても、悔やむ心は繰り返し現れ。
 目を閉じることさえしなくても、事故が起こった刹那と、その後の数分の映像は、コントラストを極限まできつくした鋭角的な風合いでありありと、時に動画で時に静止画で眼前に浮かび、これがフラッシュバックというものなのだろうと、他人事のように思います。

 昔、結構手酷い失恋をし、毎日くらくらとめまいのような時間をやり過ごしていた頃。
 その痛手が日が経っても全く癒える兆しがなく、おかげで私は非常に扱いづらい迷惑な生き物となっていたのですが、その時に私は、
「心の傷は、革につく傷みたいなもので、目立たなくなったり味わいになったりすることはあっても、体の傷のように"直ってなくなる"ことはないんだな」
と思いました。
 この考えが、誤解されると、あるいは誇張されると、人の心の回復力や自然治癒力をも否定した「全ては取り返しがつかない」という発想になってしまうのでしょうけれど。そうは思わないのですけれど。
 それはもう少し柔らかな表現をするなら、「なかった振りはしてはいけない」という感じかも知れません。

 そういった過去の心の傷が、時間をかけて、自分の一部になってきたことを思うと、この記憶もまた、消えることはなく"直ってなくなる"ことはなく、けれどいつか振り返った時に、痛みだけではない何かになるのではないかと思います。
 そう思った、そうわかっているからといって、楽になる訳ではないのですけれど。思考の糸は、行きつ戻りつを繰り返します。

焼き空豆2010年06月08日

 豆は何でも好きです。春のグリーンピースから始まって、そら豆のやってくる季節となりました。
 豆は何でも好きですが、グリーンピースや空豆の調理方法のバリエーションは、あまり持っていなかったりします。理由は単純で、あれこれ調理方法に凝る前に、全部食べ終わってしまうからです。
 という訳で、今日のらでぃっしゅぼーやの宅配でやってきた空豆は、河内一寸そら豆という種類の、豆が大きくて代わりにさやに入っている数は少ないというタイプのものでした。でもそんなことを気にする暇もなく、あっという間に食べ終わってしまいます。無我夢中。
 珍しいのは、今日のそら豆は、茹でるのではなく焼いたことでしょうか。と言っても、オーブントースターで皮ごと、少し焦げ目がつくまで加熱するというやり方なので、焼くといっても蒸し焼きのような感じです。このやり方だと、少し固めですが、香りがよく仕上がります。茹でる方が、ねっとりしたクリーミーな味わいになるので、好みで選ぶと楽しいですね。まぁ選ぶ間もなく、また次のそら豆が来たとしたら、あっという間に食べ尽くして終わりになってしまうのでしょうけど。

服飾的読書2010年06月09日

 部屋を片付けなくちゃ……と思いつつ、なかなか進まない、というのを繰り返しています。このところ、小さな計算機が行方不明で、確かこの辺にあったような、と思うところを探すのですが、全然見当たりません。がっくりきます。
 文房具に興味があまりなくなり、本への執着も薄らぎ、のはずなのに、モノがなかなか減らないのは驚きです。まぁ今までが、あまりにもたくさんモノを抱え込んでいたということなのでしょうけれど。

 そして、本の執着が薄らいできた一方で、「なんとなく今の気分の本」がなかなか見つからなくなっています。
 まるで、「クロゼットの中には服がいっぱいあるのに、着る服がない」と嘆いているような光景です。
 考えてみると、私が今までファッションにあまり興味を持たなかったのは、そして今でもそんなに興味がないのは、そのベクトルが本に向いていたからのようです。私は、服を着るように本を読み、服を選ぶように本を選んでいたということなのでしょうか。
 今まで、ファッションに凝って色々なコーディネイトを工夫する人の熱意に、今ひとつ焦点を合わせられなかったのですけれど、私にとっての本が彼らの服なのだと思うと、案外あっさりと理解できるような気がします。
 結局、人はそんなに違いはないのでしょう。

チョコフレーク2010年06月10日

チョコフレーク
 お鳥様が天に帰ってから、花を供えるのが習慣になりました。
 私は何故か、花束というものに少し過剰な思い入れがあって、数ある贈り物の中でも別格の存在なのですが、お鳥様にお供えするのは、もっと日常的な気持ちをこめています。
 切り花を飾るのは、もともと結構好きですが、まだ彼が此岸で元気に飛び回っていた時は、普通の花屋さんで売っている生花は農薬などの心配があるので、彼が飛んでくる可能性のあるところには基本的に飾ることがありませんでした。花を飾るという行為は、チョコレートのお供えとともに、もう肉体から解放されて「体に悪い」という心配が無用になってからのものです。
 お鳥様はこの花を眺めて、はてはてと首をかしげているのかしら。

 今日の切り花のヒマワリは、「チョコフレーク」という品種名らしいです。知らずに、色合いで選んだのですが、甘いものが大好きだったお鳥様にふさわしい花かも知れません。
 駅前のショッピングセンターの青山フラワーマーケットさんで、大抵花を購入しているのですが、ここは値段が手頃なのに、花の保ちがいいような気がします。こういうお店がたくさんできるのは、ありがたい反面、近所のお花屋さんにとっては厳しいだろうな……と思うと、少し複雑な気持ちになります。