自認 ― 2010年01月23日
引き受ける、って難しいことなんだよな、と思うのです。
責任をとる、というのとは別の意味で。それは私のやったことです、それは私です、と言うということは。
Twitterで、とあるドキュメンタリーを称した番組が、対象に事前の断りも相談もなく、完全に歪曲捏造した内容を製作して放送した、という話の紹介が出ていて、その被害にあった人のブログを拝見して、ふと考えてしまいました。
演出と捏造の境や、やらせに関する是非はまた長い話ですが、とりあえずここでは置きます。
それが本当であったと仮定して、何らかの倫理の審議にかけられたとします。
本当であったなら、番組スタッフの非は争いようもないことですから、彼らに罪があったということになるでしょう。そして記者会見で偉い誰かが頭を下げるでしょう。
けれど、頭を下げている偉い誰かは、きっと心の中で、「オレがやったことじゃないんだけど」と思っているでしょう。そして内輪では部下に怒鳴るでしょう。
怒鳴られた部下は、制作会社に発注した人辺りを責め、発注した人は制作会社を責めるでしょう。
では制作会社は、「これは私のやったことです」と引き受けるのでしょうか。
もちろんクレジットがあるのだから、法律上は、社会の上では彼らは引き受けることになります。
けれど、彼らは本当はこう思うのではないでしょうか。
「そんなこと言ったって、本当のこと放送して視聴率なんか取れないんだから。捏造しても数字をとらなきゃ食っていけないんだよ。視聴者がそれを求めるから作るんじゃないか」
そしてそれは、確かに真実の一面でもあり。
いわゆるこうしたたぐいの不祥事を起こした人々は、捏造や過剰演出を、「私のやったこととして引き受け」てはいないんじゃないかと思います。
彼らはいわば、視聴率という拳銃を常にこめかみに突きつけられた気分で仕事をしているのではないでしょうか。その拳銃が物理的なものであれば、彼らの罪は全て正当防衛として責任を問われることはないと、思ってしまいそうなほどに。
彼らは「やらせたのは視聴者だ」と思っている、ような気がします。
† †
犯罪や事故などの非日常的な出来事も、種は日常の中に見つかります。
ごく些細なくいちがいや、ちょっとしたミスといった、それ自体では何でもない軽くてふわふわしたつまらない事々ばかりです。
けれどやわらかな小鳥の羽が大量に喉に詰まって息を止めるかのように、そういった外部要因が折り重なっていくうちに、どうにもならない破綻に一気に落下していくものの、ようです。
そういう流れを考える時、事故の原因となった人物も、犯罪を犯した被告も、心のどこかでは、「私が悪いんじゃない、私はさせられたのだ」と思うのではないでしょうか。
そしてそれは、一面では真実で。
もし両親の優しい愛を受けて育っていたら。もしあの時心を砕く残酷な仕打ちを受けなかったら。もし不自由のない豊かな環境で育っていたら。もし友達がいたら。もし誰かがあの時微笑みかけていたら。もし社会がもっと為すべき支援の手を差し伸べていたら。もし。
ひとは、自分の言動を、自分の自由意志のみで完全に自由に選択できることなどほとんどありません。
であるなら、ひどい振る舞いも、している当事者はひょっとしたら「させられている」ものとして捉えているのかも知れず、だとしたら彼らはそれを、私がしていることですと「引き受ける」ことなど決してないでしょう。
そして裁きの場に引き出されたとしても、正義を求め悪を罵る断罪の言葉を受けたとしても、単なる無知無理解として、彼らの心には届かないことが、あるような気がします。
† †
かの番組の制作スタッフも、悪意があって捏造したというよりは、そうするよりなかった、それしか番組を作る方法はなかったと、自分たちでは思っていたと想像します。
彼らは「視聴率の犠牲者」だと自己規定しているのではないでしょうか。彼らは、弁明が許されたとしたら、「視聴者のせいだ」と言うかも知れません。
けれど、やはり。
どんなに「こうなったのは自分のせいではない」ことであったとしても、やったことは引き受けなくてはならないのでしょう。
それは法律や社会制裁の問題ではなく。もっと深いところで。
誰かが、それを自分のこととして、責任をとるといった表層的な話ではなく、「他がどうであれ私が決めて私がやったことです」と実感しなければならないのです。たぶん。
そして、そう実感した時に、もしかしたら、外部要因に左右されない「本当の自分」というものが垣間見えるのかも知れません。成長や改革もまた。
視聴率のせい、で自分の失態を「引き受けず」にやり過ごす限り、テレビは恐竜のごとくゆっくり滅びていくだけでしょう。
† †
同じように、自分の失態を、たとえそれが本当に外部要因のせいで起こったものであったとしても、私が自分で「引き受け」ない限り、私は他人に自分を売り渡したままなのです。
はい。それは私です。私が成したこと、私自身です。
そううなずくことは、とてもしんどいことです。
自己嫌悪と自己卑下と自虐の渦の中で、自己嫌悪でも自己卑下でも自虐でもなく、そううなずくことは、本当に想像したくないほと、しんどいことです。
けれどそれは、しなければならないのだろうと思います。きっと私も。それほど遠くはない先に。
責任をとる、というのとは別の意味で。それは私のやったことです、それは私です、と言うということは。
Twitterで、とあるドキュメンタリーを称した番組が、対象に事前の断りも相談もなく、完全に歪曲捏造した内容を製作して放送した、という話の紹介が出ていて、その被害にあった人のブログを拝見して、ふと考えてしまいました。
演出と捏造の境や、やらせに関する是非はまた長い話ですが、とりあえずここでは置きます。
それが本当であったと仮定して、何らかの倫理の審議にかけられたとします。
本当であったなら、番組スタッフの非は争いようもないことですから、彼らに罪があったということになるでしょう。そして記者会見で偉い誰かが頭を下げるでしょう。
けれど、頭を下げている偉い誰かは、きっと心の中で、「オレがやったことじゃないんだけど」と思っているでしょう。そして内輪では部下に怒鳴るでしょう。
怒鳴られた部下は、制作会社に発注した人辺りを責め、発注した人は制作会社を責めるでしょう。
では制作会社は、「これは私のやったことです」と引き受けるのでしょうか。
もちろんクレジットがあるのだから、法律上は、社会の上では彼らは引き受けることになります。
けれど、彼らは本当はこう思うのではないでしょうか。
「そんなこと言ったって、本当のこと放送して視聴率なんか取れないんだから。捏造しても数字をとらなきゃ食っていけないんだよ。視聴者がそれを求めるから作るんじゃないか」
そしてそれは、確かに真実の一面でもあり。
いわゆるこうしたたぐいの不祥事を起こした人々は、捏造や過剰演出を、「私のやったこととして引き受け」てはいないんじゃないかと思います。
彼らはいわば、視聴率という拳銃を常にこめかみに突きつけられた気分で仕事をしているのではないでしょうか。その拳銃が物理的なものであれば、彼らの罪は全て正当防衛として責任を問われることはないと、思ってしまいそうなほどに。
彼らは「やらせたのは視聴者だ」と思っている、ような気がします。
† †
犯罪や事故などの非日常的な出来事も、種は日常の中に見つかります。
ごく些細なくいちがいや、ちょっとしたミスといった、それ自体では何でもない軽くてふわふわしたつまらない事々ばかりです。
けれどやわらかな小鳥の羽が大量に喉に詰まって息を止めるかのように、そういった外部要因が折り重なっていくうちに、どうにもならない破綻に一気に落下していくものの、ようです。
そういう流れを考える時、事故の原因となった人物も、犯罪を犯した被告も、心のどこかでは、「私が悪いんじゃない、私はさせられたのだ」と思うのではないでしょうか。
そしてそれは、一面では真実で。
もし両親の優しい愛を受けて育っていたら。もしあの時心を砕く残酷な仕打ちを受けなかったら。もし不自由のない豊かな環境で育っていたら。もし友達がいたら。もし誰かがあの時微笑みかけていたら。もし社会がもっと為すべき支援の手を差し伸べていたら。もし。
ひとは、自分の言動を、自分の自由意志のみで完全に自由に選択できることなどほとんどありません。
であるなら、ひどい振る舞いも、している当事者はひょっとしたら「させられている」ものとして捉えているのかも知れず、だとしたら彼らはそれを、私がしていることですと「引き受ける」ことなど決してないでしょう。
そして裁きの場に引き出されたとしても、正義を求め悪を罵る断罪の言葉を受けたとしても、単なる無知無理解として、彼らの心には届かないことが、あるような気がします。
† †
かの番組の制作スタッフも、悪意があって捏造したというよりは、そうするよりなかった、それしか番組を作る方法はなかったと、自分たちでは思っていたと想像します。
彼らは「視聴率の犠牲者」だと自己規定しているのではないでしょうか。彼らは、弁明が許されたとしたら、「視聴者のせいだ」と言うかも知れません。
けれど、やはり。
どんなに「こうなったのは自分のせいではない」ことであったとしても、やったことは引き受けなくてはならないのでしょう。
それは法律や社会制裁の問題ではなく。もっと深いところで。
誰かが、それを自分のこととして、責任をとるといった表層的な話ではなく、「他がどうであれ私が決めて私がやったことです」と実感しなければならないのです。たぶん。
そして、そう実感した時に、もしかしたら、外部要因に左右されない「本当の自分」というものが垣間見えるのかも知れません。成長や改革もまた。
視聴率のせい、で自分の失態を「引き受けず」にやり過ごす限り、テレビは恐竜のごとくゆっくり滅びていくだけでしょう。
† †
同じように、自分の失態を、たとえそれが本当に外部要因のせいで起こったものであったとしても、私が自分で「引き受け」ない限り、私は他人に自分を売り渡したままなのです。
はい。それは私です。私が成したこと、私自身です。
そううなずくことは、とてもしんどいことです。
自己嫌悪と自己卑下と自虐の渦の中で、自己嫌悪でも自己卑下でも自虐でもなく、そううなずくことは、本当に想像したくないほと、しんどいことです。
けれどそれは、しなければならないのだろうと思います。きっと私も。それほど遠くはない先に。
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