参加者、批評家、花形選手2010年01月16日

 少し前に、懐かしさについ買ってしまった、Wiiのゲーム「NHK紅白クイズ合戦」。
 NHKの色々なクイズ番組を体験するWiiのゲームです。ためしてガッテン、連想ゲーム、クイズ面白ゼミナール、ジェスチャー。その他、オリジナルのクイズゲームも入っています。

 問題の統一感があまりなく、また連想ゲームで答えが「モーニング娘。」だったりといった、本当のNHKではありえない展開が起こったりするのがご愛嬌。
 枠組みとしてはTVのクイズ番組ですが、演出は決まった数パターンを繰り返すだけですので、本当のクイズ番組のような盛り上がりを期待してはいけません。ひとりで、コンピュータ相手に淡々と対戦していると、当てが外れそうです。これは絶対に、対人で、できれば馬鹿騒ぎができるくらいの間柄の人たちで、にぎやかに遊ぶべきゲームです。

 遊んでみると、TVのクイズ番組はルールだけでなく、演出やプレイヤーによって面白さが維持されていたのだなと実感します。
 その意識が高じると、逆に「しょせんテレビ番組のゲームなんてルールは無意味、演出だけでいい」という勘違いを生み、ルールというものの軽視、ひいては「ゲーム(ルールと勝利条件のある全ての娯楽)」の軽視を招きそうですけれど。
 ただ、ゲームというのはルール(システム)が面白ければ必ず面白い、という訳でもなくて、「遊ぶ人が面白くする」という要素が少なからずあるのだと、思うのです。

 クソゲーという言葉がオタクの一般用語になって、ゲームのプレイヤーが批評家のようになり、このゲームは面白い・つまらない、と格付けして消費していく世の中ですけれど。
 時々、「つまらないゲームが多い人」というのは、要するにつまらない人であって、あるゲームがつまらなく感じるのは単に自分が下手なだけなのではないかと思うことがあります。
 恐らく、どんなゲームも、作った人(あるいは生まれた状況)がイメージする「面白い場面」があるはずなのです。それを見極めるのは非常に難しく、そしてそれを再現していくのは至難の業になります。さらに、それを越えた面白さを実現するのは、半ば奇跡に近いものかも知れません。
 その「面白い場面」をイメージしてなお、それが面白くない、好みに合わない、というのはあるでしょう。
 けれど、そもそも「面白い場面が想像できない」というのであれば、それはもしかしたら、ゲームではなく、遊んでいる方に努力が欠けているのではないか。
 単に、プレイヤーに、遊ぶ資格がないだけではないのか。

 まぁ人生はそんなに長くないですから、相性のよくないゲームの面白さを探して時間を費やす必要は、大抵の人にはないと思いますけれど。
 ただ、あるゲームの欠点を数え上げる人は、批評家であっても、面白いプレイヤーではないことが多いし、一流もしくはスタープレイヤーでは決してありません。
 オタクという、当事者であることよりも周辺の(責任のない)批評家であることを好む人々が、多く集まるテレビゲームというジャンルは、レビューという名の批評という名の、数限りない「下手なプレイヤーの言い訳」にさらされる宿命にあります。
 その中から本当の、聞くに値する有益な何かを得るのは、非常に労力の必要な作業でしょう。

 ……そんなことを、軽鴨の君とクイズ番組を遊びながら、考えていました。
 今度は友達何人かと、わいわい笑いながら、遊んでみようと思います。そこに何か、私がイメージもしていなかった、面白いものがあるような気がするのです。