無化理解 ― 2008年11月29日
神林長平というSF作家の小説「敵は海賊・A級の敵」には、純粋情報体という存在が登場するのだが、この存在は、対象の情報を「理解」することによってその対象を「捕食する」ということになっている。理解する・理解できるということはその対象の上位概念である、という世界観を、捕食というメタファーで表現している訳だ。
この物語世界では、理解はほとんど征服と同義語である。それは愛や共感ではない。いや、食べるということが倒錯的な愛情表現として使われることを考えれば、別とは言い切れないのかも知れないが。しかしやはり、これを愛と呼ぶのは、倒錯から逃れられないだろう。
それを突然思い出したのは、毎日のようにマスコミを賑わせるあの元厚生省次官殺害事件の報道のせいだ。
犯人が出頭し、供述が明らかになるにつれ、みなが何かに取り憑かれたように「不可解」「理解できない動機」という光景の方が、実は私にはまったくもって不可解だった。
私にとっては、出頭した彼の発言として報道されるものは、ひどく論理が飛躍していて、だからこそ、逆説的だが奇妙にわかりやすかった。彼の凶行と、そこに至るまでの複雑な心理のプロセスは、そう簡単にやすやすと理解できるものではなかろう、ということだけが、きらきらとわかりやすくそびえたっているのである。逆に言えば、殺人という破綻は、すべからくそういうものであって、恐らく簡単に理解できるとしたらそんな破綻に至る前に回避できていたのに違いない。
この事件は不可解、理解できないというひとは、では一体他の殺人事件は明快で理解可能だとでもいうのだろうか。そう言うとしたら、それは半分は誤解であり半分は思い上がりであろう。
不可解性を、そのままの状態で持ちこたえてゆくのは苦痛だから、人は何とか「理解」をしようとする。
その理解は、あの純粋情報体が鬱陶しい存在を消滅させようと「捕食」するのにも似た、鬱陶しい不可解な不気味なものを「わかる」ことで征服し「どうでもいいもの」の箱へ小指の先で弾き飛ばそうとする行動である。この理解は、何も生み出さない。恐らく何も変えない。本当の意味での理解ですらないのかも知れない。
それがあの、うんざりするほど使い捨てられる「心の闇」という言葉であり「狂気」という言葉なのだろうけれど。
あの事件の報道は、なんとかしてこの事件を説明したい、説明して理解して征服したい、「どうでもいいことにしたい」という暴力的な無化欲求の悲鳴のかたまりである。少なくとも私にはそう見える。
同時にまた、この事件がスパイスと化学調味料のどぎつい味付けで彩られた「食べ応えのあるごちそう」だ、という声も感じる。火星より大きいニワトリ、大きくてうまそう!と舌なめずりをするあの黒猫型宇宙人アプロの、ほとんど邪悪ですらあるあの笑みのような。
理解とは何と暴力的なものだろうと、私はヒステリックに「明らかになる驚愕の真実」を書き立てる報道を眺めやりながら考える。
この物語世界では、理解はほとんど征服と同義語である。それは愛や共感ではない。いや、食べるということが倒錯的な愛情表現として使われることを考えれば、別とは言い切れないのかも知れないが。しかしやはり、これを愛と呼ぶのは、倒錯から逃れられないだろう。
それを突然思い出したのは、毎日のようにマスコミを賑わせるあの元厚生省次官殺害事件の報道のせいだ。
犯人が出頭し、供述が明らかになるにつれ、みなが何かに取り憑かれたように「不可解」「理解できない動機」という光景の方が、実は私にはまったくもって不可解だった。
私にとっては、出頭した彼の発言として報道されるものは、ひどく論理が飛躍していて、だからこそ、逆説的だが奇妙にわかりやすかった。彼の凶行と、そこに至るまでの複雑な心理のプロセスは、そう簡単にやすやすと理解できるものではなかろう、ということだけが、きらきらとわかりやすくそびえたっているのである。逆に言えば、殺人という破綻は、すべからくそういうものであって、恐らく簡単に理解できるとしたらそんな破綻に至る前に回避できていたのに違いない。
この事件は不可解、理解できないというひとは、では一体他の殺人事件は明快で理解可能だとでもいうのだろうか。そう言うとしたら、それは半分は誤解であり半分は思い上がりであろう。
不可解性を、そのままの状態で持ちこたえてゆくのは苦痛だから、人は何とか「理解」をしようとする。
その理解は、あの純粋情報体が鬱陶しい存在を消滅させようと「捕食」するのにも似た、鬱陶しい不可解な不気味なものを「わかる」ことで征服し「どうでもいいもの」の箱へ小指の先で弾き飛ばそうとする行動である。この理解は、何も生み出さない。恐らく何も変えない。本当の意味での理解ですらないのかも知れない。
それがあの、うんざりするほど使い捨てられる「心の闇」という言葉であり「狂気」という言葉なのだろうけれど。
あの事件の報道は、なんとかしてこの事件を説明したい、説明して理解して征服したい、「どうでもいいことにしたい」という暴力的な無化欲求の悲鳴のかたまりである。少なくとも私にはそう見える。
同時にまた、この事件がスパイスと化学調味料のどぎつい味付けで彩られた「食べ応えのあるごちそう」だ、という声も感じる。火星より大きいニワトリ、大きくてうまそう!と舌なめずりをするあの黒猫型宇宙人アプロの、ほとんど邪悪ですらあるあの笑みのような。
理解とは何と暴力的なものだろうと、私はヒステリックに「明らかになる驚愕の真実」を書き立てる報道を眺めやりながら考える。
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