軽量級流言飛語再生産2006年10月18日

大学生だった頃、確かあれはヨーロッパ史の助教授だったと思うが、講義中に先生が「今日は天気がいいから外で話でもしましょう」とキャンパスの芝生に車座になって話をしたことがあった。
読んだ本や最近考えていることをとりとめなくみんなで話していた時、何の拍子だったか、人の噂や評判という話題になった。
「あなたが何かをすると、色々と人は噂をするものです」
と先生は言った。
「でも考えてみなさい。あなた自身が、誰かの噂をしている時、その内容についてどれだけ真剣に考えて真剣に受け止めてますか? 大した意味もなく、さほど深刻に考えてもいないでしょう。同じように、あなたがされる噂も、している方は大して深刻に考えてる訳じゃありません。——だから、人に噂をされた時は、その程度のものと思って聞き流しなさい。人の言うことを気にしないのも、大人になれば必要なんですよ」
そんなことを、先生は確か語ったと思う。
自意識過剰が服を着て歩いてるような、色々と大変な思春期をひきずる学生達に、その言葉はどんな風に響いたんだろうか。
少なくとも、私にとっては、その後色々な時にふと心の中で芽吹いて、状況をぽーんと飛び越える足がかりのひとつになったのは、確かだ。

またいじめが原因と思われる自殺が報道されて、ネットの世界は、「蜂の巣を突いたような」を現実化したような騒ぎだ。
でも、どんなに真剣に考え、どんなに一生懸命書いたとしても、それらは絶対に、当事者の思いを越えるような深刻さが宿るものではない。彼女ら・彼らの善意(あるいは悪意)を疑うという意味ではなく、絶対的なこととして。何があっても、当事者以外は絶対に傍観者なのだ。それを踏み越えることは原理的にできない。
当事者が全てを理解していることはもちろんないが、傍観者が客観的に物事を見られるかと言えば、全くそんなこともなくて、不明瞭な断片情報を鵜呑みにしたまま、それを核にしてふくらませるというのが普通だろう。恐らく、毎日の締切に追われる新聞記者や作家やエッセイストから始まって、パソコンの前で今の私のように文を書き散らすネット上のブロガーに至るまで、それは変わることはない。
それらの大半は、食事の時の軽い噂話として、日々起こる他人の事件を使っているだけの話なのだ。全てがそうではないにしても、かなりのものはね。

言葉は、言葉を触媒にしてどんどん膨らんでいくものだから、そういった言葉も次第に膨らんでいって、入道雲のようにある日雷を落とすのかも知れない。
さほど真剣に考えられたものでもない流言飛語は、しかし、人を傷つけるという点においてはヘビー級の威力を持っていて、たぶん無責任に(あるいは責任を自覚しつつも)ばらまかれる言葉のかなりの部分は、かまいたちのように当事者を切り裂き、かつて当事者と似た立場であった人や当事者に共感を覚える人を痛めつけるだろう。
人を傷つけるとしても言わねばならないことや、成さねばならないことが、もしかしたらあって、客観性がもたらす鈍感さというのはそれに耐えるために授けられているのかも知れない。が、どうやら大半の人間はその能力を無駄なところで使って、有害なものすら生んでいるらしい。
私も含めて。

沈黙することは難しいし、有用なことだけを言うのはさらに難しい。
恐らくプロフェッショナルでもその困難さは変わることがなく、彼らはただ、埋め草をたくさん持っているだけなのかも知れない。ほんの一握りの偉人を別として。
そして私は今日も、沈黙も有用な発言もできず、流言飛語の再生産に加担しているのだ。自覚があるだけ、私の罪は恐らく一層重いのであろうが。