自殺衝動 ― 2006年08月29日
先日、うつ病の体験記を読んでいて、自殺念慮の部分でひっかかったことがある。
私はうつ病ではないけれど、まあ鬱陶しいほど落ちこみやすいタイプなので、しょっちゅう自己嫌悪にうんざりして死にたくなるし、死にたいほど苦しかったり哀しかったりしたこともあったし、また実際死のうかと手をのばしてやめたこともないではない。
けれど、その体験記で語られている自殺に向かう感覚(幸い、その体験記の患者は自殺することなく乗り越えているが)は、そういった「悲嘆」「苦悩」「自己嫌悪」といった感情と、やや次元を異にしているような気がしたのだ。
それはもう少し根源的な、「自殺しなくてはならない」という感覚、のように思えたのである。
自殺する動物というのを、私はレミングくらいしか知らないし、またそのレミングの自殺というのも本当なのか、また本当だとしたらどのような経緯で起こるのかは全く知らない。よく聞くのは数が増えすぎた時に調節として大量自殺するという説だけれど、これが証明されたのかは寡聞にして知らない。
ただ、細胞はある状態になるとアポトーシスという自殺(自壊)をするのは確かなようで、そうだとしたら細胞の集まりである人間にも、感情の存在とは別に、もっと機械的なスイッチとしての「自殺機能」というのがあるのかも——と思うのだ。
うつ病の自殺衝動というのは、感情というよりもそういう「スイッチ」に近いな、というのが私の感想なのである。
つまり、人間(に限らず生命)は本来的に「生きよ」という指令のもとに体内の全ての機能が統制されているが、実は隠れたところに「自殺せよ」という指令を出す機能も備わっており、何らかのトラブルで間違ってその指令のスイッチが入ってしまった状態になることが、あるのかも知れない。
そうだとしたら、その誤った自殺衝動に抗うのは、とてつもなく大変なことであり、苦痛と超人的努力を伴うことなのだろう。何しろ、根源的な指令に逆らう、ということなのだから。
もちろん、スイッチが入ってしまうトラブルは色々あるだろうから、本来「死にたいほど苦しい」という感情の積み重ねであったものが、玉突き的に別の機能に働きかけていって、根源的な「自殺せよ」というスイッチにつながってしまうこともあるだろう。
どちらにしても、その状態はトラブルなのだから、必ず元の状態に戻ることは可能だけれど、そのために必要な思いやりというものはもっとあってしかるべきなのに違いない。
そうだとするなら、生きている、生きているだけ、であっても、それは奇跡的な努力と恵みの積み重ねによって成り立っていることなのだ。
毎日目が覚めるたびに、誰が自殺したというニュースも入らないことにほっとするのは、恐らく私だけではないのだろう。
私はうつ病ではないけれど、まあ鬱陶しいほど落ちこみやすいタイプなので、しょっちゅう自己嫌悪にうんざりして死にたくなるし、死にたいほど苦しかったり哀しかったりしたこともあったし、また実際死のうかと手をのばしてやめたこともないではない。
けれど、その体験記で語られている自殺に向かう感覚(幸い、その体験記の患者は自殺することなく乗り越えているが)は、そういった「悲嘆」「苦悩」「自己嫌悪」といった感情と、やや次元を異にしているような気がしたのだ。
それはもう少し根源的な、「自殺しなくてはならない」という感覚、のように思えたのである。
自殺する動物というのを、私はレミングくらいしか知らないし、またそのレミングの自殺というのも本当なのか、また本当だとしたらどのような経緯で起こるのかは全く知らない。よく聞くのは数が増えすぎた時に調節として大量自殺するという説だけれど、これが証明されたのかは寡聞にして知らない。
ただ、細胞はある状態になるとアポトーシスという自殺(自壊)をするのは確かなようで、そうだとしたら細胞の集まりである人間にも、感情の存在とは別に、もっと機械的なスイッチとしての「自殺機能」というのがあるのかも——と思うのだ。
うつ病の自殺衝動というのは、感情というよりもそういう「スイッチ」に近いな、というのが私の感想なのである。
つまり、人間(に限らず生命)は本来的に「生きよ」という指令のもとに体内の全ての機能が統制されているが、実は隠れたところに「自殺せよ」という指令を出す機能も備わっており、何らかのトラブルで間違ってその指令のスイッチが入ってしまった状態になることが、あるのかも知れない。
そうだとしたら、その誤った自殺衝動に抗うのは、とてつもなく大変なことであり、苦痛と超人的努力を伴うことなのだろう。何しろ、根源的な指令に逆らう、ということなのだから。
もちろん、スイッチが入ってしまうトラブルは色々あるだろうから、本来「死にたいほど苦しい」という感情の積み重ねであったものが、玉突き的に別の機能に働きかけていって、根源的な「自殺せよ」というスイッチにつながってしまうこともあるだろう。
どちらにしても、その状態はトラブルなのだから、必ず元の状態に戻ることは可能だけれど、そのために必要な思いやりというものはもっとあってしかるべきなのに違いない。
そうだとするなら、生きている、生きているだけ、であっても、それは奇跡的な努力と恵みの積み重ねによって成り立っていることなのだ。
毎日目が覚めるたびに、誰が自殺したというニュースも入らないことにほっとするのは、恐らく私だけではないのだろう。
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