孤独感 ― 2006年08月21日
ロビンソン・クルーソーみたいに、本当に無人島にたったひとり取り残されたことはおろか、一人でキャンプや登山をしたことさえない私だから、こんなことを言ってもあまり説得力はないのかも知れないけれど、「見渡す限りの世界にいるのが、自分だけ」というのは、決して孤独ではないのだと思う。
あるいは、それももちろん孤独ではあるのだけど、与し易い孤独だ。姿のはっきりしている大男のようなもので、真正面からがっぷり四つに組んで、闘うことができる。
孤独というものは、正確に言えば厄介な孤独というものは、うんざりするほど人に囲まれている時に現れるもので、姿を見せずにしなしなと絡みついてひっそりと心を窒息させる。
たとえば、遊びに行こうと声をかけたメールに何の音沙汰もなかったり、予定のない人恋しい休日に鳴りもしない電話を見つめている自分に気がついたり、孤独感とはそういう時の心のことだ。
別に誰かが悪意を持っている訳じゃない。あるいは、向こうには向こうの都合があるだけの話だ。誰もが忙しい。人間は無精な生き物だから。うっかりしていて。そんな言い訳や理由を、自分に言い聞かせていることに気付いた時に、孤独感は濡れた布のように感覚を封殺する。
世界にはありあまるほど人がいるけれど、今この瞬間私を思い出している人は誰一人いない、ということこそが孤独であって、人がいないのならそこには孤独さえも存在しない。
アーノルド・ロベールの絵本「ふたりはともだち」で、がまがえるが一日の中でいちばんいやな時間は「手紙が来るのを待つ時間」だと言った気持ちが、私にはよくわかる。来ない連絡を待つ時間ほど、人の心を弱らせるものはない。
私がアクティブに、まめまめしく人に連絡をするタイプだと思われているのは、その孤独感にこれ以上耐えたら心が壊れるから仕方なく、であって、はっきり言えば別に好きでやっているものでもない。壁際にたたずんでいてもダンスのお誘いが来るのなら、さぞや舞踏会は楽しかろうが、舞踏会を主催しなければそもそも誰もやってこない家の主人は、面倒でも辛くてもとりあえず笑顔で招待状を書き続けなくてはならないのだ。
もっとも、近頃は私も、孤独に耐えることはそれほど辛くなくなっている。
単に心のヒューズが一部飛んで、何も感じないだけだとしても。
と、言うよりも、人がいるから孤独が生まれ人がいないなら孤独も存在しないのなら、招待状を書くから孤独が生まれるのであって、招待状などやめてしまえば、孤独はもう生まれないのかも知れない。
来ない連絡を待つのではなく、来ない連絡は来ないのだから待つことをやめること。
世界の中で、私のことを思い出す人が誰もいないことを、当たり前の何てことない日常として受容すること。
そんなことが、割と普通になってきた、今日この頃である。
あるいは、それももちろん孤独ではあるのだけど、与し易い孤独だ。姿のはっきりしている大男のようなもので、真正面からがっぷり四つに組んで、闘うことができる。
孤独というものは、正確に言えば厄介な孤独というものは、うんざりするほど人に囲まれている時に現れるもので、姿を見せずにしなしなと絡みついてひっそりと心を窒息させる。
たとえば、遊びに行こうと声をかけたメールに何の音沙汰もなかったり、予定のない人恋しい休日に鳴りもしない電話を見つめている自分に気がついたり、孤独感とはそういう時の心のことだ。
別に誰かが悪意を持っている訳じゃない。あるいは、向こうには向こうの都合があるだけの話だ。誰もが忙しい。人間は無精な生き物だから。うっかりしていて。そんな言い訳や理由を、自分に言い聞かせていることに気付いた時に、孤独感は濡れた布のように感覚を封殺する。
世界にはありあまるほど人がいるけれど、今この瞬間私を思い出している人は誰一人いない、ということこそが孤独であって、人がいないのならそこには孤独さえも存在しない。
アーノルド・ロベールの絵本「ふたりはともだち」で、がまがえるが一日の中でいちばんいやな時間は「手紙が来るのを待つ時間」だと言った気持ちが、私にはよくわかる。来ない連絡を待つ時間ほど、人の心を弱らせるものはない。
私がアクティブに、まめまめしく人に連絡をするタイプだと思われているのは、その孤独感にこれ以上耐えたら心が壊れるから仕方なく、であって、はっきり言えば別に好きでやっているものでもない。壁際にたたずんでいてもダンスのお誘いが来るのなら、さぞや舞踏会は楽しかろうが、舞踏会を主催しなければそもそも誰もやってこない家の主人は、面倒でも辛くてもとりあえず笑顔で招待状を書き続けなくてはならないのだ。
もっとも、近頃は私も、孤独に耐えることはそれほど辛くなくなっている。
単に心のヒューズが一部飛んで、何も感じないだけだとしても。
と、言うよりも、人がいるから孤独が生まれ人がいないなら孤独も存在しないのなら、招待状を書くから孤独が生まれるのであって、招待状などやめてしまえば、孤独はもう生まれないのかも知れない。
来ない連絡を待つのではなく、来ない連絡は来ないのだから待つことをやめること。
世界の中で、私のことを思い出す人が誰もいないことを、当たり前の何てことない日常として受容すること。
そんなことが、割と普通になってきた、今日この頃である。
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