氷菓子 ― 2006年08月11日
かき氷は、昔、実家にあった「ぺんぎんさんの氷かき」で作ったものが最初の体験だった。あの氷かき、さすがに捨てただろうけど、うちにもあったのだ。テレビCMもあって、まさに一世を風靡したものだと思うのだけど。
「夏」はどう考えても、感傷を差し引いても、小さい頃の方が数段楽しくて心地よくて、今でもあの頃の夏を再現するようなものに心惹かれる。そう、かき氷とか。
本当は自分の家にかき氷器を買いたいくらいなのだけど、場所のこともあって何となく二の足を踏んでしまう。
それにしても、外でかき氷を食べようと思うと、何と不自由なことだろう。のぼりにふらふら吸い寄せられてみると、寒いほど冷房が効いた屋内に閉じこめられて、注文したかき氷が届く頃には体が痛くなっていたりする。
はるか昔、貴族や王族しか口にできなかった「夏のお氷さま」を、今ではどの家庭でも簡単に食べられるという贅沢が、時々信じられなくなる。
暑い暑い外を歩いてきて、家に帰ってきてまっさきに冷たい飲み物を口にする、それは本当は気の遠くなるような贅沢——のはずだけれど、今の私たちはそんなことを当たり前、いや些細なつまらないことにすら思って、歯牙にもかけない。
贅沢を贅沢として享受することは、意外と難しい。結局贅沢というのは、心の問題であって物質の問題ではない、という教訓に行き着いてしまうのだろうか。
「夏」はどう考えても、感傷を差し引いても、小さい頃の方が数段楽しくて心地よくて、今でもあの頃の夏を再現するようなものに心惹かれる。そう、かき氷とか。
本当は自分の家にかき氷器を買いたいくらいなのだけど、場所のこともあって何となく二の足を踏んでしまう。
それにしても、外でかき氷を食べようと思うと、何と不自由なことだろう。のぼりにふらふら吸い寄せられてみると、寒いほど冷房が効いた屋内に閉じこめられて、注文したかき氷が届く頃には体が痛くなっていたりする。
はるか昔、貴族や王族しか口にできなかった「夏のお氷さま」を、今ではどの家庭でも簡単に食べられるという贅沢が、時々信じられなくなる。
暑い暑い外を歩いてきて、家に帰ってきてまっさきに冷たい飲み物を口にする、それは本当は気の遠くなるような贅沢——のはずだけれど、今の私たちはそんなことを当たり前、いや些細なつまらないことにすら思って、歯牙にもかけない。
贅沢を贅沢として享受することは、意外と難しい。結局贅沢というのは、心の問題であって物質の問題ではない、という教訓に行き着いてしまうのだろうか。
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