中毒2006年07月27日

友達に長いメールを書いていたら、すっかり夜になってしまった。
メールの内容は、煙草に関することで、色々複雑な事情の話なのだが、私は煙草は、中毒にさえならないのなら別にどうでもいいと思っている。
健康への影響や、精神への作用、匂いや煙に対する反応、それらは全部、究極的には好みの問題に行き着くのだろう。煙草は本来、純然たる嗜好品だ。嗜好品であるから、好みの問題であって、その是非を問うのは知的遊戯の範疇を越えない。
中毒さえしないのなら、だが。
だが残念ながら、煙草は中毒する。精神的だけでなく、肉体的にも依存性が高く、多くの人にとって「あったらうれしいもの」ではなく「なければ苦痛になるもの」になり、「自分の力ではどうにもできないもの」になる。
だから、私はたくさんの人の「煙草の効能」や「煙草礼讃」を、だいぶん割り引いて聞いている。酒飲みの「酒を飲まない人間は人生を損してるよ!」という台詞を真に受けないのと同じだ。
同じように、私はコーヒーも割り引いている。コーヒーは、実は中毒性が高くて一度依存するとやめられない危険性を帯びたものだが、日本ではあんまり問題にしないようだ。味や香りへの評価とは別に、私はコーヒーにある種の警戒心を持っている。
そして、私は紅茶が大好きだけど、他人には勧めない。コーヒーよりは依存性が低いけど、中毒する可能性は常にあるからだ。飲みたい人にはお出しするけれど、飲まない人や飲めない人に勧めたり、紅茶の素晴らしさを喧伝したりすることは、ない。幸い私はまだ紅茶中毒ではないけれど、飲みたいと思った時は、「本当に紅茶が飲みたいのか、習慣で飲みたいのか、それとも依存してるのか」常に振り返る。一瞬のことだけど、その問いを挟んで、私は飲みたいという気持ちをワンバウンドさせつつ確かめている。

けど、本当は、私はたぶん感覚が鈍いのだろう。
私は、純粋な嗅覚や味覚については、恐らく平均よりかなり下の能力しか持っていない。アロマテラピーやお茶の世界でプロを目指さなかったのは、そういう理由もある。
だから、私は精妙な茶や酒や煙草の味わいを恐らく理解できないし、それゆえに守られている。
私はイメージの中で、この世のものとは思えない甘くかぐわしい茶や酒や煙草を作りあげ、味わうだけだ。幸い、それは中毒したくてもできない。もっともそれは幸いではなく、不幸だ——と、本当の愛好者たちは言うのかも知れないけれど。