氷山2006年07月25日

ちっちゃい頃、怒られる時に、「何でそんなことをしたの!」と言われるのが苦手だった。
というのも、「何でそんなことをした」のか、説明できなかったからである。
その場合も二つのパターンがあって、ひとつは、「意識してなかったので説明しようがない場合」ってやつ。
たとえば、すこーんと記憶から飛んでて頼まれていたことを忘れたりする時。「忘れてる」んだから、意識もしようがなく、説明しようがない訳だ。悪意はないのだが、まぁ善意もない訳で、怒る気持ちもわからなくはないけれど、怒られても記憶力が高まるものでもないので、なんだかなぁなんて思ってしまう。

けれどもっとしんどいのは、「説明できないほど考え抜いた末の決断が、見事に外していた場合」だ。
私は、別に気が利く方ではない。気配りが上手な人間でもない。人の気持ちが手にとるようにわかるテレパスでもなきゃ、占いの師匠のように霊視ができる訳でも(今のところは)ない。
それでも、私がよく「気が利く」だの「マメ」だの「優しい」だの誤解されるのは、考えるから、である。
誰かのある状態を見て、それに対して自分が何かアクションを起こそう(あるいは起こさない)と決意するまでに、さんざん考えるからだ。誕生日のプレゼントを選ぶことから、誰かを怒鳴りつけることまで、さんざん考える。これは別に誉められるたぐいのことではない。ただ、そうだというだけである。
今までの行動で、本当に些細なこと、脊髄反射でやったようなこと、先程話した記憶からすっぽり抜け落ちていて忘れほうけてたこと、は別として、「考えないでやったこと」はたぶんほとんどない。誰からも誉められそうな行為も、相手にしてみれば腹立たしい行為も。

だが、それが功を奏するとは、全然限らない。
ましてや、氷山の一角である表面化した言動から、私がえんえん考えた様々なことごとを想像する人間は、いない。
「何でそんなことをしたの!」と怒る人は、恐らくもっとわかりやすい理由を求めているのであって、小説にでもした方がいいような長々しいモノローグを聴きたい訳ではないことはよくわかっているから、私は怒られても説明はしない。また、しようとしてもできないだろう、と思う。

だから私は小さい頃から、この巨大な心理的氷山を理解してくれる、理解まではいかなくてもその存在を認識してくれるひと、というのに憧れていた。
そんなひとは、きっといないよ、と冷笑的な私の部分は苦笑いする。
そんなひとがいなくても、私が考えることをやめる訳ではないし、私は毎日何とか元気に生きていくだろう。
それでも私が物語の中で描く男性の一部が、男性離れしたほど理解力に満ちているのは、恐らく私にとってのヒーローとはそういうものだからに違いない。