最小魔法 ― 2006年01月17日
私自身は何も努力していませんが、幸い天と地と人の助けがありまして、昨日のえらい不調からは復帰できました。ありがたいことです、いやはや。
そんな訳で、今日は昨日できなかった家事を色々とこなし、麹と大豆が届いたので味噌を仕込む準備を始め、パンを焼く、といった時間を過ごしております。ちなみに今日のパンは、松の実とひまわりの種を入れたパンです。パン用の強力粉ではなかったので膨らむか心配だったのですが、酵母様とパン焼き器くんと強力粉のグルテンくんががんばってくれたおかげで、ちゃんとおいしそうなものができました。
家事というのは、最も身近で小さな魔法だと、よく思います。
「魔法」の世間一般のイメージは「魔法使いサリーちゃん」というか、努力せずに結果を得る手段、ずるいショートカット、みたいなもののようですが、私のイメージはそうではなく、現実をより善い形にしていく作業です。そこにもう少し付け加えれば、自分ひとりの力を発揮することに加え、さらに自分を越えた何かの恵みを呼び込むこと、でしょうか。
本当は、魔法は世界にあふれている——というより、世界は魔法から成り立っているのかもしれません。
しかし、人というのは、「ありふれたいつものこと」を意識しないようにできています。それはそれで意味があることで、常に魔法や奇跡を意識して生きていくことは、恐らく人間の小さな精神にはあまりに負担が大きすぎる課題です。だから「当たり前の魔法」は、常識とか科学的法則とか技術とかそういう名前をつけて、感じないことにして、私たちは生きていきます。そして、その当たり前、ありきたりのことを越えた何かを、魔法とか奇跡とか、そういう名前で呼ぶのでしょう。
私が家事を、魔法と意識できるのは、決して家事がうまくないからです。
炎と水と穀物の賜物であったかいごはんが炊きあがり、酵母様の賜物でパン生地が膨らみ、大豆の精霊が変化することで味噌ができる。そういった出来事は、私にとっては決して「当然のこと」ではなく、文字通り「有り難い」出来事です。
たぶん、家事が上手で、そして毎日をとても忙しく生きなければならない人にとっては、それは魔法ではなく「当たり前のこと」でしょう。そんなことにひとつひとつ感謝し感動していたら、心が振り切れてしまうに違いありません。
ある技能に秀でていないことは、別に不幸ではなく、時には幸福ももたらします。
そんな訳で、今日は昨日できなかった家事を色々とこなし、麹と大豆が届いたので味噌を仕込む準備を始め、パンを焼く、といった時間を過ごしております。ちなみに今日のパンは、松の実とひまわりの種を入れたパンです。パン用の強力粉ではなかったので膨らむか心配だったのですが、酵母様とパン焼き器くんと強力粉のグルテンくんががんばってくれたおかげで、ちゃんとおいしそうなものができました。
家事というのは、最も身近で小さな魔法だと、よく思います。
「魔法」の世間一般のイメージは「魔法使いサリーちゃん」というか、努力せずに結果を得る手段、ずるいショートカット、みたいなもののようですが、私のイメージはそうではなく、現実をより善い形にしていく作業です。そこにもう少し付け加えれば、自分ひとりの力を発揮することに加え、さらに自分を越えた何かの恵みを呼び込むこと、でしょうか。
本当は、魔法は世界にあふれている——というより、世界は魔法から成り立っているのかもしれません。
しかし、人というのは、「ありふれたいつものこと」を意識しないようにできています。それはそれで意味があることで、常に魔法や奇跡を意識して生きていくことは、恐らく人間の小さな精神にはあまりに負担が大きすぎる課題です。だから「当たり前の魔法」は、常識とか科学的法則とか技術とかそういう名前をつけて、感じないことにして、私たちは生きていきます。そして、その当たり前、ありきたりのことを越えた何かを、魔法とか奇跡とか、そういう名前で呼ぶのでしょう。
私が家事を、魔法と意識できるのは、決して家事がうまくないからです。
炎と水と穀物の賜物であったかいごはんが炊きあがり、酵母様の賜物でパン生地が膨らみ、大豆の精霊が変化することで味噌ができる。そういった出来事は、私にとっては決して「当然のこと」ではなく、文字通り「有り難い」出来事です。
たぶん、家事が上手で、そして毎日をとても忙しく生きなければならない人にとっては、それは魔法ではなく「当たり前のこと」でしょう。そんなことにひとつひとつ感謝し感動していたら、心が振り切れてしまうに違いありません。
ある技能に秀でていないことは、別に不幸ではなく、時には幸福ももたらします。
最近のコメント