感情論2005年12月01日

ある掲示板で、毛皮についてのやりとりがあったのだが。
動物愛護や環境問題につらなる話として、毛皮の話題が出ていた。一部の毛皮業者がどんなに残酷な方法で毛皮を動物から剥ぎ取っているか。剥ぎ取る前後も動物がどんなにむごい目に遭っているか。そういった話題が提示され、その中から色々な話に発展し、だんだんと、揉めていったのである。
いわく、話題の持って行き方が恣意的だ。
いわく、それぞれの文化に対する理解が欠けているのでは。
いわく、全体を見なければ意見なんて言えない。
(そんなことを言ったら永遠に全体は見えないのだから、永遠に発言はできないような気がするが、まぁここでは置く)
そしていわく、可哀想というのは簡単だが、感情論で話をするな。

で、この手の話を見るとよく出てくる、
「可哀想というけど、そういう感情論で話をするのはよくない」
という指摘が毎度の如く繰り返されいたのだけれど、そして確かに感情論で全てを推し進めるのは危険なのはその通りなのだが、「感情論」といって切って捨てる態度は……どうなのだろう、と思う。

可哀想、というのは、とてもプリミティブで強い感情だ。
それが実際には他者を傷つけたり、貶めたりする場合ももちろんある。だがそれは、全ての感情もそうだし、感情以外の全ての心的活動がそうである。言葉や正義も含めて。
人があることについて「可哀想」と思うことは、止められない。止められるなら、それは感情ではないだろう。

毛皮を剥ぎ取られる動物は可哀想だ。
そういう感情を、「そんな風に思うのは偽善だ、感情論だ、意味がない」と押し潰すのではなく、その感情自体は正しいと認めること。
そして同時に、そう感じないこともまた人間として在りうる心の形なのだ、ということを知ること。
どうするべきなのか、というのはその先の問題だ。そして実際の行動は、感情をある程度反映しつつ、感情に突き動かされるものではないだろう。

感情というのはつくづく思うけれど、人間に都合よい存在ではない。しょっちゅう間違うし、勘違いするし、コントロールしにくいし、変化するし、表に出せないような有様の時も多い。
けれど、感情は、決して嘘はつかない。
感情が発生するところには、必ず、何かしらの真実がある。
感情が本当に求めていることは、実は、存在を肯定されること、認められること、なのだと思う。

でも私たちは、感情を認めない。
「感情論はやめろ」と叩き返すように言う時のカタルシスは、感情という制御しにくく論破もできない存在を束の間圧殺できる、暗い征服感が根っこにあるような気がしてならない。
私たちは自他の感情を認める以外のことは何でもやる。
殺し、自棄になり、当たり散らし、議論し、言いくるめ、酒を飲み、甘い物を食べ、本を読み、性に溺れる。ただ、感情を認めてあげれば済むだけの問題を、そうやって引き延ばし、全生活に砂糖衣のようにまぶして、収拾がつかない状態にしてしまう。

感情が絡む話が必ずといっていいほど紛糾し、しかも実りがないのは、感情を認めないで話をすることなどできないのに、「とりあえず感情は抜きにして話をしましょう」などという実現不可能な前提を立ててしまうからだ。
感情は大いに認めて、感情を絡めたうえで、お互いの感情を配慮して話をしましょうーーなんて面倒なことをしたがる人は、誰もいない。
そしてもっと面倒な事態を招く訳だけど、ね。