異性的自分2005年11月01日

先日、高校時代の友達と話などしていまして。
「つきあうなら、自分が異性になったような人がいい」
と彼女は言ったのです。
別にこれはナルシズムではなく、大変きちんと気を遣える、人の心を思いやれる人なので、せめて自分と同じ程度には他人のことを思いやれる人がいい、という話です。思いやり深い人のところには、その思いやりを吸い尽くそうというようなダメ人間が寄ってくる訳で、そういうのがイヤなんだろうなぁ、と私はしみじみうなずいたのでした。
とは言え、私自身は全く違うタイプの人間でして、自分の異性版を想像すると、
「碇シンジのようなダメ少年」
もしくは
「ストーカーまがいに溺れるように恋愛する恐怖男」
のどちらかしか想像できないのであります。どっちも怖いですねぇ。
しかし、ここが複雑怪奇なところなのですが、自分の理想の異性像というものを何の制限もなく想像してみると、上記二要素が微妙に薄まって存在しているのがわかるのです。
ま、この「薄まって」ってところがポイントで、実際に上記二要素を濃く備えた男を見たら走って逃げます。
こういうのを考えると、人間の性質というものを表現するのは難しいなぁと、まぁありきたりな感想が浮かぶのでした。

疲労2005年11月17日

昔はホームページの日記で愚痴や疲労の様子を書くことが多かった。自分を客観的に見つめることにもつながったし、文章にして感情を形にしてしまうことで、出来事を消化しやすかったから。
最近はSNSのBlogでそういう愚痴は書くことにして、こちらではもっと楽しい話や建設的な話を書こうと思っていたのだけれど、SNSも人数が増えて誰が見ているかわからなくなってしまい、正直きつくなってきている。
それならまぁ、こっちで書くしかないかな、と適当に吐き出してしまうことにした。こっちの方が幸か不幸か、とっても読者さんは少ない気もするので、もしも読んでいる方がいらしたとしたら、申し訳ないががまんしてもらおう。
とはいえ、あんまり愚痴っぽいのはいやだから、楽しいことを書きたいものだ。
などと思ってしまい、そんな感じで近頃は全然こちらのBlogが更新できなかった。つまらない話である。

とりあえず、最近は疲労する場面が多い。
自分の許容量というのはわかっているのだから、適当なところで線引きをしなくてはならない。頭では理解していても、実はそれが難しい。

花束2005年11月27日

昨日はとある理由で、久しぶりに花束をいただいた。
黄色とオレンジ色の花が主体で、ややピンク色がかったクリームイエローの薔薇がアクセントの、大きな花束。
私は花束というものに大変弱い。
自分がもらうのも好きだし、あげるのも大好きだし、花束を持った人を見ると振り返ってしみじみと目で追ってしまうくらい、花束に弱い。
たまにいただいた花束を、飼ってる鳥が蹴倒さないところに飾ると、麻薬的な幸福感に溺れてしまう。
問題は、花束を抱えている私がちっとも絵になるような美しい女性ではないことで、まぁそれはあきらめるしかないのだけど。
(ある程度は努力した方がいいのかな)

花束が咲き続けている間、私は夢に溺れる。花束は、時間が経つと、枯れる。枯れたところで、現実の自分は花のように美しい訳ではないことを思い出す。酔うのが好きな人がお酒を飲むような感覚に近いかも知れない。
私が花束を好きなのは、少しの間、自分が夢のように美しい存在ではないかと錯覚することができるからだ。

絶海孤島発作2005年11月28日

自分の書いた文章に、手応えや他人の反応が全くない時は、深刻ではないにせよ生きる気力は確実に萎える。
まぁ「他人の反応」と言っても、酷評や中傷だったら、今度はもっと深刻に死にたくなるだろうから、これもなかなかわがままな話ではあるのだけれど。
こういう時は、だあれもいない絶海の孤島にひきこもって、波の音だけを頼りに暮らしていきたくなる。
私は孤独に強い人間なのか、弱い人間なのか、よくわからない。
たぶん、最高の人間関係を求め、それがないなら人間関係などいらないと思う、極端なタイプの人間なのだろう。
誰からも連絡がなく、しんしんと孤独のもたらす痛みに向き合い、それが痛みではなくひとつの恵みになった頃に、仕事の連絡が来たり、セールスの訪問があったりすると、心底がっくりする。誰も連絡してこない島で、誰も連絡してこないことを前提と基盤にして、暮らしたくなる。
そんなことを実行することは、少なくとも鳥と軽鴨の君が生きている限りは、ないだろうけれど。

何かを見るたびに、誰かを思い出し、それをその相手に伝えたくなるけれど、そんなことを本当に実行していたら、ストーカーどころの話ではなくなるので、それはしない。こういう人間が一歩間違うと、非常に生きにくくなるのだろうなぁとは思う。

平和都市2005年11月29日

先日、厳島と広島へ旅行に行ってきた。と言っても、自分で計画した旅行ではなくて、実家の家族旅行のお供である。

最終日は当然というか、広島市にある原爆ドームと平和祈念館の見学だった。
正直に言って、私はこの旅行の中で最も気が進まないのが、この最後の行程だった。それまで明るく心地よく「観光」というモードに合わせてきた気分で、この二つを訪れるのは、気が引けるどころの話ではない。今生きているという、まさにそのことが、死者にとっては憎しみなのだと思うと、むしろ安易に足を向けないことこそが礼儀ではなかろうか、と悄然とした気持ちになる。
とは言え、旅行の行程は私が決めるものではなかったので、結局はその二つに足を踏み入れることになった。

原爆ドームを永久保存しようという試みもなされているという。負の意味で、世界遺産に認定されたこの跡。
骨組みだけとなった屋根を見上げて、私は思った。この建物が、常に身近に在る環境で暮らし、生きていくということは、人間の心にどのような影響を及ぼすのだろう。

前日に広島市を散策した時にも思ったのだけれど、広島市というのは、観光としてはとても難しいまちなのだ。
作家の清水義範は、以前広島を指して「文句のつけようのない大都市だけれど、何もない」と称した。それは悪口ではなく、こだわりがない、という意味の表現だ。そしてその後で述べるのだけど、それは結局のところ、かつての歴史ある街並みが全て原爆によって焼き尽くされて、ゼロから再出発したためなのだ、という結論に達し、複雑な思いを抱く。
人間が「観光」をしようと思った時、求めるのは明るく楽しくワクワクするような非日常性のようなものだ。確かに、広島という都市には、今ひとつ、「観光都市」に必要な非日常性が欠けている。
その代わり、有無を言わさぬ絶対の「非日常」として、原爆が、在る。
そういう意味では、原爆というものは全く「観光」向きではないし、また観光にしようなどと思うこと自体が罪悪である。ものすごくネガティブな存在なのだ。

もしも広島が、今は人が住まない土地であるなら、話はとても単純だったと思う。原爆ドームやその一帯を完全に保存し、消してはいけない傷痕として、人間に多くのことを考えさせる記念碑として、いつまでも置いておくことが可能だったろうし、またそうしなくてはならなかっただろう。
だが広島は、今100万人以上のひとが住まい、暮らしている都市である。そして地方都市のひとつとして、観光も大きな産業として盛り立てていかねばならない。
今も生きて躍動する都市が、これほどまでにネガティブな記念碑を、常に抱え続けて発展しなくてはならないというのは、何とも難しいだろうと思ってしまうのだ。
仮に私が広島に住んでいたら、毎日、このドームを見るたびに、自分が生きて楽しく暮らしているまさにそのことに罪悪感を抱き、人間に対する嫌悪感を深めてしまいそうな気がする。そこを見据え、それを乗り越えることが必要だとは、痛いほどわかっているのだけれど。

よく出てくるジンクスだけれど、「○○してはいけない」「○○しないように」と言われると、否定されている○○のところだけが脳裏に残ってしまって、かえってそちらを招き寄せてしまう、という。
「原爆は反対」「戦争をしないように」と訴えるのは、目的はこの上なく正しいけれど、やはりネガティブキャンペーンであって、私が広島という都市、そして平和公園に対して足を向ける気持ちになれないのは、本質的にネガティブキャンペーンというものは、私に希望を与えるものではないからなのだろう。

もしも私が、広島市の行く末を決めるということになったら、「原爆反対」ということよりも、平和がどれほどよいもので、人類の発展には欠かせなくて、平和な方法で紛争を解決するためにはどのようなことを考えていくべきか、という話を前面に打ち出すだろう。原爆の悲惨さは、あくまで材料のひとつにとどめるだろう。
悲惨だから原爆に反対するのではなく、もっといい方法があるのだからそちらを積極的に推進しようと訴えるだろう。

だがこの発想は恐らく、戦争も原爆も本当の意味では知らない、気楽な平和ボケの人間のものだ。
私は永遠に、広島の行く末を決定することに関わらないだろうし、また関わらないことに広島全市民は安堵することだろう。
それでも、私が戦争や核兵器を忌み嫌い、憎むことは変わりはないけれど。

政治2005年11月30日

恐らく、マイナーな正論、というものがあるのだろう。
それはつまり、大きな声に出しては反対する人は少ないが、今の日本で実行したり現実化したりとなると有形無形の様々な障害が出てくるタイプの正論だ。
たとえば環境問題。たとえば同性愛をはじめとしたマイナーな恋愛形態。たとえば一夫一妻家長制度から外れた家族。たとえばジェンダーフリー(ジェンダーレスとは違うので念のため)。たとえば人種差別撤廃。たとえば隣人愛。たとえば……まぁこの辺にしておこう。
それらマイナーな正論が本当に正論なのか、マイナーなのか、という精査はしばらく置いて、こういった論を己の中に持ち、それに正直に生きようと思うと、人生はなかなかチャレンジャブルなものにならざるを得ない。
その中で生きるために、多くの人は確固たる信念を持ち、なまなかなことでは妥協せず、がんばりぬく強さ固さを身につける。というより、身につけることを余儀なくされる。

問題は、そういった「正論」を心に持つ人は、善かれ悪しかれある程度心を強く固くせざるを得ないので、微妙に異なる正論同士がぶつかった時に、とても深刻な結果を招きがちだ、ということだ。

人類のより良い未来について考える良識ある人々が、活動の在り方や考え方の違いをめぐって痛ましい争いを繰り広げるところを何度も見てきた。スクエアな人が現れれば、逆のベクトルでスクエアな人が対抗する。中庸が最も賢いやり方という点では誰もが賛成するだろうが、「どこが中庸であるか」は人によって異なるために、なかなか決着点は見えない。
政治というのは、そういった立場信条の異なるたくさんの声を調整していく術(あるいは学問)だけれど、どこかうさんくさい目で見られるのは、多くの人が心の中で、「世界が全て私の思う通りに動けば必ず最善になるのに」というつぶやきを知らずこぼしているからなのだろう。誰もがちょっとずつ不幸になって、全員の大きな幸福を目指すのが、政治なのだから。

全ての人が相手の気持ちと立場を思いやり、相対性をもって自らの思想信条を振り返ることができれば、争いというものは半分くらい減るのかも知れないけれど、全ての方向に力がかかれば結局運動エネルギーがかき消えてしまうように、自分の中にある種の絶対性を持たなければ、何かをなしえることは難しい。
そしてマイナーな正論を持つ人間は、今の日本の社会では、生きていくことそれ自体が妥協の連続なので、そこで忍耐力をかなり消費してしまっているのかも知れない。メジャーな正論を疑問なく己のものにできる人には、想像もつかないことだろうけれど。

田中芳樹はヤン・ウェンリーの口を借りて、政治を汚水掃除人にたとえたけれど(記憶で書いているので違うかも知れない、あらかじめ断っておく)、考えてみればそれはある意味では正しいけれど、何ともお気楽というか、本当に政治に関わったことも政治が必要な場面に遭遇したこともない人間の放言という気もする。
政治や政治家を罵りこき下ろすのは、手軽なガス抜きだけれど、もしかしたら意外と深刻な反作用がある行為なのかも。それよりは、よい政治というものを、ある程度は具体的にイメージする方が建設的かも知れない。

それができれば、苦労はないのだけれどね。なかなか。